ミハイル・クトゥーゾフ
ミハイル・イラリオーノヴィチ・ゴレニーシチェフ=クトゥーゾフ公爵(ロシア語: Михаил Илларионович Голенищев-Кутузов;ラテン文字表記の例:Mikhail Illarionovich Golenishchev-Kutuzov, 1745年9月16日〈ユリウス暦9月5日〉 - 1813年4月28日〈ユリウス暦4月16日〉)は、帝政ロシア時代の軍人。エカチェリーナ2世、パーヴェル1世、アレクサンドル1世の3代に渡って仕え、外交官としても活躍した。
[編集] 生涯
父親もピョートル大帝に仕えた軍人である。家系は帝政ロシアで重きを成したジョチ・ウルス系モンゴル貴族の系譜のひとつであり、姓のクトゥーゾフはマムルーク朝第3代スルタン、クトゥズと同じテュルク系人名である。
1757年、砲兵学校に入学。14歳で軍隊入りし、対ポーランド戦争、露土戦争で勇名を挙げた。1774年、トルコとの戦争で右目を失っている。隻眼の軍人としては同時代にイギリスのネルソン提督がいる。
1805年の対フランス戦争ではロシア・オーストリア連合軍の総司令官として、ナポレオン1世が率いるフランス軍と戦うが、アウステルリッツの戦いで敗北。この後、地方の知事職に左遷されるが、対トルコ戦(1806年 - 12年)で再び軍功を挙げ、ブカレスト条約の締結に貢献した。
ナポレオンのロシア遠征(1812年)が始まると、総司令官バルクライ・ド・トーリの焦土作戦・退却作戦に批判が高まり、世論に推される形で、クトゥーゾフが後任の総司令官に就任する。彼の着任後、仏露両軍はボロジノの戦いで激突。両軍ともに甚大な被害を出した後、結果的にロシア軍は退却を余儀なくされるが、フランス軍も決定的な勝利を得るには到らなかった。
その後クトゥーゾフはバルクライと同様に退却を強行、聖都モスクワすら放棄し、ひたすらフランス軍の自滅を待つ作戦をとる。冬の到来で根負けしたナポレオンがついに退却を始めると、執拗な追撃戦を敢行し、フランス軍の撃退に成功した。この功績により、スモレンスク公の称号を授けられる。翌年もフランスへ侵攻するロシア軍の指揮を執ったが、ブンツラウにて病没。67歳。
[編集] 評価
軍事的天才ナポレオンに黒星をつけた数少ない人物の一人であるが、彼に対する評価はまちまちである。国民的英雄と称えられ、彼の名を冠した勲章まで設けられる一方、消極的で臆病な老軍人、みすみすナポレオンを逃がした無能者と非難されたりもしている。
クトゥーゾフが退却するフランス軍に大規模な攻撃を仕掛けなかったのはなぜか、そもそもロシア軍の焦土作戦自体が計画的なものであったのか、偶発的なものにすぎなかったのかなど、ロシア遠征時におけるその作戦構想については、現在でも様々に意見が交わされている。ただ、クトゥーゾフやバルクライが実施した作戦は、前世紀にはピョートル大帝が大北方戦争で、次世紀にはソビエト連邦軍が独ソ戦(大祖国戦争)で同様の作戦で成功を収めていることもあり、広大な領土を利用したロシア式戦法の一例として、一定の評価を与える事では、概ね一致しているようである。
3代に渡って仕えた宿将であるが、アレクサンドル1世とは折り合いが悪かった。アウステルリッツでは名ばかりの司令官に格下げされ、作戦上の進言も軽視された。また1812年、彼の総司令官への抜擢に当たっては、アレクサンドルはかなり渋っていたと言われる。
かなりの肥満体質で、女癖も悪かったと言われている。同時代人からも揶揄されるのは、こうした風評や外見にも起因していると思われる。その一方、世論の後押しで総司令官に抜擢されたように、兵士や国民からの人気は高かったようである。
レフ・トルストイの『戦争と平和』では、主要人物として登場、高い評価をされている。