ウィリアム・キャムデン

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William Camden
誕生 1551年5月2日
イングランドロンドン
死没 1623年11月9日(1623-11-09)(72歳)
イングランド、チズルハースト
職業 好古家、歴史学者、地誌学者、紋章官
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ウィリアム・キャムデン (William Camden, 1551年5月2日 - 1623年11月9日) は、イングランド好古家歴史学者地誌学者紋章官。好古家の代表的人物[5][6]。主な著作として、ブリテン諸島地誌兼好古学書の『ブリタニア』などがある。

生涯[編集]

1551年、ロンドンに生まれる。父親は画工で、リヴァリ・カンパニーの画工ギルド (Worshipful Company of Painter-Stainers) の一員だった。

ウィリアムが幼い頃に父親は亡くなってしまうが、庇護者に恵まれ[7]セント・ポールズ・スクールを経て1566年オックスフォード大学モードリン・カレッジクライスト・チャーチなど3つのカレッジに通った)に進学する[8]。オックスフォードではフィリップ・シドニーと友人になる。1571年、同校内の宗教対立(国教会徒のウィリアムに対するカトリックからの圧力[7])により学位を得ぬまま帰郷する[8]

1575年、ウェストミンスター・スクールの教師に就任する[8]。この前後から『ブリタニア』の取材のための旅行を重ね、1586年に初版を刊行する[8]。以降も1607年まで改版と旅行を重ね、その間に国際的有名人になる[9]。1593年にはウェストミンスターの学長に就任、1597年にはクラレンス紋章官英語版に就任する[10]。1605年に火薬陰謀事件が起こると、御用学者として公判記録のラテン語訳などを行った[11]

晩年の1622年には母校オックスフォードに基金を提供し、同校最初の歴史学講座を開設した[2][12]。1623年、逝去。生涯独身だった[13]

キャムデンの名にちなむものとして、上記のオックスフォード歴史学講座のキャムデン教授職や、19世紀にゴシック・リヴァイヴァル建築を後押ししたCambridge Camden Society、古文書の出版団体Camden Societyなどがある。

著作[編集]

Britannia『ブリタニア』[編集]

『ブリタニア』第6版の口絵。ブリテン島の地図を囲んで女神ブリタニアネプチューンセレスが描かれている[14]

1586年初版、1607年第6版[9]。版を重ねるにつれ、取材旅行や一次資料の分析による加筆や、挿絵の追加、判型の巨大化が進んだ[14]。その間、英国で盛んに読まれるとともにヨーロッパ大陸でも出版され、キャムデンを国際的有名人にした[9]。これらの版はいずれも国際共通語ラテン語で書かれていたが、1610年に第6版の英訳がフィルメオン・ホランド英語版によって刊行され、そちらも版を重ねた[12]。1695年には新たな英訳がエドムンド・ギブソン英語版によって複数著者の補遺つきで刊行された[12]

本書は1000頁を超える大著であり[15]、扱う内容も多岐にわたる。とりわけ、イギリス人の起源(トロイのブルータス説の真偽)[9]や、ストーンヘンジハドリアヌスの長城ローマ帝国期の地名の比定、アーサー王の十字架(アヴァロンのグラストンベリー説)、名家の家系(系譜学)、各地の怪奇現象巨人伝説といった民間伝承(フォークロア)を扱う[16]。また、化石の出土やビーバー絶滅といった、博物学的・古生物学的内容も扱う[17]。そのような内容の広範さや執筆手法から、本書は西洋好古学のカノン英語版に位置づけられる[18]

本書が書かれたきっかけとして、フランドル人の地理学者アブラハム・オルテリウスからの執筆依頼があった[19][20][9]。オルテリウスは1571年に英国を訪れていた[8]。オルテリウスを含む後期ルネサンスの学者たちは、ローマ帝国期の地名の比定を通じて「古代ローマの再現」を行っていた[9]。本書もその一環として書かれた[9]

本書が影響を受けたものとして、先達の好古家ジョン・リーランド英語版が書いた英国各地の修道院巡行録 (itinerary) や、ウィリアム・ランバード英語版によるアングロ・サクソン研究がある[21]。ランバードとキャムデンは書簡を交わす仲でもあった[22]

火薬陰謀事件のあとの版では、事件をめぐるフォークロアや、首謀者たちに対する非難、陰謀を暴いたモンティーグル卿英語版の家系への賛辞が加筆された[11]

本書が盛んに読まれた時代背景として、ローマ教会からの離脱が決定的になったエリザベス朝期における「下からの愛国主義」の盛り上がりや「国民」の形成[23]地主支配体制による名家の家系の重要視[24][25]があった。

Annales[編集]

Annales - 1675年版の口絵

1615年初版[12]エリザベス朝年代記[12]ウィリアム・セシルの依頼で書かれた[2]。治世後半部分は没後出版された[2]。本書も好評を得た[12]

Remaines Concerning Britain[編集]

1605年初版[26]。唯一の英語著作[27]。『ブリタニア』よりも日常的な内容(言語、紋章、人名の由来、格言など)やサクソン人の建国を扱う[26]。本書も好評を得て版を重ねた[27]

Reges, reginae[編集]

1600年初版[26]ウェストミンスター寺院墓碑銘の研究(碑文研究[26]

その他[編集]

その他、古典ギリシア語文法の教科書 Institutio Graecae grammatices compendiaria in usum regiae scholae Westmonasteriensis (1595年) や、火薬陰謀事件の公判記録のラテン語訳 Actio in Henricum Garnetum, Societatis Jesuiticae in Anglia superiorem (1607年) を書いた。

脚注[編集]

  1. ^ 勝山 2013.
  2. ^ a b c d キャムデン』 - コトバンク
  3. ^ 川島 2010.
  4. ^ 見市 2003.
  5. ^ 高野 2013, p. 46.
  6. ^ 川島 2010, p. 21 (「尚古家の父」として言及).
  7. ^ a b 見市 2003, p. 7f.
  8. ^ a b c d e 高野 2013, p. 48.
  9. ^ a b c d e f g 見市 2003, p. 10.
  10. ^ 見市 2003, p. 11.
  11. ^ a b 見市 2003, p. 18f.
  12. ^ a b c d e f 見市 2003, p. 21.
  13. ^ 見市 2003, p. 9.
  14. ^ a b 高野 2013, p. 48f.
  15. ^ 川島 2010, p. 21.
  16. ^ 見市 2003, p. 29-53.
  17. ^ 見市 2003, p. 3-5;63.
  18. ^ 見市 2003, p. 34.
  19. ^ 佐々木 1975, p. 99.
  20. ^ 高野 2013, p. 49.
  21. ^ 見市 2003, p. 6;13.
  22. ^ 勝山 2013, p. 41.
  23. ^ 見市 2003, p. 7.
  24. ^ 見市 2003, p. 48.
  25. ^ 勝山 2013, p. 44.
  26. ^ a b c d 高野 2013, p. 50.
  27. ^ a b 見市 2003, p. 20.

参考文献[編集]

日本語[編集]

  • 勝山貴之キャムデンの地誌『ブリタニア』の出版とシェイクスピアの『リア王』 : 土地,相続,権力をめぐる言説」『同志社大学英語英文学研究』第90号、2013年https://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013263 
  • 川島昭夫「英国尚古家列伝(4)ウィリアム・カムデン」『日本古書通信』75(4)、21頁、2010年。 NAID 40017050803https://www.fujisan.co.jp/product/1281682865/b/446112/ 
  • 佐々木信「チューダー期イギリス法史学覚え書 1」『法学論集』第12号、駒沢大学、1975年http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/22344 
  • 高野, 美千代「17世紀好古学文献の変容と読者の受容」『山梨国際研究 山梨県立大学国際政策学部紀要』第8号、山梨県立大学、2013年、46-56頁、ISSN 2187-4336NAID 120006800482 
  • 見市雅俊「ウィリアム・カムデン著『ブリタニア』を読む」『中央大学文学部紀要』第196号、1-68頁、2003年。 NAID 110000938739 

日本語以外[編集]

外部リンク[編集]