ゲオルギイ・グルジエフ

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ゲオルギイ・グルジエフ(1922年)

ゲオルギイ・イヴァノヴィチ・グルジエフ(Георгий Иванович Гурджиев, George Ivanovich Gurdjieff, 1866年1月13日? - 1949年10月29日)はアルメニアに生まれ、一般に「ワーク」として知られる精神的/実存的な取り組みの主導者として、および著述家・舞踏作家・作曲家として知られる。ロシア、フランス、アメリカなどで活動した。

ギリシャ系の父とアルメニア系の母のもとに当時ロシア領であったアルメニアに生まれ、東洋を長く遍歴したのちに西洋で活動した。20世紀最大の神秘思想家と見なされることもあれば、怪しい人物と見なされることもあるというように、その人物と業績の評価はさまざまに分かれる。欧米の文学者と芸術家への影響、心理学の特定の分野への影響、いわゆる精神世界や心身統合的セラピーの領域への影響など、後代への間接的な影響は多岐にわたるが、それらとの関係でグルジエフが直接的に語られることは比較的に少ない。人間の個としての成長との関係での「ワーク」という言葉はグルジエフが最初に使ったものである。近年ではもっぱら性格分析に使われている「エニアグラム」は、史実として確認できるかぎりにおいて、グルジエフがこれを世に知らしめた最初の人物である。精神的な師としての一般的な概念にはあてはまらないところが多く、弟子が精神的な依存をするのを許容せず、揺さぶり続ける人物であった。

グルジエフという名前は生来のギリシア系の姓をロシア風に読み替えたものであり、表記としては「ジェフ」も一般的であるが、ここでは便宜上、参考文献の題名も含めて「ジエフ」に統一した。

目次

グルジエフの生涯 [編集]

グルジエフは、ギリシア系の父、アルメニア系の母のもとにアルメニア(当時ロシア領)のアレクサンドロポル(ギュムリ)に生まれた。生年については、公文書上の記録が一貫しないために諸説があるが、伝記作家のジェイムス・ムアはこれを1866年としている。

グルジエフは少年時代のこととして、父から受けた独自の教育について語っている。父は裕福な羊飼いだったが、牛疫によって多くの羊を失い、経済的な困窮のなか、小さな木工場を立ち上げる。グルジエフは少年時より、家業を手伝うとともに、各種の工芸や小規模の商いをもって生計を助けた。

グルジエフの生い立ちをめぐるこのような基本的な事項や家族に関係することは近親者の証言によって確認されているが、その後のこととして、グルジエフが1910年代にロシアにあらわれるまでの前半生は、グルジエフの三冊の著作[1, 2, 3]における自伝的な記述からしかうかがい知ることができない。しかし、それらの自伝的な記述は物語の一部でもあり、すべてを事実として読ませるように意図して書かれたとは受け取りにくい。したがって、グルジエフの前半生に関する以下の記述をどの程度まで物語的なものと受け取るかは各人に任されている。

父は吟遊詩人でもあり、グルジエフの自伝[2]によると、父からギルガメシュ叙事詩を聞かされたことが「失われた古代の叡智」への関心のひとつのきっかけとなった。ロシア、ペルシャ、トルコが国境を接し、宗教と民族が混交するこの地で少年時代を送るなか、グルジエフはいくつかの不思議な現象を目撃し、それはやがて人間の生の意味をめぐる探求への衝動になった。

グルジエフの家族はやがて、1877年の露土戦争後にロシア領となりロシアが要塞の建設を進めていたカルスへと移る。グルジエフは、そこで学校に通い、医者もしくは技師になることを目指して勉学に励むとともに、聖歌隊の一員となり、カルス陸軍大聖堂のボルシュ神父を最初の師として、精神的な事柄への関心をさらにつのらせ、やがて近傍の聖地や遺跡などの探訪を始める。

これも自伝によると、グルジエフは友人とアルメニアの古都アニの廃墟で、伝説的な教団の実在を示唆する古文書を掘り出し、これがアジアとオリエントの辺境をめぐる長い旅の最初のきっかけとなった。自伝によると、友人のポゴジャンを伴った最初の旅は、アルメニア民族運動を支援する結社からの密使としての役割を引き受けることで実現され、旅の途上での偶然の発見から、ふたりは旅の目的地を変更し、エジプトへと向かう。グルジエフはそこで、みずからと目的を同じくする年配の探求者、プリンス・ルボヴェドスキーとスクリドロフ教授に出会う。

グルジエフは、みずからと目的を同じくする仲間たちと「真理の探求者たち」(Seekers of Truth)というグループを結成し、中央アジアの奥地などへの探検行をくりかえし、古代的名叡智の痕跡や隠された教えの源泉を求めて、遺跡の発掘にあたったり、隠された僧院や精神的な共同体をめぐったりし、さらには伝承・象徴・音楽・舞踏などの研究にもあたった。

グルジエフは、人間の精神に見られる各種の不可解な傾向の解明に資するものとして、催眠という現象に注目するようになる。グルジエフは、この現象をめぐる卓越した知識と技量ゆえに「魔術師」を演じることもあったとされるが[2]、この関心の背後には、顕在意識と下意識の間での分断と、両者間の隠れた関係を探るという目的があった[1]。

それはまた、とくに戦争や内乱などのなかで顕著にあらわれる集団心理への脆弱性(suggestivity)に関する研究でもあった。グルジエフが語るには、この放浪の時代に好んで動乱の地にみずからを置いたのは、人間の集団心理の異常性をめぐる謎の解明を目指してのことであった。グルジエフは、ここにおいて、みずからの探求の目標が二つになったと語っている[3]。

  1. 人間にとっての生きることの意味と目的をあらゆる側面から究明し、それを正確に理解すること。
  2. 人々を容易に「集団催眠」の支配下に陥れる要因としての「外部からの影響への弱さ」を人々から取り除くための手段なり方法なりをどんな代償を払ってでも見つけること。

グルジエフはその前半生において、三回にわたって被弾し、瀕死の重傷を負ったことを回想している[3]。それによれば、一回目は希土戦争 (1897年)の1年前のクレタ島で、二回目は1903年にイギリスによる侵攻を受ける1年前のチベットで、三回目は1904年に内乱のなかにあるトランスコーカサス地方で起きたという。

このような記述は危険な任務を想像させ、グルジエフが外部的な支援や政治的な保護にまったく頼らずにこれらの探検行を実現できたとも考えにくいため、アルメニア人あるいはギリシア人の民族運動との関係、イギリスとロシアとの間でのアジア支配をめぐるグレート・ゲームとの関係、あるいはダライラマ13世との関係でグルジエフが果たしたかもしれない役割については憶測が絶えず、複数の研究家が自説を発表しているが、決定的な確証には乏しい。

1912年、グルジエフは遍歴の時代を終え、モスクワで小さなグループを指導するようになる。また、同年にユリア・オストワスカと結婚する。やがてサンクトペテルブルクでも活動するようになる。

1915年、グルジエフは、すでに神秘思想家として名の知られていたピョートル・ウスペンスキーに出会う。1916年、音楽家のトーマス・ド・ハートマンがグループに加わり、グルジエフとともに数々のピアノ曲の作曲にあたった。

このころのグルジエフは、みずからの教えを理論的にまとめあげることに力を入れ、のちにウスペンスキー『奇跡を求めて』に収録されて一般に知られるようになった理論や概念は、このころのグルジエフの講義に基づいている。

1917年、ロシア革命が勃発した。グルジエフはコーカサス山中のエッセントゥキに移り、7月から8月にかけて、そこに十数人の生徒たちを集めて、身体的な性格を増した訓練を指導する。

1918年、アレクサンドロポルに留まっていたグルジエフの父がトルコ軍に射殺される。同年の夏までには、ロシア国内の内戦がエッセントゥキにも波及する。グルジエフは「インダク山に金鉱を発見するための科学的探検」を偽装して、政府から許可と物資の提供を受けると、同年の8月6日、妻と主要な弟子たち(ウスペンスキーは含まれない)を連れて、エッセントゥキを脱出する。一行は、その途上で武装勢力に足止めをされたりなどの危険を冒しながらも、5回にわたり前線を越え、徒歩でコーカサスを越えて、黒海沿岸の保養地であるソチにたどり着く。

ウスペンスキーは、グルジエフの思想に強い執着をもっていたが、グルジエフの主導する取り組みが現実的あるいは身体的な性格を増すなか、不満をつのらせるようになる。

1919年、グルジエフはグルジアのチフリス(トビリシ)に活動の拠点を移し、学院を設立する。アレクサンドル・ド・ザルツマンとその妻のジャンヌ・ド・ザルツマンがグループに加わり、舞台芸術の分野で造詣の深い同夫妻の協力を得て、グルジエフはこの夏、のちにムーヴメンツと呼ばれるようになる神聖舞踏の初めての公演をする。

1920年、グルジアの情勢も不穏なものとなる。5月、グルジエフは妻および30人ばかりの主要な弟子を連れて、チフリスを徒歩で脱出。ふたたびコーカサスを越え、黒海沿岸のバトゥムの港に着く。そこから一行は船でコンスタンチノープル(イスタンブール)に向かう。

グルジエフは、コンスタンチノープルで小規模ながら学院の再開を試み、活動を展開する。また、作曲家のトーマス・ド・ハートマンやウスペンスキーを連れて、スーフィーの修行場を訪れたりしたことが記録されている。ウスペンスキーはグルジエフの一行とは別行動でコンスタンチノープルに到着していたが、グルジエフとの関係は優柔不断なものであった。

1921年8月、グルジエフの一行は、コンスタンチノープルを離れてベルリンに向かう。グルジエフの舞踏の一部のレパートリーと似た性格をもつ「リトミクス」の創始者であるエミール・ジャック=ダルクローズからの招待を受け、ドイツに学院を設立することが当初の目的であった。不動産の取得をめぐる法律的な問題からこの計画は思うようにいかなかった。

1922年の2月と3月、グルジエフは二度にわたりロンドンを一時的に訪問するが、ここにおいてウスペンスキーとの間での対立は決定的なものとなった。やがてウスペンスキーは、イギリスとアメリカにて、グルジエフの名前を表に出すことなく、グルジエフから教わったことに基づく一種の体系を独立して教えるようになる。

1922年7月、グルジエフの一行はパリに移る。同年の秋、トルコ軍によるアルメニア人大虐殺により、グルジエフの妹のひとりであるアンナとその子供たちが犠牲となる。

1922年秋、グルジエフは、パリ近郊のフォンテーヌブローにある歴史的な城館、シャトー・プリオーレに居を定める。グルジエフはここで「人間の調和的発展」のためのメソッドの実践的な追求を本格的に始めた。肉体労働、音楽、舞踏、講義など、多彩な活動が展開された。

学院が本格的な活動に入った直後、ニュージーランド生まれの著名な作家であるキャサリン・マンスフィールドが学院を訪れる。彼女は結核の末期にあったため、グルジエフは彼女が学院に滞在することを最初は断るが、それによる彼女の落胆ぶりを見て、彼女からの再度の願いを受けてこれを認める[4]。1923年1月12日、彼女は学院で生涯を終える。

その日は偶然、グルジエフが生徒たちを指揮して学院の敷地に建設した「スタディハウス」の落成を祝う日であった。飛行船格納庫の廃材を利用して建設され、東洋風の絨毯や織物で飾り付けられたこの建物は、グルジエフが各地に伝わる様々な神聖舞踏を組み合わせて独特なものにまとめあげたものである「ムーヴメンツ」の練習と演舞に使われた。その演舞は、身体の複数の部分の独立した動きの統合や頭の働きと体の働きの協和を要し、特殊な芸術であるとともに心身の調和的発展に向けての挑戦となることが意図されていた。

グルジエフの思想はヨーロッパの知識層に知られるようになり、とくにイギリスとアメリカの作家や芸術家の間での反響が大きかった。学院の活動はジャーナリズムの関心を呼び、当初、その内容は興味本位ではあっても基本的に好意的なものであったが、キャサリン・マンスフィールドがそこで死を迎えた怪しい学院という、悪意ある風評にもさらされるようになった。

1924年、グルジエフはアメリカに渡り、ムーヴメンツのデモンストレーションや講演で注目を集める。しかし同年、自動車事故で重傷を負い、やがて学院の閉鎖を宣言する。怪我から回復したグルジエフは、外面的な活動を大幅に縮小し、執筆に力を注ぐようになる。『ベルゼバブの孫への話』に始まる三部作はAll and Everythingと題され、宇宙、人間、意識、生命に関わるほとんど「ありとあらゆる」問題を扱ったものである。これらが正式に出版されたのはグルジエフの死後である。

1926年、妻のユリア・オストワスカを癌で失う。時期を同じくして、プリオーレに暮らしていた母もなくなる。ふたりはフォンテーヌブローに隣接するアヴォンの墓地で、キャサリン・マンスフィールドの眠るそばに葬られた。

グルジエフはヨーロッパでの最初の試みで、ヨーロッパの知識人たちや自分のそれまでのアプローチに絶望したようであり、自動車事故の後、古い弟子たちの多くと関係を断ち、執筆に専念する。しかし、アメリカを頻繁に訪れるようになり、パリではやがて、ソリタ・ソラノやキャサリン・ヒュームをはじめとするアメリカの女流作家たち数人のグループを相手に新しいアプローチを試しだす。

このようにして、1930年代の後半までには、ロシア時代やプリオーレ時代のワークとは趣が異なるグルジエフ晩年のワークのアプローチが生まれてきた。その一方で、欧米の一部の知識人との間での亀裂は深まり、すでに離反していたウスペンスキーや他の知識人を中心として、グルジエフに由来する思想をグルジエフのその後の方向性とは切り離して広めようとする動きがいっそう強まった。

1940年6月から、パリはドイツ軍の占領を受ける。グルジエフは占領下のパリに留まり、凱旋門の近くにある自宅のアパルトマンで、ジャンヌ・ド・ザルツマンを中心とする小さなグループでワークを主導するようになった。グルジエフは執筆を打ち切り、現在では「サーティナイン・シリーズ」として知られる一連のムーヴメンツの創作を始める。『ベルゼバブ』の朗読、内的なエクササイズへの取り組み、ムーヴメンツの稽古などを主体とする集まりはだんだんに規模を増していった。

この親密なグループでのやりとりの内容はグルジエフの指示によって克明に記録され、その一部は米国議会図書館に保存されている。その内容は個人に焦点を合わせた具体的な取り組みへの指示や助言が中心であり、グルジエフの活動前期におけるワークとの顕著な違いとして、個人の問題と結び付いた切実な問題を離れての思想や理論をめぐる質疑応答はなく、その方面はすべてを『ベルゼバブ』に一任した形になっている。

グルジエフのパリのアパルトマンでの集まりは会食を伴うのが常であり、戦後ますます数を増していった訪問者らにグルジエフはみずからの手で用意した食事をふんだんにふるまい、「愚者への乾杯」(Toast of the Idiots)として知られる乾杯の儀式を含んだ会食の場での緊張と笑いとユーモアが伝説的な色合いを帯びて当時の弟子たちの手記に描写されている。

終戦とともに、長く遠ざかっていたアメリカとイギリスの弟子たちが、ウスペンスキーのかつての生徒たちも含めてパリのアパルトマンに殺到し、ふたたび活動は広がりを増していった。1949年10月29日、グルジエフはパリのセーヌ河岸のアメリカン・ホスピタルにて逝去する。

出典/参考:

  1. グルジエフBeelzebub’s Tales to His Grandson
  2. グルジエフMeetings with Remarkable Men
  3. グルジエフLife Is Real Only Then, When I Am
  4. T. Tchechovitch Tu l'Aimeras - Souvenirs sur Georgii Ivanovitch Gurdjieff

グルジエフの思想 [編集]

グルジエフの提示した世界観は、人間の存在や宇宙の成り立ちをめぐる独自の概念を含んだいわゆる神秘主義である。だが物理学における量子論の台頭、フロイトやユングの分析心理学の流行といった時流を反映し、唯物論的色彩を帯びた反不可知論的神秘主義とでも呼べるものとなっている。とは言え科学的世界観の対極にある神秘思想であることに変りはない。グルジエフが目を向けたのは、人類全体の福利に関わる問題と個としての人間の進化を追求しているように見せ掛け、自分自身の利益を追求することであった。それゆえグルジエフの思想はグルジエフの利益に直結するものでなければならなかった。

グルジエフの思想が西洋に広まる過程では、一見して取っつきにくいグルジエフの主張や見解をもっと一般に受け入れられやすい体裁にまとめなおそうとする動きが生じたが、グルジエフはこれを支援せず、自らの著書においては、独自の語彙と形式をもって、敢えて理解を困難にしようとした。これは「理解できないものにこそ惹かれる」という人間の心理を利用するためであった。このような戦略は神秘主義の持つ一般的な傾向であり、カルト化する危険性を多分に孕んでいる。

歴史的な経緯として、グルジエフに由来する思想の広まりで大きな役割を果たしたのウスペンスキーだが、1921年以降、カルト教祖的性格を強めるグルジエフに危険性を感じて離脱、前後してグルジエフから学んだ知識を基に自ら教えるようになった。また、グルジエフに由来する思想をアメリカに広めるうえで大きな役割を果たしたA・R・オラージュは1934年に急逝したが、その後、C・ダリー・キングをはじめとする生徒たちの一派は、自分たちがオラージュを通じて学んだグルジエフの教えだけが本物であり、その後のグルジエフは認めないという姿勢をとった。今日では、グルジエフ自身の著作以外は正当なグルジエフ思想とは認めないという主張はカルト信者的な偏狂とされ、グルジエフ自らが残した著作群以外に、他者の客観的な視点から捉えたグルジエフ像を含めて、「グルジエフの思想」と呼んでいる。従って、グルジエフが伝えた世界観が一個人の「思想」と呼ばれるべきものなのかという問題もある。

グルジエフ自身は自らの思想の主旨を次のように言っている。

「読者の精神と感情において、現在の彼が知覚するような幻の世界ではなく、現実の世界の、実証可能にして夢ならざる認識が生まれるのを助ける」[2]

多様な解釈が可能な言葉だが、神秘主義の範疇に入ることは確かである。 次にその神秘主義的世界観を挙げる。

グルジエフは、通常の知識欲や好奇心の背後に心理的な条件付けがあるとし、その突出した追求を有害なものと見なした。その点、徹頭徹尾、啓蒙的な思想家とは対極にある神秘主義者・オカルティストだった。

グルジエフは人間を機械と見做していた。それは人間の活動が外面的に機械的という意味ではなく、人間の活動を規定する内面的な動機が機械のようであるという意味である。機械性は教育やメディアの影響下で条件付けられた心理的機制であり、その点で、彼は現代文明には批判的な見解を持っていた。そして人間は自らの機械性を自覚する事で物事の客観的な理解が可能となり、人類全体が正常に発展して行くと考えた。 彼が使う「自己想起」という言葉は、この心理的機械性をもたらす心の仕組みやその背景となる要因の全体像を理解することに意識を向けることを指す。この機械性の諸相としてグルジエフが挙げるのは、その時々に生じる思いや衝動との「同一化」、その結果として生じる思考や行動における自己矛盾、日常的な顕在意識(conscious)と潜在意識(subconscious)の間での断絶、対外的に現象した人格(personality)と内面的な自己の本質(これが特に「私」と呼ばれる)との不一致、思考・感情・身体の不調和、等である。

機械性に支配された状態は「眠り」に喩えられる。人間は「眠って」いるが故に、実際には機械的に「起こった」だけでしかない出来事を主体的な意思で実行していると思い込んでいる。それがまた「眠り」に拍車を掛ける。それが人類全体としては革命や戦争などの自己破壊的現象を出来(しゅったい)させているのである。グルジエフはこれが単なる個人レベルの意識の鈍りや不注意ではなく、文明そのものが人類を「眠った」ままにさせておくシステムであり、その意味で現代文明は取り分け不自然な状態であると喧伝した。そのラディカルな思想は、当時の進歩的な知識人始め現代文明に懐疑的な人々に受け容れられた。

しかしグルジエフの思想は単なる反文明主義ではない。というのも人類の文明が不自然な状態となる原因として、我々の身体に「クンダバッファー」なる生物学的器官があると主張しているからである。

クンダバッファーは自己防衛的な心の働きと脊髄反射が一体となった器官であり、脊髄を通して頭脳の活動を反射的に「眠り」の状態にする。つまり人類の身体には現実からの衝撃を回避するための生物学的な装置が備わっているのである。「クンダ」とは背骨を通じて発動される「反射機能」、「バッファー」とは「緩衝機」という意味である[3]。

・眠りと自己想起とワークとムーブメント 客観的な認識を妨げ、思考を歪め、強迫的な行動に人を駆り立てる心の仕組みに関する理論は、20世紀の哲学、社会学、心理学の主要テーマである。グルジエフがそれに着目したのは当然と言える。だがグルジエフの思想に特徴的なのは、クンダバッファーに規定された生物学的本能としての「眠り」は「自己想起」によって克服できると主張している点である。 更にユニークなのは、自己想起は単なる観想ではなく、身体的状態を伴ったものであるという点である。 自己想起を促し、クンダバッファーの支配から自由になる方法が、「ワーク」である。

グルジエフはあらゆる労働がワークになり得ると考えていたが、弟子達にやらせていたのは「ムーブメント」と呼ばれる踊りである。 ムーブメントはイスラム神秘主義(スーフィズム)に伝わる舞踊を基にしたものとされているが、身体に極めて過酷なストレスを強いる動作が特徴で、熟練を要するものである。 グルジエフはアメリカやフランスで、弟子達にムーブメントを興業として公演させ、大金を得ていた。

グルジエフの世界観 [編集]

グルジエフの世界観においては、全体の立場からの合目的性が個の立場からの機械性と拮抗するかたちで提示されている。

全体の立場からの合目的性はグルジエフの独創ではなく、カントが『判断力批判』で提示した「自然の最終目的」「世界の究極目的」「内的合目的性」に追随するものである。それは生命(有機体)の論理として近代哲学の一大テーマであった。しかし19世紀以後、自然科学が生命をも化学や物理学に還元して解明するいわゆる還元主義の立場を採るようになってからは、全体の立場からの合目的性は物活論やアミニズムとされ、否定されるようになった。グルジエフの思想はそんな時代の流れに対して反動と見られるものだった。しかし21世紀の今日、全体の立場からの合目的性は一般システム論として再構築され、当時のグルジエフの思想はそれほど荒唐無稽なものではなくなっている。 例えばグルジエフは、世界は多重構造をしており、各々の世界は原初の「絶対」から流れ出る「創造の光」の退化形態に即して現象していると言い、「絶対」から離れるに連れて各世界を支配する法則の数が増えて行くと考えていた(『奇蹟を求めて』平河出版社)。今日の一般システム論的な考え方でも、複雑性の少ない状態を複雑性の大きな段階から抽出された真理と見做している。

グルジエフは、人間中心的な視点を離れた宇宙的なエコロジーとでも言うべきものに目を向け、宇宙的な規模での食物連鎖もしくはエネルギー収支との関係での「人間の生の意味」、すなわち生命/意識/人間に付与された役割に目を向けた。この視点からグルジエフが提示する宇宙観は、宗教的もしくは哲学的な宇宙観というより、オカルト的な宇宙観に近い。

現代物理学では時間の相対性や可逆性が信じられているが、グルジエフ時間は一方向にしか進まないという前提に立っている。その意味ではビッグバン説初期の宇宙論に近い。一般受けするためには当時の科学的世界観は無視できなかったのである。しかしビッグバン説における無から有の発現については、「絶対」から流出した「創造の光」が、銀河系・太陽系・生態系などを形成して行くプロセスとして説明した。「創造の光」とはパラケルススなどの中世錬金術でお馴染みの概念で、物理学的な表現をすれば高エネルギー低エントロピーの状態のことである。

今日の一般的なエコロジー思想では人類の存続が目的とされるのに対し、グルジエフの宇宙観においては宇宙全体の存続が目的とされる。その背後には、「法則」と表現された宇宙の成り立ちにおける特別の意志とそれに基づいた生命や意識の能動的な働きなしには、万物は一方向的に流れる「時間の作用」による退化を免れることはできないという見方である。 自動的な進化の不可能性と宇宙的な退化の不可避性に関するグルジエフの思想は、19世紀中盤にルドルフ・クラウシウス熱力学第二法則として定式化したエントロピーの法則(エントロピー増大則)に想を得ていたのは間違いなく、今日の一般システム論で説明される宇宙の進化とも矛盾していない。これ一つ見ても、グルジエフは利用できるものは古代の知識でもスーフィズムでも中世錬金術でも科学でも、貪欲に自分の思想に取り込んでいる。今日、新興宗教が信者獲得の戦略として、科学を恣意的に教義に取り入れることがあるが、グルジエフはその先蹤と言える。しかしグルジエフにおいては、「エントロピーの法則」という言葉の代わりに「イェロパス」という独自の造語が使われていたり、「時間の作用」という言葉で物理学的時間とは別の宇宙的エネルギーを表意していたりと、さすが一味違ったものとなっている。

また、

「ありとあらゆる宇宙法則に従ってもろもろのプロセスが展開されることから実際に生じた結果といわゆる『まっとうな論理』に従って確信をもって予想していた結果との食い違い」[6]

といった表現で、今日の複雑系の概念に通じる考え方もしていた。 しかし基本的には神秘主義思想の枠を出るものではなく、現代科学の視点から評価できるような内容はない。

宇宙の全体を構成する複数の部分の間での複雑な相互作用によって全体の存続が実現される仕組みのことをグルジエフは「トロゴオートエグクラット」「トロゴオートエゴクラティックシステム」と呼んだ。この複雑な相互作用を支配して、全体の存続を可能とする法則が「聖トリアマジカムノ(別名・三の法則)」と「ヘプタパラパーシノク(別名・オクターブの法則、七の法則)」である。

グルジエフの宇宙観においては、「我々の知っている宇宙」を現象させている「創造の光」は、被造物に生命と意識を宿す力を帯びていると見なされるが、それは「絶対」から離れるに従い、エントロピーを増大させて行く。それゆえ「創造の光」は、生命と意識を養う流れでありながら、それ自体としては退化性のエネルギーとされる。

・生命体はトリトコスモスのサブシステム

かかるエネルギーとエントロピーの収支の流れの過程で、現代の一般システム論で言う所の自己組織化もしくはサブシステムのような現象が「トリトコスモス(別名・地球)」の領域で起きる。それが生命体である。 即ちグルジエフにおいては生命体とは地球のサブシステムなのである。そして生命体の中でも人類が担う役割は、自己想起によって地球を進化させることであると考える。 そこが今日の一般的なエコロジー思想とグルジエフの思想との大きな違いである。人類が存在する目的は地球の進化にあり、その意味で我々の苦痛も自己破壊行為も宇宙の目的の一部なのである。

個の立場からの見解 [編集]

現代のエコロジー思想においては、地球上の多様な生物種や物質群の調和的な存続や利用が人類の「持続可能な発展」のためにいかに必要であるかに注目するが、グルジエフの提示した宇宙的エコロジー思想においては、人類の存続や個に宿された意識が宇宙全体の存続のために果たすことが期待されている役割に目に向ける。

宇宙的な観点から見た人間の役割に関する認識は、人間の存在に意味を与えるものとして喜ばしい認識でもありうる。だがこれは、人間が宇宙的なエコロジー上の必要性を満たすために義務的に生かされている奴隷であることを意味する衝撃的な認識でもありうる。

グルジエフによれば、「創造の光」は全体的には「時間の作用」によって下降し続けざるを得ず、全体としての人類もその流れには抗えない。しかし個としての人間なら「創造の光」を反照して上昇する可能性があり、「創造の光」との関係で人間は上昇と下降の二通りの道を生きねばならない。

この二通りの道の内、下降の道は生き物としての人間に課せられた基本的な役割であり、これはただ機械的に生を全うすることによって果たさる。 その宇宙的目的は、「創造の光」の下降において下位にあるものを肥やすことである。つまり人間は「絶対」から流れ出る「創造の光」、即ち宇宙の目的に従う義務を負っている。

しかしこの義務に従って生きていては、個としての上昇は起こり得ない。 人間は生物として宇宙の目的に従うだけでなく、自ら能動的に「創造の光」を反照することもできるのである。グルジエフの著作においては、「創造の光」を反照して人類の意識に新たな光を投げ掛ける存在として、古今東西の賢者や聖者が描写されている。

グルジエフの著作において、前述の「クンダバッファ」は、個としての意識の発展よりも生活上のことを優先させ、まずは宇宙的な文脈で人間に義務付けられたこの第一の役割が確実に果たされるように保証するためにやむをえず人間に埋め込まれた器官のようなものとして描写されている。

一方で、個人における「創造の光」の反照は人類全体の利益になるのみならず、その個人自身の利益にも適っているとされる。 これをグルジエフは、「真に利己的な者だけが他者をも利することができる」と言っている。

先のエコロジーの思想にしてもそうだが、いかにも善意の公共性を振りかざすのではなく、あくまでも個別的生命体としての個人の帰趨に気を配っている所が、グルジエフ思想の特徴なのである。

そして個人を下降性の流れから上昇性の流れへと意識的に移行させ、個としての進化を可能とする方法が「ワーク」である。これはもともと「work on oneself」という言い方に由来し、自己修練や自己改善に向けての努力というより、「自分を相手にする」というニュアンスが強い。人間は「ワーク」を志した時点では、既に下降性の流れから各種の条件付けに縛られており、思考と行動の両方において機械的な反応に支配されている。その機械性と対峙することが「ワーク」の始まりとなる。

「ワーク」における基本的な条件の一つとしてグルジエフがとくに強調したのは、「三つのセンター」として語られる人間の三つの主要な働き、すなわち思考・感情・身体のすべてを均等に扱ったアプローチの必要性である。

グルジエフは「三つのセンター」のいずれかに偏りがちであった従来型のアプローチと区別して、自らの方法を「第四の道」en:Fourth Wayと呼んだ。しかし「第四の道」という言葉は後にグルジエフを離れて一般的に使われるようになっている。それはグルジエフの弟子達が、グルジエフの思想をグルジエフ個人から切り離すことに努力したからである。 元々グルジエフの思想は、古代思想、イスラム神秘主義、錬金術、熱力学、等等のゴタ混ぜであり、アカデミックな評価に耐えるものではなかった。弟子達の努力はグルジエフ思想の一般化を摸索するものであった。その結果、今日ではグルジエフの思想は「第四の道」en:Fourth Wayとして学問的な研究対象となり、どこかのいかがわしい人物の妄想ではなく、一個の思想として認知されるようになった。 グルジエフは言っている、

「人間は一人では何もできない」

弟子達の努力はこの言葉を端的に証明している。

ところが当のグルジエフ本人は、晩年、

「奇妙なことに、真の意味で私の最良の友、つまり私の内面にもっとも近しい者たちは、いまでは世界各地に散らばっている私の大勢の敵達の中にいる」[9]

と嘆いていた。 初期の弟子達が離脱する原因となったグルジエフの独善的でカルト教祖的な性格が示すように、彼には自己を客観視する能力、他者を思う能力が欠落していたのである。 ここに、人と思想を理解することの難しさがあり、グルジエフの思想は彼個人とは別のものとして考えなければならない理由が存在する。

・ヘプタパラパーシノクと食物

宇宙法則ヘプタパラパーシノクの説明で、グルジエフはしばしば「食べる」ということをモチーフとし、人間の心身における物質とエネルギーの相関関係で表現した。それは「食物図」として知られており、グルジエフはこれをエニアグラムにもあらわした[7]。ヘプタパラパーシノクにおいて、「食べる」とは、普通の食べ物に空気と印象を加えた「三種の食物」が、宇宙的な位相を変えて行くことであると定義される。 それによって生物は「創造の光」の下降性の流れに従い、宇宙の目的に適うのである。 個としての人間においては、そこに意識を関与させることで、内面に高次の物質が蓄積される。体内に取り込んだ「三種の食物」に「創造の光」を反照させることで、物質に汎宇宙的な変化が起こるとされる。 このように息をし、飲み、食べる、人間の在り様も、グルジエフにおいては中世錬金術的概念で捉えられているのである。

エニアグラム [編集]

グルジエフは1910年代のロシアですでにエニアグラムについて教えていたが、広く一般に知られるようになったのは、これについて記録したウスペンスキー『奇跡を求めて』が1949年に出版されてからのことである。この幾何学的象徴図形の起源については、その後、さまざまな言説が生じたが、いずれも確証を欠いている。エニアグラムを使った「九つの性格」の理論は、オスカー・イチャーソが発案して、のちに広まったものであり、グルジエフとの直接の関係はない。

グルジエフの見方に従うと、エニアグラムは、万物の発展と衰退を支配する「三の法則」と「七の法則」の組み合わせをあらわす。個に宿された意識の発展の道筋として、グルジエフが「同一化」と呼んだ状態、すなわちそのときどきに生じる思いや衝動と「ひとつ」になった状態から始まって、二元的な対立や矛盾を自覚するに至り、その狭間にあって第三のものに目覚め、さらにその先に向かうという一連の過程の内的なロジックを指し示すものでもある。ウスペンスキー『奇跡を求めて』でのエニアグラムをめぐる記述の元となったグルジエフの講義録が公開されている[10]。

出典/参考:

  1. C. Daly King The Oragean Version
  2. グルジエフ著作集All and Everything序文
  3. グルジエフBeelzebub’s Tales to His Grandson(10章ほか)
  4. グルジエフBeelzebub’s Tales to His Grandson(16章)
  5. グルジエフBeelzebub’s Tales to His Grandson(6章)
  6. グルジエフBeelzebub’s Tales to His Grandson(29章)
  7. ウスペンスキーIn Search of the Miraculous
  8. グルジエフLife Is Real Only Then, When I Am
  9. グルジエフLife Is Real Only Then, When I Am(プロローグ)
  10. グルジエフ幾何学的象徴に関する講話(アーカイブ収録文献)

グルジエフの音楽と舞踏 [編集]

グルジエフは、ロシアの作曲家であるトーマス・ド・ハートマン(1885-1956)との共作で数々のピアノ曲を残した。ハートマンの手記によると、グルジエフはピアノを一本指で弾くことで、あるいは口笛によって旋律を指示し、ハートマンがそれを展開させていくと、さらにグルジエフが新しいパートを加えるなどして、曲が生み出されていった。

これらの曲は作風の違いからいくつかに大別され、全集の多くでは、「アジアの歌と踊り」(エスニック系の作品集)、「聖歌」(キリスト教系の作品集)、「ダルヴィッシュの儀式」(スーフィ系の作品集)、「魔術師たちの闘争」(同名のバレエのために作曲された作品集)などのタイトルを使用している。

ハートマンとの共作以外にも、グルジエフ自身の演奏の録音が残されており、公開されているものもある。

グルジエフが教えた数々の舞踏や体操は「ムーヴメンツ」と総称され、200余りの作品が現在まで伝えられているという。グルジエフの自伝的著作に基づく映画『注目すべき人々との出会い』の最後に映像が収められている。

ハートマン以外では、アルメニア人のLevon Eskenianが音楽的伝統を研究し、2008年にアルメニア人のミュージシャンとGurdjieff Folk Instruments Ensembleを結成、アルバムMusic of Georges I. Gurdjiefを2011年にECMレコードから発表している。ECMではまたピアニストのキース・ジャレットSacred Hymns of G.I. Gurdjieffを発表していたり、Anja LechnerとVassilis Tsabropoulosがアレンジしたグルジエフの作品集Chants, Hymns and Dancesを2003年に発表していたりしている。[1]

伝承の系譜とワークのグループ [編集]

グルジエフはその著書で、「ワーク」として知られる取り組みを主導するに至った主要な動機のひとつとして、戦争・動乱・革命などの現場で目の当たりにした異常な集団心理や人類の集合的な病からの解放に向けての取り組みの必要性に関する自覚を挙げている。

これは個としての目覚めに向けての取り組みでありながら、グルジエフは、集合的な自動性に対抗するうえでの個人の無力さを指摘し、共同の取り組みの必要性を強調した。

グルジエフは、学院におけるコミューン的な状況のなかでの活動に終止符を打った後も、アメリカとフランスで複数のグループの指導にあたった。1940年代になると、ジャンヌ・ド・ザルツマンを中心とする小規模なグループでのワークを指導するようになり、これは第二次大戦中を通じて継続された。そして戦後には、英米からの多くの元弟子や新しい生徒を迎え入れたが、みずからの死後のためにひとつにまとまった組織を用意することはなかった。

グルジエフの死後、パリのグループでグルジエフを補佐してきたジャンヌ・ド・ザルツマン(1889-1990)がグルジエフ後期のワークを引き継ぐかたちとなり、彼女の親族や支持者が中心となって、グルジエフ・ファウンデーション/ソサエティなどの団体が結成され、世界各地で小グループの定期的な集まりを中心とする活動を主導するようになった。

また、戦後に大勢の生徒を連れてグルジエフのもとを訪れていたJ・G・ベネット(1897-1974)は、1920年代の初頭におけるグルジエフの活動にならって、コミューン的な環境でのワークを追求し、まずはイギリス、のちにアメリカに学院を設けた。

ザルツマンとベネットは初期において協力を模索したが、やがて方向性の違いが際立つようになった。また、グルジエフから直接に学んだ人たちの周辺に生まれたグループはこれに限られず、ウスペンスキーほかグルジエフから離反した人たちの周辺に生まれたグループもあり、さらにはグルジエフと血のつながりのある人たちの間での複雑な関係も絡んで、「正統性」をめぐる議論が白熱するに至った。

いわゆる「教えの継承」をめぐるグルジエフみずからの見解は、その主著である『ベルゼバブ』の第四十四章からうかがうことができ、それは一般に「正統性」として語られる上から下への流れを不可欠のものと見なしながらも、これはそれ自体としては退化性の流れであり、それに対立する流れとの接触と摩擦があってはじめて、それは創造的な役割を果たしうることを告げている。

著書と関連書籍 [編集]

著書

(1) Gurdjieff: Beelzebub’s Tale to His Grandson

  • グルジエフ『ベルゼバブの孫への話 - 人間の生に対する客観的かつ公平無私なる批判』 浅井雅志訳、平河出版社
  • グルジエフ『ベルゼバブが孫に語った物語 - 人間の生に対する客観的で公正な批判』 郷尚文訳、電子書籍

(2) Gurdjieff: Meetings with Remarkable Men

  • グルジエフ『注目すべき人々との出会い』 星川淳訳、めるくまーる

(3) Gurdjieff: Life Is Real Only Then, When ‘I Am’

  • グルジエフ『生は<私が存在し>て初めて真実となる』 浅井雅志訳、平河出版社
  • グルジエフ『生は<私が存る>ときにのみリアルである』 郷尚文訳、電子書籍

(4) Gurdjieff, Struggle of the Magicians(バレエ劇の台本)

講話と対話の記録
  • グルジエフ『エニアグラム講義録』 郷尚文訳、電子書籍「初期文献集」収録
  • グルジエフ『グルジエフ弟子たちに語る』 前田樹子訳、めるくまーる
  • グルジエフ『ミーティングの記録』(1941~1946)、郷尚文訳、電子書籍
グルジエフの講話の内容を主体とする記録:
  • * 『垣間見た真理』(1914年/モスクワのグループメンバーによる手記) 郷尚文訳、電子書籍「初期文献集」収録
  • P.D.ウスペンスキー 『奇蹟を求めて』 浅井雅志訳、平河出版社
弟子たちの手記
  • トーマス&オルガ・ド・ハートマン『グルジエフと共に』前田樹子訳、めるくまーる
  • フリッツ・ピータース『魁偉の残像』前田樹子訳、 めるくまーる
伝記
  • ジェイムズ・ムア『グルジエフ伝 神話の解剖』 浅井雅志訳、平河出版社
小説
関連書籍
  • 郷尚文『覚醒の舞踏 グルジエフ・ムーヴメンツ 創造と進化の図絵』 市民出版社
  • 前田樹子『エニアグラム進化論』 春秋社

音楽CDとDVD [編集]

ピアノ曲のシリーズ
  • The Music of Gurdjieff/de Hartmann (3 CD), Piano by Thomas de Hartmann、G-H Record
  • Gurdjieff/de Hartmann Music for the Piano (Vol. 1-4), Piano by Laurence Rosental, etc., VERGO
  • The Music of Gurdjieff and de Hartmann (Vol. 1-12), Piano by Alain Kremski, Naive
  • The Complete Piano Music of Georges I. Gurdjieff and Thomas de Hartmann (Volumes 1-3), Piano by Cecil Lytle, Celestial Harmonies
  • Music for Movements, Piano by Wim van Dullemen, Channel Cl.
古楽器によるアンサンブル
  • Music of Georges I. Gurdjief by Levon Eskenian & Gurdjieff Folk Instrument Ensemble (2011, ECM)
オーケストラ作品
  • Oriental Suites, Basta Music(パリとニューヨークでのムーヴメンツ公演に使われた音楽のオーケストラによる再現)
グルジエフによるハーモニウム演奏
  • Harmonic Development, Basta Music(グルジエフ自身によるハーモニウムの演奏の録音)
グルジエフの自伝的著作の映画化作品
  • 『注目すべき人々との出会い』(監督ピーター・ブルック)(DVD発行:ブロードウェイ株式会社)

関連項目 [編集]

グルジエフに由来する事項 [編集]

科学の分野で関連する事項 [編集]

地理的/文化的背景 [編集]

歴史的背景 [編集]

グルジエフのもとで直接に学んだ人たち [編集]

ロシア時代より:

フランス:

パリに暮らしたアメリカ人の女流作家:

アメリカ:

イギリス:

脚注 [編集]

  1. ^ GEORGES I.GURDJIEFF / The Gurdijeff Folk Instrument Ensemble DISC UNION

外部リンク [編集]

グルジエフの著作・講話・音楽など
グルジエフ関連ホームページ(団体/グループの紹介を主目的とするものを除く)