デジレ・クラリー

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デジレ・クラリー
Desiree Clary
スウェーデン王妃
Desiree Clary2.jpg
ジェラール画、1810年
在位 1818年2月5日 - 1844年3月8日
別号 ノルウェー王妃
ポンテコルヴォ大公妃
全名 ベルナルディーヌ・ウジェニー・デジレ・クラリー
Bernardine Eugénie Désirée Clary
出生 1777年11月8日
Flag of Royalist France.svgフランス王国マルセイユ
死去 1860年12月17日
スウェーデンの旗 スウェーデンストックホルム
配偶者 カール14世ヨハン
子女 オスカル1世
王家 ベルナドッテ家
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デジレ・クラリー1777年11月8日 - 1860年12月17日)、全名ベルナルディーヌ・ウジェニー・デジレ・クラリー(Bernardine Eugénie Désirée Clary)、スウェーデンデジデリア(Desideria av Sverige)は、ベルナドッテ王朝の始祖であるスウェーデン=ノルウェーカール14世ヨハンの王后、オスカル1世の母、ナポレオン・ボナパルトの元婚約者。フランス皇后になり損ねたがスウェーデン王妃になった女性、「ナポレオンの永遠の恋人」と言われている。

目次

生涯 [編集]

ナポレオンの婚約者 [編集]

デジレは1777年、マルセイユの裕福な商家であったクラリー家の末娘として生を受ける。

1792年、ボナパルト家がマルセイユにやってくると、ナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルトとデジレの姉マリー・ジュリーの間で縁談がまとまった。デジレとナポレオンはこの時知り合ったと見られる。以来デジレはナポレオンの婚約者として振舞ったものの、ジョゼフとマリーの結婚ではクラリー家の持ち出しがかなり多かったらしく(ボナパルト家はコルシカ島を着の身着のまま追い出されたような形で、当時無一文に近かった)、これ以上ボナパルト家にくれてやるものは無いと、デジレの父親の反対は大きかったらしい。

1793年、ナポレオンはトゥーロン攻略戦で武名をあげる事に成功するも、デジレが若すぎた事もあり、この時の結婚は無かった。さらに翌1794年、テルミドールのクーデターでナポレオンが連座して逮捕されるが、1795年パリ王党派によるヴァンデミエールの反乱が起こると、総裁バラスの副官に抜擢されたナポレオンは、兵力の劣勢にもかかわらずこれをまたたく間に鎮圧。一躍「ヴァンデミエール将軍」として祭り上げられる。ナポレオンと後のフランス皇后となるジョゼフィーヌ・ド・ボアルネとはこの頃知り合ったと思われる。

デジレとナポレオンはマルセイユとパリの間で恋文を交換するが、ナポレオンからの返事は次第に途絶えがちとなり、翌1796年、デジレに対し何の報告も無いままナポレオンはジョゼフィーヌと結婚。デジレにとっては婚約を反故にされた形となった。

ベルナドットとの結婚 [編集]

その後、出会いは明らかではないが1798年、デジレはフランス陸軍将軍でナポレオンのライバル、ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドットと結婚する。この結婚により、ベルナドットはクラリー家を通してボナパルト家の間接的な姻戚となったわけである。この背景には、ナポレオンの兄弟たちが、有能で民衆の人気もあったベルナドットをなんとか味方に引き入れようと、密かにふたりが惹かれあうように演出したのではないかという説もあり、実際に翌1799年、ナポレオンがブリュメールのクーデタを起こして政権を奪取した際には、ベルナドットは中立の立場を取ってクーデタを静観している。ともあれ、ふたりは同じ1799年に1男オスカルを儲けている。

しかし、姻戚関係になったからといってベルナドットのナポレオンに対するライバル意識は消えたわけではなく、またジャコバン派であるがゆえに彼はナポレオンの権力志向に対してあからさまな嫌悪感を抱き続けていた。それでもナポレオンにとっては、終生デジレに対して婚約を反故にしたという負い目が消えなかったらしく、ベルナドットが1800年に第二次イタリア遠征時のマレンゴの戦いの前後に新政権を狙った際も、事を穏便に済ました。その後、フランス第一帝政下ではこれといった軍事的功績もないまま、ベルナドットを陸軍元帥に推挙し、ポンテコルヴォ大公に封じている。イエナ・アウエルシュタットの戦いの際にベルナドットが決定的な大失態を犯し、軍法会議にかけられそうになった際も、デジレの取り成しによってナポレオンは執行寸前の命令文書を破り捨てている。ナポレオンは、イエナの戦いの頃からベルナドットの背信が始まったと述懐しているが、これは失態と言うよりも戦術的に不可抗力であったから、軍法会議はナポレオンの一方的な策略であったと現在では捉えられている。ベルナドットを不審視するナポレオンは、イエナ・アウエルシュタット後のプロイセン追撃戦におけるブリュッヒャー将軍の捕縛に関しても戦功とは見なしていなかった。

一方デジレにとっては、元婚約者のナポレオンが第一統領終身統領フランス皇帝と出世し、ジョゼフィーヌがフランス皇后となるにつけ、心中穏やかではなかった上に、ナポレオンの兄ジョゼフと結婚したデジレの実姉マリーはナポリ王后、スペイン王后になったので、大変な劣等感を抱いていたことは想像に難くない。この当時のデジレの称号は「ポンテコルヴォ大公妃」に過ぎなかった。

スウェーデン王妃 [編集]

1809年に夫ベルナドットがスウェーデン王位継承候補者となったことは、デジレの、そしてフランスの運命を大きく転換する出来事であった。ナポレオンの玉座の前に進み出て「スウェーデンの要請を受け入れる旨許可してほしい」と願い出たベルナドット夫妻に対し、ナポレオンはデジレに対する贖罪の気持ちも込めて、ベルナドットがスウェーデン王位継承者となることを許諾した。

ベルナドットはスウェーデン入りに際して、同国議会の要請に応えてスウェーデンの国教であるルター派に改宗したが、デジレは改宗を拒否している。ベルナドットは1810年に王太子・摂政となって執政を開始した。デジレが息子オスカルとともにパリからストックホルムに移ったのは翌1811年のことである。しかしデジレは、フランスとは気候も風土も文化も異なるスウェーデンになじめず、またこの時期のスウェーデンの冬が異常に寒かったこともあって、半年ほど後には夫と息子を後に単身パリへ戻った。翌年、ベルナドットはフィンランドロシア皇帝アレクサンドル1世と会談をしているが、その際アレクサンドルはベルナドットのことを殊の外気に入り、男やもめ同然の彼に自らの妹との縁談をもちかけたが、ベルナドットはやんわりとこれを断っている。

同年ロシアがフランスに対して反旗を翻すと、スウェーデンもこれに呼応。これがナポレオンの帝国を崩壊させるきっかけとなる。ナポレオン退位後はその縁者としてヨーロッパ各地の王位や大公位に即いていた者たちは、ベルナドット家を除いて全てその地位を失った。一方スウェーデンは1814年のウィーン会議でノルウェーを獲得、これを同君連合とした。そして1818年、ベルナドットはスウェーデン=ノルウェー王カール14世ヨハンとして即位した。

1823年に王太子オスカルが元フランス皇后ジョゼフィーヌの孫娘にあたるジョゼフィーヌと結婚したのを機に、デジレは再びストックホルムに移り住んだ。デジレはスウェーデン国民から大歓迎を受け、その後も国母として敬愛された。夫カール14世ヨハンは1844年に死去したが、王位を継承した息子オスカル1世も1859年にデジレに先立って死去し、すでに摂政を務めていた孫のカール15世が即位した。翌1860年、デジレは83歳で死去した。デジレの最後の言葉は、「ナポレオン」であったとも言われている。カール14世ヨハンとデジレの子孫の血統は、現在でもスウェーデン王室(ベルナドッテ家)として続いている。

デジレの死後、彼女の枕の下からかつてナポレオンに宛てて書き送った恋文の下書きが何枚も発見されたという。この事から解るように、デジレは生涯ナポレオンを敬愛し続け、一方でスウェーデン王妃という華やかな地位を敬遠し続けたという。

デジレは温和ではあったが、父親の反対を押し切ってまでナポレオンと結婚するほどの意志の強さはなく、もしナポレオンがデジレと結婚していたら、彼は小成に甘んじていただろうともいわれる。

デジレ・クラリーを取り上げた作品 [編集]

映画
漫画

小説

  • 『デジレ物語』1955年 A・セリンコ 植田敏郎訳 鎌倉書房

関連項目 [編集]