ボショクト晋王ハーン

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ボショクト晋王ハーン1565年 - 1624年)は、オルドス部・トゥメンの晋王(ジノン)。ノヤンダラ晋王の孫で、ブヤン・バートル・ホンタイジの長男。『明史』韃靼伝では卜失兎と表記[1]

生涯[編集]

1565年ブヤン・バートル・ホンタイジの長男として生まれる。

1576年、叔父のフトゥクタイ・セチェン・ホンタイジにより、12歳で晋王(ジノン)に即けられる。

1585年ダライ・ラマ3世がフトゥクタイ・セチェン・ホンタイジのもとに至り、施主たちに成就の灌頂など、教戒の言葉とともに賜り、その後北へ向かい、ボショクト・セチェン晋王のもとに至って、コケブルにおいてボショクト・セチェン晋王,セチェン・ホンタイジ,セチェン・ダイチンの3人に吉祥ヘーヴァジラの究竟の四灌頂を与え、二つの政道を昔の通りに建立して、暗黒の大陸に法の日輪を昇らせた。

1592年、28歳のボショクト晋王はオルドス・トゥメンを率いてに出征し、多くを捕虜にして帰る。この時フトゥクタイ・セチェン・ホンタイジの孫のバトという者が戦功をあげたので、ダルハン・バートルの称号を与えた。

1594年、30歳のボショクト晋王は再び明に侵攻した。この戦いでまたバト・ダルハン・バートルが戦功を立てたため、バートル・セチェン・ホンタイジの称号を与えた。

1596年、ボショクト晋王はチベットに出陣し、グル・ソェナム・ギェルなどのシラ・ウイグルを降した。

1607年から1613年にかけて、金銀宝石をちりばめたチョウォ・シャーキャムニの像とあらゆる種類の供物を作成し、1614年に大慈マイトレーヤ・フトゥクトを招いて開眼の行をおこなった。そこで尊像の完成を記念して、マイトレーヤ・フトゥクトに大慈法王の称号を捧げ、アリク・チョェジェにダライ・チョェジェの号、オチル・トゥメイ国王国師に灌頂大王国師の号、チンオ・アガ国師に瑜伽阿闍梨国師の号を与え、法師らと同じく首席を占めさせた。その後マイトレーヤ・フトゥクト大慈法王はボショクト・セチェン晋王に、「転金輪王セチェン晋王ハーン」の称号を捧げ、タイガル中宮ハトンにダラ菩薩ノムチ・ダライ・セチェン中宮ハトンの号、その伯父マングス・チョークルに大ホンタイジ、弟のオルジェイにビント・ホンタイジの号を与えた。

1621年、明の楡林城で和を議しに入った60人の死者が殺されたため、怒ったボショクト晋王ハーンはオルドス・トゥメンを率いて延安城に攻め込んだ。

1623年、59歳のボショクト晋王ハーンはアリク・ダライ・チョェジェに金字の『カンギュル』を書かせ、ラパ・チャガーン・フトゥクトに花を撒かせて完成させ、西方のツォンカパのところのシナ・ナンソから『テンギュル』を招来する約束をしていたが、1624年に60歳で亡くなった。

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妻子[編集]

タイガル・ダラ菩薩ノムチ・ダライ・セチェン中宮ハトン

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脚注[編集]

  1. ^ 羽田・佐藤 1973,p54-55
  2. ^ 岡田 2004,p267,285,294-296,299-302
  3. ^ 岡田 2004,p303

参考資料[編集]

先代
ノヤンダラ晋王
晋王(ジノン
1576年 - 1624年
次代
セレン・エルデニ晋王ハーン