ジョルジェット・ルブラン
ジョルジェット・ルブラン(Georgette Leblanc, 1875年2月8日 - 1941年10月27日)は、フランスの声楽家(ソプラノ)・女優。小説家モーリス・ルブランの妹。
オペラ歌手として名を揚げ、とりわけジュール・マスネの諸作品やビゼーの《カルメン》の解釈で知られた。ベルギー象徴主義の劇作家で詩人のモーリス・メーテルランクとは長年にわたって愛人関係にあり、メーテルランクの戯曲のいくつかは彼女のために書かれている。メーテルランクの戯曲『アリアーヌと青髭』(1899年)と、それを原作とするポール・デュカスの抒情劇《アリアーヌと青髭》(1907年)の両方においてヒロインを演じた。1924年の『人でなしの女』(L'Inhumaine)でも知られているように、映画俳優の先駆者でもあった。晩年は作家に転向して、商業的に成功した2つの自叙伝のほか、児童書や紀行文も手懸けた。両性愛者だったとされている。
経歴 [編集]
ルーアン出身。各種の芸術を重視する教養人の家庭に生まれ、音楽や演技、作文を奨励されて育つ。当初は短期間パリの舞台で女優として立つが、やがてジュール・マスネに音楽の指導を受ける[1]。1893年11月23日にオペラ=コミック座において、アルフレッド・ブリュノーの《風車の攻撃(L'attaque du moulin)》のフランソワーズ役でオペラ歌手として初舞台を踏んだ。その後まもなくオペラ・コミック座でジョルジュ・ビゼーの《カルメン》のカルメン役を演じている。1894年にはブリュッセル・モネ劇場にデビューしたのをきっかけに、その後3シーズンにわたって出演を続け、《ナバラの娘》のアニータ役や、《カルメン》とマスネの《タイス》のタイトルロールを演じている[2]。
1895年にブリュッセルで戯曲家のモーリス・メーテルランクと出逢い、その後23年にわたって恋愛関係を築いた[2]。同年ふたりはパリのパシー地区に移ると、かなり大っぴらに同棲を始め、カトリックを信仰するそれぞれの実家を落胆させた。ルブランは数年前にスペイン人男性と結婚しており、ローマ・カトリック教会から不幸せな結婚生活から離れることを許されていなかった。ルブランとメーテルランクの住まいは、芸術家にとっての中心地となり、オクターヴ・ミルボーやジャン・ロラン、ポール・フォールらがしばしば二人の住居で歓待された。二人は夏の避暑地としてノルマンディーにも家を構えていた[3]。
ルブランは、1896年の『アグラヴェーヌとセリゼット』を手始めに、数多くのメーテルランクの演劇に出演するようになった。そのいくつかの登場人物は特に彼女のために創り出されたか、あるいは彼女の性格に基づいている。パリの数々のリサイタルや演奏会にも出演し、シューベルトやシューマンのドイツ語リートを、メーテルランクの翻訳によってフランス語で歌った[1]。パリではオペラにおいても活躍しており、1897年にジュール・マスネの《サッフォー》のファニー役でオペラ=コミック座に登場した。その後1903年に、《サッフォー》のアリアのいくつかをマスネ自身のピアノ伴奏で録音している[2][4][5]。
1893年8月からメーテルランクは、クロード・ドビュッシーの抒情劇《ペレアスとメリザンド》の作曲に協力を始める。このオペラは同名の戯曲に基づいており、当初はメーテルランクによって、初演のメリザンド役にルブランが指名されていた。だが1902年の初演では、ドビュッシーによってメアリー・ガーデンに変更されていた。この事態にメーテルランクは憤り、自分の愛人がメリザンド役から追い落とされたことについて、ドビュッシーに対して法的な処置や物理的な暴力に訴えるとして威嚇した。ルブランは、メリザンド役こそ逃したものの、1907年にポール・デュカスの《アリアーヌと青髭》の世界初演でアリアーヌ役を歌った。奇しくも1899年には、同名の原作でもアリアーヌ役を演じていた[2][4]。
1906年にルブランとメーテルランクはグラスに転居するが、二人の仲は困難を迎え始めていた。メーテルランクは次第に塞ぎ込むようになり、遂に神経衰弱を患ってしまう。それでもこの頃にいくつかの戯曲を書き上げており、中でも1907年の『マリー=ヴィクトワール』(Marie-Victoire)と1910年の『マグダラのマリア』の2作品は、ルブランが主役として構想されている。ルブランは、1912年から1913年のシーズンで、モンテカルロ歌劇場やニューヨークのマンハッタン歌劇場に出演しており、1912年に《ペレアスとメリザンド》のボストン初演において漸くメリザンド役を演じることができた。ボストンでは、戯曲『ペレアスとメリザンド』のメリザンド役も披露しており、また4つの歌曲をコロンビア・レコード社に吹き込んでいる。1914年にルブランとメーテルランクは、グラスを離れてニースの近郊に移り、1915年にルブランは、シェイクスピアの『マクベス』がフランス映画に翻案されると、マクベス夫人役で出演した。メーテルランクとは4年間同居を続けたが、1918年に女優のルネー・ダオンとメーテルランクの交際が明らかとなると、ルブランとメーテルランクの仲は終わりを迎えた[6]。
メーテルランクとの関係が破局してからも、1920年代を通じてメーテルランクの演劇の舞台に立ち続けたが、声楽家としての活動はとっくに終わりを告げていた[1]。1920年代から1930年代にかけて著名人と浮名を流し、ギリシャ系アルメニア人の神秘主義者ゲオルギイ・グルジエフとも一時期交流があり、同じくグルジェフの弟子だったマーガレット・アンダーソン(Margaret Caroline Anderson)とも親密に交際した。この二人が、ルブランの生涯最後の15年間における愛人だったのではないかと臆測する研究者もいる。パリの芸術家の間では相変わらず持て囃されており、周知のようにジャン・コクトーやマルセル・レルビエと親交を結び、後者の映画『人でなしの女』(L'Inhumaine, 1924年)に主演した[7]。1930年に『回想録』(Souvenirs, 1895–1918)を出版して、メーテルランクとの仲を釈明した[2]。さらに自叙伝や数点の児童書や紀行文も執筆した。女性の愛人には、マチルド・デシャン(Mathilde Deschamps)、モニク・セリュール(Monique Serrure)などの名も挙げられる。
1941年にアルプ=マリティーム県カンヌに歿し、ノートルダム・デ・ザニェス霊園においてマーガレット・アンダーソンの傍らに埋葬された[7]。
註 [編集]
- ^ a b c Biography of Georgette Leblanc on Operissimo.com (in German). Accessed 31 January 2009.
- ^ a b c d e Elizabeth Forbes: "Georgette Leblanc", Grove Music Online ed. L. Macy (Accessed January 30, 2009), (subscription access)
- ^ Bettina Knapp, Maurice Maeterlinck, (Thackery Publishers: Boston, 1975), 87-92.
- ^ a b Knapp, 87-92.
- ^ historic opera.com
- ^ Knapp, 129, 147-150.
- ^ a b Griffin, Gabriele. Who's Who in Lesbian and Gay Writing. Routledge, 2002.