ウィリアム・セシル (初代バーリー男爵)

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初代バーリー男爵
ウィリアム・セシル
William Cecil
1st Baron of Burghley
William Cecil, 1st Baron Burghley from NPG (2).jpg
ガーター騎士団正装をまとうバーリー卿
マークス・ヘラート英語版画)
生年月日 1520年9月13日
出生地 イングランド王国の旗 イングランド王国リンカンシャーバーン英語版
没年月日 1598年8月4日(満77歳没)
死没地 イングランド王国の旗 イングランド王国ロンドン
出身校 ケンブリッジ大学セント・ジョン・カレッジ英語版
称号 初代バーリー男爵英語版ガーター勲章勲章士(KG)、枢密顧問官(PC)
親族 リチャード・セシル英語版(父)
初代エクセター伯爵(長男)
初代ソールズベリー伯爵(次男)
第17代オックスフォード伯爵(娘婿)
第3代ソールズベリー侯爵雲孫の孫)

任期 1550年9月5日 - 1553年7月19日
1558年11月22日 - 1572年7月13日
国王
女王
エドワード6世
エリザベス1世

任期 1572年7月 - 1598年8月4日
女王
エリザベス1世

イングランドの旗 庶民院議員
選挙区 スタンフォード選挙区英語版
リンカンシャー選挙区英語版
ノーザンプトンシャー選挙区英語版
任期 1547年 - 1552年
1555年1559年1562年
1562年 - 1567年

イングランドの旗 貴族院議員
任期 1571年 - 1598年
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初代バーリー男爵、ウィリアム・セシル: William Cecil, 1st Baron of Burghley, KG, PC1520年9月13日 - 1598年8月4日)は、イングランド政治家貴族

テューダー朝最後の女王エリザベス1世の即位から晩年に至るまでの重臣。40年にもわたって彼女を補佐し、エリザベス朝のイングランドの国政を主導した。国王秘書長官英語版(在職1550年-1553年1558年-1572年[注釈 1]大蔵卿英語版(在職1572年-1598年)などを歴任。

エリザベス朝後期からステュアート朝初期に国王秘書長官を務めた初代ソールズベリー伯爵ロバート・セシルは次男である。またヴィクトリア朝後期に三度にわたってイギリス首相を務めた第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルは10代後の子孫である。エクセター侯爵家英語版ソールズベリー侯爵家の共通の先祖にあたる。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

1520年9月18日リチャード・セシル英語版とその妻ジェーン(旧姓ヘッキントン)の長男としてリンカンシャーバーン英語版にある母方の実家で生まれる[3][4][5]。父リチャードは富裕なジェントリであり[5]、また王室に衣装担当の宮内官として仕える人物だった[4]

リンカンシャー・スタンフォード英語版で育ち、地元の学校で学んだ後、14歳の時の1535年ケンブリッジ大学セント・ジョン・カレッジ英語版に入学した[4][5]。ケンブリッジ在学中にメアリー・チークと結婚したが、彼女は長男トマス(後の初代エクセター伯爵)を産んだ二年後に死去している[4]

1541年に学位を得ないままケンブリッジ大学を退学し、ロンドンのグレイズ・イン法学院に入学した[5][4]1546年にはエドワード王子の家庭教師サー・アンソニー・クック英語版の娘ミルドレッド英語版と再婚し、彼女との間に次男ロバート(後の初代ソールズベリー伯爵)と娘二人を儲けた[4][3]

政界入り[編集]

1547年スタンフォード選挙区英語版から庶民院議員選挙に出馬して当選し、政界入りを果たした[5][4]1552年までこの選挙区の庶民院議員を務めた後、1555年1559年1562年にはリンカンシャー選挙区英語版から選出され、さらに1562年には1567年にかけてはノーザンプトンシャー選挙区英語版から選出されている[3][6])。

宮廷内においてもヘンリー8世(在位1509年-1547年)の時代に国王秘書長官英語版トマス・クロムウェルの目にとまって秘書官に抜擢された[4]。続く幼王エドワード6世(在位1547年-1553年)の時代にも摂政サマセット公エドワード・シーモアに目をかけられ、秘書官を務めるが、1549年のサマセット公の失脚に巻き込まれて一時ロンドン塔に幽閉された[4][5]

しかしサマセット公に代わって権力を握ったノーサンバランド公ジョン・ダドリーからも実務能力を高く評価されていたため、1550年1月に釈放され、再び秘書官となった[4][5]1550年9月には国王秘書長官英語版に任命された[4][3]。同時に枢密顧問官(PC)にも列する。1551年10月にはナイトに叙せられた[5][3]。また1550年からエリザベス王女(後の女王エリザベス1世)の領地調査管理官となり、これがきっかけでエリザベスからも実務能力を高く評価されるようになった[7]

1553年のエドワード6世の崩御後、ノーサンバランド公がメアリー王女(後のメアリー1世)を無視してジェーン・グレイを女王に擁立しようとした。セシルは不本意ながらノーサンバランド公の計画に同意した。しかしメアリー王女の蜂起を知るとノーサンバランド公を見捨てメアリーのもとにはせ参じている[5]。メアリー女王の即位後、セシルは国王秘書長官を辞することになったが[5]、メアリー女王自身はセシルの能力を高く買っており、彼に官職を与えたがっていたが、セシル自身が宗教の違い(メアリー女王は強硬なカトリック)を理由に拝辞したという。しかしブリュッセル枢機卿レジナルド・ポールを出迎える外交任務は引き受けている[7]。また1555年にはリンカンシャー治安判事にも就任している[5]

エリザベス女王の秘書長官に就任[編集]

1558年11月にメアリー女王が崩御し、エリザベス1世が即位した。即位後、エリザベス女王は直ちにセシルを国王秘書長官に任じた。この際にエリザベスはセシルに以下のような勅語を与えたという[5][8]

私は貴下を枢密顧問官及び国王秘書長官に任命する。私と王国のために全力を尽くすようこの勅語を与える。貴下は収賄・汚職にまみれることなく、国家に対して忠実であり、私の意思に反してでも最善と思う助言を与えてくれるであろう。私が内密に知るべきことがあれば、貴下は私だけに知らせるであろうし、私もそれをわが胸に秘めるであろう。

エリザベス女王がハットフィールド・ハウス英語版の大広間でセシルにかけた言葉

国教会関連法案の議会通過をめぐって[編集]

1559年1月にエリザベス女王即位後の最初の議会が招集され、エリザベスとセシルはイングランド国教会プロテスタント化を推進する「国王至上法英語版」と「礼拝統一法英語版」を議会に提出した。

同法案は庶民院を通過したものの、貴族院でカトリック聖職者の反発を受けて否決された。女王とセシルは法案を軟化させる修正を行い、1559年の復活祭後に召集された議会に法案を再提出した。「国王至上法」ではヘンリー8世時代の「国王至上法」の「首長」という表現を「統治者」に代えることで君主が教会について万能ではないことを暗示し、カトリック聖職者に受け入れやすくしていた。また「礼拝統一法」では使用を義務付ける国教会共通祈祷書についてプロテスタント的な1552年版の物をより曖昧にして、広範な信徒に受け入れやすくしていた。こうした処置により「国王至上法」は大きな反発なく可決され、「礼拝統一法」もわずか3票差ながら、なんとか貴族院を通過させることができた(ただこの際に二人のカトリック司教を逮捕して投票に参加させないという強引な手段も使っている)[9][10]

スコットランド出兵[編集]

セシルは1559年よりスコットランド情勢に注目しており、スコットランド摂政メアリ・オブ・ギーズに対するスコットランド国民の反乱を煽る工作活動に努めてきた[11]

セシルの強い進言を受けたエリザベスは1559年末から1560年にかけてスコットランドの反乱を支援する出兵を行った。途中撤兵を考えたエリザベスをセシルは辞職をちらつかせてでも翻意させて出兵を強行させた。その結果、エディンバラリース英語版要塞のフランス軍を大敗させることに成功した。1560年6月にはセシル自らエディンバラへ向かい、和平交渉に当たり、エディンバラ条約英語版を締結した。これによりフランス軍のスコットランドからの撤兵、リース要塞の解放、スコットランド女王メアリーがイングランド女王を名乗らないことなどが取り決められた。さらに8月にはスコットランド議会が国教をカトリックからプロテスタントに変える決議を出した[12]

後見裁判所英語版を描いた絵画。中央が長官ウィリアム・セシル。

1561年には後見裁判所英語版長官を兼務し、死去まで同職に在職し続けた。これは人事権を掌握する重要なポストであり、当時の最高ポストであった大蔵卿英語版の前階梯の地位と看做されていた[5]

女王の寵臣ロバート・ダドリー(1564年にレスター伯爵に叙される)の推進で1562年からその翌年にかけて実施されたユグノー援助のフランス出兵には強く反対した。結局この出兵は失敗したため、セシルのレスター伯爵に対する優位が確立された[5]。しかしレスター伯爵はその後も女王の寵愛を受け続けたため、宮廷内でセシルと権勢を二分する派閥の領袖であり続けた[13]

北部諸侯の乱をめぐって[編集]

1568年12月、ネーデルラントで反乱鎮圧に当たるアルバ公への軍資金を乗せたスペイン船が悪天候とユグノー派海賊の追跡から逃れるためにイングランド南岸に寄港する事件があったが、これを知ったセシルは女王に進言してこの船に積んである軍資金を全て没収させた。これに対抗してアルバ公がネーデルラントにいるイングランド人を逮捕してその財産を没収すると、エリザベスもこれに対抗してスペイン人フランドル人の財産を没収した。この一連の騒ぎでイングランドとスペインの関係は決定的に悪化したため、イングランド国内でもセシル批判が高まった[14]

反セシルの機運が高まる中、1569年にはセシル排除の計画が、イングランド亡命中のスコットランド前女王メアリー[注釈 2]ノーフォーク公トマス・ハワードの結婚計画と合わせて盛り上がりを見せていた。ノーザンバーランド伯爵トマス・パーシー英語版やウェストモアランド伯爵チャールズ・ネヴィル英語版らカトリック北部諸侯と駐英スペイン大使がこの計画の中心であり、メアリーも前向きだった。宮廷内のセシルのライバルであるレスター伯爵も一時この計画に協力していた。しかし反セシルだけではなく、反エリザベス色も強い計画だったため、後にレスター伯爵は計画から手を引いた。ノーフォーク公も手を引こうとしたが、ノーフォーク公は1569年10月にロンドン塔に幽閉された。カトリック北部諸侯は11月に反乱を起こしたが、スペインが援軍を送らなかったため、失敗に終わった。この「北部諸侯の乱英語版」によってセシルの権勢はむしろ強化された[16][17]

リドルフィ陰謀事件の摘発[編集]

1570年2月に教皇ピウス5世がエリザベスを破門したため、以降イエズス会士などカトリック宣教師がイングランドに潜入してきて反エリザベス謀議を行うようになった[18]

セシルはすでにフランシス・ウォルシンガムのもとに秘密警察的な情報組織を完成させており、女王暗殺謀議は即時に取り締まった。1571年にはリドルフィ陰謀事件英語版を摘発した。これは教皇に忠実なフィレンツェの銀行家ロベルト・ディ・リドルフィ英語版が中心になって立案した計画で、ネーデルラントのスペイン軍をイングランド南岸に上陸させ、それに乗じてノーフォーク公とメアリーが反乱を起こし、二人がイングランドとスコットランドの王位についてカトリック信仰を復活させるという計画だった。セシルとウォルシンガムは、陰謀の中心人物としてノーフォーク公を逮捕させ、裁判にかけて死刑に処し(リドルフィにはイングランド外に逃げられた)、駐英スペイン大使にもイングランド退去を命じた[19][20]

バーリー男爵に叙せられる[編集]

1571年2月25日バーリー男爵英語版に叙され、貴族となった[16]。これまでセシルは議会の庶民院においても庶民院運営を巧みにリードする存在であったが、貴族に叙せられたことで貴族院議員に転じることになった。以降の庶民院運営の主導権はウォルシンガムらに移ったが、彼らはセシルほど円滑にやれず、特許権などをめぐって政府と議会の対立が激化していった[21]

スペインとの緊張が高まっていく中、宮廷内ではレスター伯爵やウォルシンガムが対スペイン主戦論を唱えたが、セシルは開戦に慎重でエリザベスもセシルの助言に従って1585年まではスペインとの戦争を避けた[22]。ちなみにセシルとレスター伯爵は敵対関係だったが、セシルとウォルシンガムは戦争についての意見が食い違いながらも敵対的な関係ではなく、むしろウォルシンガムは最重臣セシルの補完者のような存在であり続けた[23]

大蔵卿として[編集]

1572年4月に重病にかかったため、秘書長官職を辞した(1573年からウォルシンガムが就任)。代わって同年7月に大蔵卿英語版に任じられた[16]

大蔵卿として王庫を預かるようになったバーリー卿は、王庫の貯蓄に励んだ。倹約の努力を重ねてスペインとの開戦が不可避となった1584年までに王庫は30万ポンドの貯蓄を持つようになった。だがスペインとの戦争により1590年までにはこの貯蓄は消えて無くなった。その後バーリー卿は再び倹約の努力をして1590年代半ばまでに13万ポンドを貯蓄したが、凶作で1596年以降に再び減少し、いよいよ王領地を売却していくことを余儀なくされた[24]

エリザベスとバーリー卿は倹約一辺倒で現在の収入源の増収を図ることや関税以外の恒常的税収を議会に認めさせる努力を怠った[2][25]。議会の議決による臨時収入はそれまでは戦時限定だったが、エリザベスとバーリー卿は平時でもそれに期待せざるを得ない困窮状態に置かれていた[25]

抜本的財政改革をしようとせず、小手先の倹約だけでしのごうとするエリザベスとバーリー卿は結局、後世に大きなツケを残すことになった。それに最初に苦しんだのはバーリー卿の息子ロバートであり、彼は1610年に議会で「大契約」を提案して財政改革を行おうとするも議会から否決されるという憂き目にあっている[26]

晩年[編集]

バーリー卿と息子ロバート・セシルを描いた絵画。

1590年に国王秘書長官を務めていたウォルシンガムが死去した。バーリー卿は次男ロバートを後任に据えようとしたが、エリザベスが若年すぎると難色を示しため、国王秘書長官職はしばらく空席のままでバーリー卿が国王秘書長官の職務を代行することになった。しかしバーリー卿とロバートは常に一緒に仕事をしていたので、1591年秋頃には「国務の全てはセシル親子が牛耳っている」とまで評されるようになったという[27]

この頃から女王の寵臣であるエセックス伯爵ロバート・デヴァルーとセシル親子の対立が深まった[28]。エセックス伯爵はエリザベスと血縁関係があり、また野心的な美男子だったため、女王や国民からの人気が高かった。特に都市とその選挙区における彼の人気は絶大であり、セシル親子の権勢さえも脅かすものがあった[29]

1593年法務総裁英語版の人事問題[注釈 3]1594年の女王侍医ロドリゴ・ロペス英語版の事件[注釈 4]をめぐって両者は鋭く対立した[32]。またスペインとの戦争をめぐってはエセックス伯爵が主戦派だったのに対して、セシル親子は和平派だった[33]

1596年7月には息子ロバートが国王秘書長官に任命された[34]

1598年8月4日午前5時に78歳で死去した。エリザベス女王即位から40年にわたって女王を支え続けた人生だった[35]。バーリー男爵の爵位は長男トマスが継承した。

人物[編集]

バーリー男爵ウィリアム・セシルの肖像画

博覧強記の人物で、しかも長時間に及んで仕事のできる忍耐力を持った人物だった。彼のもとには一日に百通近い嘆願書が届いたが、夜のうちに目を通し、朝までにすべてに返事を書いたという。メモ魔でもあり、膨大な量の備忘録を残した。その備忘録はソールズベリー侯爵家のハットフィールド・ハウス英語版に保存されており、当時を知る重要な記録となっている[36]

彼は他の多くのケンブリッジ大学卒業生と同様に確信的プロテスタントであったが、熱狂的カトリックのメアリー女王のもとではカトリックを遵奉するなど日和見的なところがあった[37]カトリックとプロテスタントの対立が激しい時代にあって、そうした宗教的柔軟性を持っている点がエリザベス女王との共通点であった[7]

セシルは1595年3月13日付けの息子ロバートへの手紙の中で「女王に助言することが許される場合は、反対されても自分の意見を変える必要はない。それは神を冒涜することになるからだ。私はまず第一に神に至誠を尽くさねばならない。しかし臣下として私は女王の命令に従う必要がある。女王の命令に逆らうのは賢明ではない。女王が神の代理人であることを考えれば、女王の命令に従うことは神のご意志であると思うからだ。」と女王に仕える心構えを説いている[38]

一方エリザベス女王の方は「セシルほどの名宰相を持つ君主は私以外にはいないだろう」と自慢していた[39]。またエリザベスから「私の精霊」(My Spirit)と呼ばれていた[40]

栄典[編集]

爵位[編集]

勲章・その他[編集]

家族[編集]

1541年にピーター・チークの娘メアリーと結婚し、彼女との間に以下の1子を儲ける[3]

メアリーとの死別後、1546年サー・アンソニー・クック英語版の娘ミルドレッド・クック英語版と再婚し、彼女との間に以下の3子を儲ける[3]

フィクション[編集]

小説[編集]

  • 榛名しおり『王女リーズ』
  • Carolyn Meyer "Beware,Princess Elizabeth"
  • Jean Plaidy "Queen of this realm"
  • ロザリンド・マイルズ『我が名はエリザベス』(上下巻)近代文芸

映画・ドラマ[編集]

フィクションでのイメージ[編集]

エリザベス1世を主人公にした小説でも、即位前の危ない時期に「今宮廷に来ると危ない」と警告したり(『我が名はエリザベス』)、現在の政治情勢についての情報をまめに届ける("Beware, Princess Elizabeth" )などの役割で登場することが多い。

1998年のイギリス映画『エリザベス』は、彼がバーリー男爵に叙されるとともに宮廷から退けられたかのように描いているが、事実ではない。セシルは1572年に病気のために国王秘書長官を辞しているが、大蔵卿英語版に転任して1598年の死去までエリザベス女王最大の側近として宮仕えした。

次男のロバート・セシルとウィリアム本人をあわせた「セシルズ」が、エリザベスの「愛人」がとかく大きな勢力となる宮廷で、それに対抗して宮廷を二分する勢力であったとする小説("Queen of this realm" )もある。

エリザベスの生涯変わらぬ恋人だったとする小説(『王女リーズ』)もあるが、この小説はあとがきで、エリザベスの恋人であるというのは全くの創作であると断っている。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 国王秘書長官はヘンリー8世以前には国王の手紙の下書きや代筆が主な任務だったが、ヘンリー8世の国王秘書長官トマス・クロムウェルが絶大な権力を握ったことで重職となる[1]。エリザベス朝のイングランドの官職の中では秘書長官が最も重要な役職だった。その影響力は内政・外交のあらゆる分野に及び、中央行政を主導する地位であった[2]
  2. ^ スコットランド女王メアリー1567年に夫ダーンリー卿を殺害した容疑でプロテスタント貴族たちによってスコットランド王位を追われた。1568年にイングランドへ亡命し、スコットランド王位を取り戻すための助力をエリザベスに要請したが、拒否されてイングランド国内で緩やかな軟禁状態に置かれていた[15]
  3. ^ 1593年に法務総裁英語版トマス・エガートン英語版が国璽尚書兼大法官に昇進したのに伴って法務総裁ポストが空席となったが、その後任人事をめぐって、エセックス伯爵が庶民院議員フランシス・ベーコンを推したのに対してセシル親子は法務次官エドワード・コークを推した。フランシス・ベーコンの母はセシルの妻ミルドレッドの妹だったので、セシルにとってベーコンは義理の甥にあたるが、セシルはベーコンの優秀さが息子ロバートの出世の妨げになると判断し、取り立てようとしなかった。その不満からベーコンはエセックス伯爵のもとに走っていたのであった。しかしエリザベス女王は1594年にセシルの助言通りコークを法務総裁に任じている[30]
  4. ^ エセックス伯爵は、女王暗殺を企んだとしてポルトガル・ユダヤ人の女王侍医ロデリゴ・ロペスを逮捕したが、セシル親子は長く女王に仕えてきたロペスが今更そんなことをするはずがないと考え、ロペスを擁護した。女王もはじめ冤罪と考え、エセックス伯爵を叱責したが、まもなくエセックス伯爵の説得で翻意し、ロペスの取り調べを許した。エセックス伯爵は世論の反ユダヤ主義が高まったのを好機として、ロペスを是が非でも犯人に仕立て上げようとし、拷問の末に「自白」を引き出して裁判にかけて死刑に追い込んだ[31]

出典[編集]

  1. ^ 石井(2009) p.220
  2. ^ a b 今井(1990) p.73
  3. ^ a b c d e f g h i j k Lundy, Darryl. “William Cecil, 1st Baron of Burghley” (英語). thepeerage.com. 2014年4月3日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k 石井(2009) p.218
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n 世界伝記大事典 世界編5巻(1980) p.425
  6. ^ a b c d Venn, J.; Venn, J. A., eds (1922–1958). “Cecil, William (Lord Burghley)”. Alumni Cantabrigienses (online ed.). Cambridge University Press. 
  7. ^ a b c 石井(2009) p.219
  8. ^ 石井(2009) p.219-220
  9. ^ 石井(2009) p.242-251
  10. ^ 今井(1990) p.70
  11. ^ 石井(2009) p.280
  12. ^ 石井(2009) p.281-282
  13. ^ 青木(2000) p.81
  14. ^ 世界伝記大事典 世界編5巻(1980) p.425-426
  15. ^ 青木(2000) p.91-94
  16. ^ a b c 世界伝記大事典 世界編5巻(1980) p.426
  17. ^ 青木(2000) p.98-99
  18. ^ 青木(2000) p.100-102
  19. ^ 青木(2000) p.102-104
  20. ^ 石井(2009) p.360-371
  21. ^ 今井(1990) p.106-107
  22. ^ 今井(1990) p.72
  23. ^ トレヴェリアン(1974) p.83
  24. ^ 青木(2000) p.213-214
  25. ^ a b 青木(2000) p.213
  26. ^ 今井(1990) p.74
  27. ^ 石井(2009) p.487
  28. ^ 石井(2009) p.488
  29. ^ 青木(2000) p.231/234
  30. ^ 石井(2009) p.488-491
  31. ^ 石井(2009) p.493-496
  32. ^ 石井(2009) p.490-496
  33. ^ 石井(2009) p.509
  34. ^ 石井(2009) p.505
  35. ^ 石井(2009) p.516
  36. ^ 石井(2009) p.220-221
  37. ^ ニール(1975) 1巻 p.51
  38. ^ 石井(2009) p.221-222
  39. ^ 石井(2009) p.222
  40. ^ ヒバート『女王エリザベス』
  41. ^ IMDb. “Elizabeth (1998)” (英語). IMDb. 2014年4月4日閲覧。
  42. ^ IMDb. “Elizabeth I (2005)” (英語). IMDb. 2014年4月4日閲覧。
  43. ^ IMDb. “Anonymous (2011)” (英語). IMDb. 2014年11月15日閲覧。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

公職
先代:
ニコラス・ウォットン英語版
イングランドの旗 国王秘書長官英語版
サー・ウィリアム・ピーター英語版とともに

1550年 - 1553年
次代:
サー・ジョン・ボーン英語版
先代:
ジョン・ボックスオール英語版
イングランドの旗 国王秘書長官
1558年 - 1572年
次代:
サー・トマス・スミス英語版
先代:
ニコラス・ベーコン
イングランドの旗 王璽尚書
1571年 - 1572年
次代:
初代ハワード・オブ・エフィングハム男爵英語版
先代:
初代ウィンチェスター侯爵英語版
イングランドの旗 大蔵卿英語版
1572年 - 1598年
次代:
初代ドーセット伯爵英語版
先代:
サー・フランシス・ウィルシンガム
イングランドの旗 王璽尚書
1590年 - 1598年
次代:
サー・ロバート・セシル
議会
先代:
ヘンリー・レイシー
レナード・イルビー
スタンフォード選挙区英語版選出庶民院議員
1547年 - 1552年
同一選挙区同時当選者
ジョン・アレン
次代:
リチャード・クック
ロバート・レイシー
先代:
サー・ジョン・コプレディケ
フィリップ・ティリット
リンカンシャー選挙区英語版選出庶民院議員
1555年
同一選挙区同時当選者
ジョージ・セント・ポール英語版
次代:
サー・エドワード・ディモク
サー・ロバート・ティリット英語版
先代:
サー・エドワード・ディモク
サー・ロバート・ティリット英語版
リンカンシャー選挙区選出庶民院議員
1559年1562年 - 1563年
同一選挙区同時当選者
サー・リチャード・ティムブレビー(1559)
リチャード・バーティ英語版(1562-1563)
次代:
トマス・ヘニッジ英語版
先代:
ウォルター・マイルドメイ英語版
ラルフ・シェルドン
ノーザンプトンシャー選挙区英語版選出庶民院議員
1563年 - 1567年
同一選挙区同時当選者
ウォルター・マイルドメイ英語版
次代:
ウォルター・マイルドメイ英語版
ロバート・レーン英語版
学職 
先代:
レジナルド・ポール
University of Cambridge coat of arms official.svg ケンブリッジ大学学長英語版
1559年 - 1598年
次代:
第2代エセックス伯爵
先代:
新設
Trinity College Dublin Arms.svg ダブリン・トリニティ・カレッジ学長英語版
1592年 - 1598年
イングランドの爵位
新設 Cecil.svg 初代バーリー男爵英語版
1571年 - 1598年
次代:
トマス・セシル