イーモラ

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イーモラ
Imola
イーモラの風景
Duomo di Imola
行政
イタリア国旗 イタリア
Regione-Emilia-Romagna-Stemma.svg エミリア=ロマーニャ
Blank.png ボローニャ
CAP(郵便番号) 40026
市外局番 0542
ISTATコード 037032
識別コード E289
分離集落 #行政区画参照
隣接コムーネ #隣接コムーネ参照
公式サイト リンク
人口
人口 67,661 [1](2012-01-01)
人口密度 330.1 人/km2
文化
住民の呼称 imolesi
守護聖人 San Cassiano e San Pier Crisologo
祝祭日 8月13日
地理
座標 北緯44度20分0秒 東経11度42分0秒 / 北緯44.33333度 東経11.70000度 / 44.33333; 11.70000座標: 北緯44度20分0秒 東経11度42分0秒 / 北緯44.33333度 東経11.70000度 / 44.33333; 11.70000
標高 47 (7 - 323) [2] m
面積 204.96 [3] km2
イーモラの位置(イタリア内)
イーモラ
イーモラの位置
ボローニャ県におけるコムーネの領域
ボローニャ県におけるコムーネの領域
Flag of Italy.svg ポータル イタリア
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イーモライタリア語: Imola)は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州ボローニャ県にある都市であり、その周辺地域を含む人口約6万8000人の基礎自治体コムーネ)。ボローニャに次ぎ、県内第二の人口を持つコムーネである。イモラとも表記される。

都市の歴史はローマ時代にさかのぼる。ルネサンス期にはカテリーナ・スフォルツァチェーザレ・ボルジアがこの地を拠点に活動した。15世紀に建築された大聖堂や要塞は都市の歴史的なランドマークとなっている。イモラ・サーキットは、かつてF1サンマリノGPが行われたことで知られる。

名称[編集]

標準イタリア語以外では以下の名称を持つ。

地理[編集]

位置・広がり[編集]

ボローニャ県東部、サンテルノ川 (Santernoのほとりに位置する都市である。フォルリの西北西約30km、州都・県都ボローニャの南南東約33km、ラヴェンナの西南西約40kmの距離にある。ロマーニャ地方に含まれる。

隣接コムーネ[編集]

隣接するコムーネは以下の通り。

歴史[編集]

古代[編集]

この都市はローマ時代紀元前82年に建設され、独裁官ルキウス・コルネリウス・スッラに因んで Forum Cornelii と呼ばれた。農業と交易の中心地であり、陶器で知られた。

中世[編集]

Imola という名前が初めて用いられるのは7世紀である。ランゴバルド人たちはこの地の城砦(現在の Castellaccio. ランゴバルド王クレーフィが築いたとされる)にImola と名付けたのであるが、やがてこれが都市そのものの名前に用いられるようになった。

『ランゴバルド史』を著した8世紀の歴史家パウルス・ディアコヌスによれば、イーモラの地では412年にアタウルフ西ゴート王)とガッラ・プラキディアローマ皇帝テオドシウス1世の娘)の結婚が行われた。ゴート戦争(535年 – 554年)とランゴバルド人の侵入(568年)以後、この地は東ローマ帝国と蛮族が交互に支配を行った。

東ローマ帝国のラヴェンナ総督領 (Exarchate of Ravennaを経て、ローマ教皇の支配下に入った。以後数世紀にわたってイーモラは、ラヴェンナファエンツァボローニャといった諸都市と抗争し、また都市内でも CastrimolesiCastro Imolese 出身者) と Sancassianesi(サンカッシアーノ出身者)の紛争が絶え間なく続いた。こうした抗争の中で、イーモラの共和主義的な都市憲章がつくられた。教皇派と皇帝派の争いにおいて、イーモラはおおむねギベリン(皇帝派)に付いているが、ゲルフ(教皇派)に鞍替えをすることもあった(たとえば1248年)。

ルネサンス期[編集]

1296年、ギベリンのコンドッティエーレ(傭兵隊長)マギナルド・パガーニイタリア語版は、ボローニャの支配下にあったイーモラを占拠した。パガーニは1299年にポデスタ英語版(首長)に選出され、1302年の死までその席にあった。

1334年、ローマ教皇ベネディクトゥス12世は、アリドシ家のリッポ2世 (Lippo II Alidosiにpontifical vicarの称号とともに、イーモラの都市とその領域の支配権を与えた。アリドシ家の支配は1424年まで続く。

1424年、ミラノの支配者フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ英語版に従うコンドッティエーレ(傭兵隊長) Angelo della Pergola が、イーモラの支配権を獲得した。1426年、イーモラは教皇領に戻り、教皇特使イタリア語版(のちに枢機卿となる)ドメニコ・カプラニカイタリア語版のもとで新政権が発足する。 その後イーモラは、ヴィスコンティ家などのさまざまなコンドッティエーレたちの支配下に置かれ、現在も残るいくつかの城砦が築かれている。1434年、1438年、1470年にはスフォルツァ家(1450年にミラノ公となる)に引き渡されている。

1473年、スフォルツァ家のカテリーナ・スフォルツァジローラモ・リアーリオ英語版(教皇シクストゥス4世の甥)が婚約した際、イーモラは教皇に引き渡され、ジローラモが教皇からイーモラの領主に任命された(なお、教皇のイーモラ政策は、メディチ家と教皇との対立の原因となり、フィレンツェにおけるパッツィ家の陰謀につながった)。カテリーナとジローラモは1477年に結婚する。フォルリとイーモラの領主となったリアーリオ家のもとで、イーモラに豪華な宮殿や芸術作品をもたらすことになった(たとえば大聖堂や、1488年にフォルリで殺害されたジローラモの墓所である)。

レオナルド・ダ・ヴィンチによるイーモラの都市計画図(1502年)

しかしながらリアーリオ家による支配は短く、ボルジア家出身の教皇アレクサンデル6世は、ジローラモの後継者であるオッタヴィアーノ英語版の地位を奪った。女傑として知られるカテリーナ・スフォルツァは抵抗を試みるが、1499年11月25日にイーモラはチェーザレ・ボルジアによって占領された。1502年にロマーニャ公爵に叙せられたチェーザレは、イーモラに本拠を移して要塞建築を計画した。当時チェーザレの軍事技術者であったレオナルド・ダ・ヴィンチは、チェーザレの命令を受けてイーモラの詳細な地図を描いている。

1503年、アレクサンドル6世の死とともにチェーザレ・ボルジアは失脚する。イーモラではガレアッツォ・リアーリオの派閥と教会の派閥が都市の支配を争い、教会派が勝利を収めた。1504年、イーモラは教皇ユリウス2世に寄進され、教皇領の一部となった。

近代[編集]

1796年6月、フランス共和国軍はイーモラを占領した(フランス革命戦争参照)。フランス軍はいったん撤退するものの、1797年2月に再占領し、チスパダーナ共和国に編入した(のちチザルピーナ共和国に統合)。1799年、イーモラはオーストリアによって占領されるが、1800年にフランスによって奪回され、イーモラは再びチザルピーナ共和国に含まれることとなった。以後、イーモラはロマーニャ地方と歴史を共にすることになる。

行政[編集]

行政区画[編集]

イーモラには以下の分離集落(フラツィオーネ)がある。

  • Càsola Canina, Chiusura, Fabbrica, Giardino, Linaro, Montecatone, Piratello, Ponticelli, San Prospero, Sasso Morelli, Selva, Sesto Imolese, Spazzate Sassatelli, Zello

姉妹都市[編集]

人物[編集]

著名な出身者[編集]

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]