オトク (モンゴル)

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オトク(モンゴル語: Otoγ)とは、主にモンゴル北元時代に用いられた社会集団の名称。

オトクの前身はチンギス・カンの制定した千人隊制度であるが、北元時代のオトクは「千人隊(ミンガン)」の血縁的紐帯が解消され、地縁的集団として構成された点に特徴があった。オトクは北元時代の基本的な社会的経済的単位であり、北元時代の遊牧部族=「トゥメン(万人隊)」は複数のオトクによって構成されていた。

概要[編集]

「オトク(Otoγ)」は「国土、地域」を意味するソグド語「オーターク(ōtāk)」に由来する単語である[1]。また、明朝では「8オトク・チャハル(Naiman Otoγ Čaqar)」を「察罕児八大営」と訳していたように、「オトク」の事を「」と呼称していた。

1206年モンゴル帝国を建国したチンギス・カンは配下の遊牧民を全て十進法に基づいて十人隊(アルバン)百人隊(ジャウン)千人隊(ミンガン)万人隊(トゥメン)の軍勢に再編成し、これがモンゴル帝国時代における遊牧集団の基礎単位となった(千人隊制度)。千人隊制度はモンゴル遊牧社会の基盤として長く残存したが、北元時代の度重なる社会混乱の影響によって次第に変容し、トゥメン(万人隊)が肥大化して独立した遊牧部族となり、その下部組織たるミンガン(千人隊)は社会集団としての「オトク」となった。

「オトク」という概念がいつ頃から表れたかは諸説あるが、16世紀以後のことと考えられている。エセン・ハーンの頃までは元朝時代の社会制度がいくらか残存していたが、エセン・ハーン没後の混乱の中で元朝由来の社会制度の大部分は崩壊してしまった。ダヤン・ハーンの登場以後、知院、平章といった元朝由来の称号は史料上に登場しなくなり、この頃大きな社会体制の変化があったものと見られる。

ダヤン・ハーンはそれまで分裂していたモンゴルの諸部族を再統一し、これを年代記は「ダヤン・ハーンの6トゥメン(万人隊)」と呼称する。しかしこの「6トゥメン」の内、ダヤン・ハーンの死後に解体されてしまったウリヤンハン・ヨンシエブのオトクについて記録が残されていないことから、「オトク」という概念が形成されたのはダヤン・ハーンの死以後のことと推測されている[2]

「オトク」という概念が発展していったのは、ダヤン・ハーンの孫の世代に各トゥメンが独立化していったことと関連があると考えられている。ダヤン・ハーンの息子バルス・ボラトの諸子(メルゲン・ジノンアルタン・ハーンクンドゥレン・ハーン)はオルドス、トゥメト、ハラチンといったトゥメンをそれぞれ支配し、名目上の大ハーンたるチャハルのハーンを上回る勢力を有するようになった。中央の大ハーンの統制を離れる中で地縁集団としての「オトク」という概念が発展し、モンゴル社会に広く浸透したものと見られる[3]

17世紀ダイチン・グルン(清朝)が成立してモンゴルの大部分を支配下に置くと、「オトク」は「ホショー(旗)」に取って代わられていった。これ以後社会集団としての「オトク」という概念は使われなくなったが、現在でもオルドス市オトク旗オトク前旗などに名称を残している。

北元時代の「オトク」[編集]

北元時代の有力部族は大きくわけて6つあり、モンゴル年代記はこれを「ダヤン・ハーンの6トゥメン(万人隊)」と呼称する。この「6トゥメン」は「8オトク・チャハル」、「12オトク・オルドス」といったように「数+オトク」を附して呼ばれることが多かった。いくつかのモンゴル年代記ではこのトゥメンに属する「オトク」について解説している。ただし、この数は作為的なものが多く、例えば7オトク・ハルハ(外ハルハ)には7オトク以上のオトクが所属していた。

8オトク・チャハル[編集]

清朝に降る以前、チャハルは8つの遊牧集団より成り立っていたことが知られており、これをモンゴル年代記は「8オトク・チャハル(Naiman Otoγ Čaqar)」、漢文史料は「察罕児八大営」と称している。

山陽の左翼4オトク[編集]

※タタルを外し、アオハンとナイマンを独立した部族として数える学説もある。

山陰の右翼4オトク[編集]

※ウルウトとケムジュートどちらを入れるかは学説によって異なる。 [4]

12オトク・ハルハ[編集]

ハルハは早い段階から東西に分裂しており、左翼の5オトク・ハルハが「内ハルハ」、右翼の7オトク・ハルハが「外ハルハ」として知られるようになった。

右翼(外ハルハ)[編集]

左翼(内ハルハ)[編集]

ウリヤンハン[編集]

早い段階で解体されてしまったウリヤンハンのオトクについて、基本的にモンゴル年代記に記載はない。ただ、タイスン・ハーンを殺害した「ウリヤンハンのツェブダン」の配下には「アラグチュト(Alaγčud)」という集団がおり、これがウリヤンハンに属するオトクの1つと見られる。

12オトク・オルドス[編集]

16世紀末頃に編纂されたチャガン・テウケでは、オルドスは「十二オトク」より成り立っていたことが記されている[5]が、「十二オトク」を具体的に記した史書は存在しない。しかし、現在では様々なモンゴル語史料の相互比較によって以下のような構成であったと推測されている[6]

右翼[編集]

  • ケグートとシバグチン(Kegüd/Sibaγučin)
  • ウラトとタングート(Urad/Tangγud)
  • ダラトとハンリン(Dalad/Qanglin)
  • メルキトとバハナス(Merkid/Baqanas)
  • ベスートとウグシン(Besüd/Ügüsin)
  • バタギンとハリグチン(Batagin/Qaliγučin)

左翼[編集]

  • ハウチン(Qaučin(Qaγučin))
  • ケリイェス(Keriyes(Kirgis))
  • チャハト(Čaqad)
  • ミンガン(Mingγad(Mingγan))
  • ホニチン(Qoničin)
  • フヤグチン(Quyaγučin(Qoyar Küriyen))

この他にもチンギス・ハーン廟を管理する「四ホリヤ(Dörben qoriya)」、元々はヨンシエブイブラヒム・タイシの配下にあったと見られる「四オトク・ウイグルチン(Dörben otoγ Uyiγurčin)」・「三オトク・アマハイ(γurban otoγ Amaqai)」といった集団が所属していた。 清朝の支配下に入った後は当初は6旗、後に1旗増やされて7旗(Doloγan qosiγu)に再編成された。

12オトク・トゥメト[編集]

大ヨンシエブ[編集]

早い段階でダヤン・ハーンによって分割されたヨンシエブのオトクについて、モンゴル年代記に記載はない。しかし、明朝で編纂された『九辺考』には「ヨンシエブには営が十あった」と記されており、この「営」こそがヨンシエブ’のオトクであったと見られる。

[8]

脚注[編集]

  1. ^ この単語は他のアルタイ系諸語にも輸入されており、クリミア・タタール語オスマン語のodaは「部屋、住宅、家、1部屋に住む兵士」を意味し、ウイグル語のotaġは「家、部屋」を意味し、チャガタイ語のotaqは「小屋、天幕」を意味し、トゥングース語のotokは「野営」を意味する(ウラジーミルツォフ,301-302頁)。
  2. ^ また、「ヨンシエブ」から分割された「ハラチン」が「7オトク・ハラチン」と呼称されていることもオトクがダヤン・ハーン死後に形成されたという推測を裏付けている(森川1972,40頁)
  3. ^ 森川1972,41頁
  4. ^ 森川1976,136-145頁
  5. ^ 森川1973,320-321頁
  6. ^ 森川1973,325頁
  7. ^ 原史料では「舎奴郎」とされるが、これは「奴」「郎」を転倒しており、「舎郎奴=Sirnud=Sirsud」とするのが正しいとされる
  8. ^ 和田 1959,373-374頁

参考文献[編集]

  • 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年
  • 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
  • 森川哲雄「中期モンゴルのトゥメンについて-特にウルスとの関係を通じて」『史学雑誌』81編、1972(森川1972A)
  • 森川哲雄「ハルハ·トゥメンとその成立について」『東洋学報』55巻、1972年(森川1972B)
  • 森川哲雄「オルドス・十二オトク考」『東洋史研究』32巻、1973年
  • 森川哲雄「チャハル・八オトクとその分封について」『東洋学報』58巻、1976年
  • 森川哲雄「トゥメト・十二オトク考」『江上波夫教授古稀記念論集 歴史篇』山川出版社、1977年
  • 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年

関連項目[編集]