オスマン1世
| オスマン1世 عثمان بن أرطغرل |
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| オスマン帝国皇帝 | |
| 在位 | 1299年 - 1326年 |
| 出生 | 1258年 トルコ アナトリア Söğüt |
| 死去 | 1326年(69歳没) Söğüt |
| 子女 | オルハン |
| 王家 | オスマン家 |
| 王朝 | オスマン朝 |
| 父親 | エルトゥールル |
オスマン1世(1258年-1326年)は、オスマン朝の初代皇帝(在位: 1299年-1326年)。エルトゥールルの長男。初名はオスマン・ベイ。
目次 |
[編集] 生涯
伝説によれば、若い頃、オスマンは長老(シェイク)エデバリ (en) [# 1]の娘マルカトゥン (en) に恋をしたが、貧しいオスマンは相手にされない可能性があった。そのため、オスマンは手柄を挙げるために、キルメンジク城の城主でギリシャ人のケセ・ミカルを捕えたが、オスマンとミカルは意気投合、友人となった[1]。
ある時、オスマンは夢を見た。月[# 2]が長老の胸から昇り、その月がオスマンの胸へ沈んだ。そしてその月が沈んだオスマンの胸から大きな樹木[# 3]が生えて天を覆いつくし、その根はチグリス、ユーフラテス、ナイル、ドナウのそれぞれの河川を形成した。そして風が吹きだすと剣の形をしたその樹木の葉がコンスタンティノープルの方角を指したという夢であった。オスマンはエデバリにこの話をするとエデバリはこれはオスマンが世界制覇をするという予言であると夢解きを行ない、娘マルカトゥンをオスマンの妻としたという[1]。
父・エルトゥールル[# 4]の代に小アジアに小国家の基盤は築かれていた。1281年の父の死後、後を継いだオスマンはトルクメン系遊牧民やムスリム農民で形成されたガーズィー (en) を率いていた。このガーズィーはビザンツ帝国の手が及ばない辺境地域を支配し、略奪を行い、時には近隣の町のアヒー・グループ[# 5]と手を結んだりしていた[1]。これらの同盟などの結果、オスマンはカラジャヒサル城を中心に勢力を築き上げ、モンゴルの攻撃から逃れてきたトルコ系の戦士や宗教指導者、ビザンツ帝国の援助が途絶えたキリスト教系の戦士(アクリトイ) (en) らがオスマンの元へ集まった[2]。
1290年代に入るとオスマンは辺境の城、8箇所とトルコ人らの町、エスクシェヒルを占領した。そして1299年、カラ・スーの河谷を占領したのち、イェニシェヒル (en) を占領、ここで首都となるべき町を手に入れたオスマンはルーム・セルジューク朝から独立を宣言してオスマン朝を築き上げたのである。オスマン1世は領土拡大のため1301年、ビザンツ帝国との戦い、コユンヒサルの戦いでこれを破り、帝国の基礎と次代の繁栄を築き上げた[2]。1326年、ブルサへ進撃したオスマンはブルサ包囲戦 (en) の陣中で、69歳で死去し、後を子のオルハンが継いだ。
武勇と決断力に富み、国民からの人望も厚かった名君として高く評価されている。
[編集] 脚注
[編集] 注釈
[編集] 参照
[編集] 参考文献
- デヴィッド・ニコルPhD著、アンガス・マックブライド色彩画、桂令夫訳 『オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズオスマン・トルコの軍隊1300-1774大帝国の興亡』 新紀元社、2001年。ISBN 4-88317-850-1。
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