ジャン=ピエール・ゴラン

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ジャン=ピエール・ゴランJean-Pierre Gorin1943年4月17日 - )は、フランスおよびアメリカ映画作家、アメリカの大学教授。もっともよく知られているのはヌーヴェルヴァーグの巨星ジャン=リュック・ゴダールとの仕事であり、それはゴダールの「ラジカル」な時代としてよく言及されている時期であった[1]

来歴・人物[編集]

フランス・パリ生まれ。医師を父に持ち、左翼的ユダヤ家庭で育つ。1960年ソルボンヌ大学に入学する。専攻は哲学。ルイ・アルチュセールジャック・ラカンミシェル・フーコーのゼミをとる。1965年 - 1968年、夕刊紙『ル・モンド』の編集者となり、そこでたくさんの記事を書き、政治的かつ美学的な討論を行い、五月革命へと突入して行く。

1967年、24歳のときに13歳年長のゴダールと出逢う。『男性・女性』(1966年)にみられるようにゴダールは若い世代に興味を持っており、新左翼でありシネフィルでもあったゴランはうってつけであった。ゴランは、『中国女』(1967年)や『たのしい知識』(1968年)で自らの経験からアドヴァイスをし、ゴダールはそれを作品に反映させた。

1968年、ゴランとゴダールはジガ・ヴェルトフ集団という共同体を設立し、『東風』(1970年)、『万事快調』(1972年)、『ジェーンへの手紙』(1972年)といった明らかに政治的な作品のシリーズをともに製作した[1]。初期においては、「集団」の名のうえのゴダールの仕事であったが、1969年、ゴランはゴダールとともにイタリアに出向き、フランスを10年追放されたばかりの活動家ダニエル・コーン=バンディブラジルの映画作家グラウベル・ローシャマカロニウェスタンのスターであり有名なイタリア共産党ジャン・マリア・ヴォロンテといった名だたる左翼たちと西部劇を撮った。それが『東風』であった。

1972年、『ジェーンへの手紙』の完成をもって同集団を解散、ゴランは『L'Ailleurs immédiat』というタイトルの映画を撮影したが、完成間近で主演女優がドラッグトラブルで逮捕され、プロデューサーたちがフィルムを処分してしまった。完成し、世に問われていれば、ベルナルド・ベルトルッチ監督の『ラストタンゴ・イン・パリ』(1972年)、ジャン・ユスターシュ監督の『ママと娼婦』(1973年)に比すべき作品になっただろうと言われる[2]

1973年にゴランはフランスを離れ、映画批評家で画家のマニー・ファーバーManny Farber)に促され、カリフォルニア大学サンディエゴ校で教鞭を執ることに応じた。1975年以来、同大学の視覚芸術学科に留まり続け、そこで彼は今日に至るまで、映画史と映画批評のコースで教えている[1]

映画製作も続けており、もっとも著名なのはエッセイ的映画「南カリフォルニア三部作」、つまり、『ポトとカベンゴ Poto and Cabengo 』(1978年)、『ルーティン・プレジャーズ Routine Pleasures 』(1986年)、『マイ・クレイジー・ライフ My Crasy Life』(1991年)、そしてビデオ作品『ピーターへの手紙 Letter to Peter』(1992年)である[1]。三部作以前に、ハリウッドに出向き、フランシス・フォード・コッポラフィリップ・K・ディック作品の映画化をサポートしてもらおうとしたが、うまくいかなかった。また、本人曰く、ソロ二作目『ルーティン・プレジャーズ』はハワード・ホークス監督の『コンドル』(1939年)のリメイクだという[3]

2001年3月16日 - 20日、ゴランは来日し、広島県三原市佐木島で映像ワークショップを行った。安藤尋を助監督に、長島有里枝撮影監督に、ゴダールの『軽蔑』をリメイクするという作業を行い、浅田彰磯崎新らとのセミナーが開かれた[4]

フィルモグラフィー[編集]

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  1. ^ a b c d 英語版WikipediaJean-Pierre Gorinの項の記述より。
  2. ^ Erik Ulman, Jean-Pierre Gorin, January 2003.
  3. ^ 1987年メルボルンでのビデオインタビューより。
  4. ^ Erik Ulman, Jean-Pierre Gorin, January 2003.、および鷺ポイエーシス Vよりの情報。

関連文献[編集]

外部リンク[編集]