アレクサンダル2世カラジョルジェヴィチ

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アレクサンダル王太子、2010年

アレクサンダル2世カラジョルジェヴィチセルビア語: Александар II Карађорђевић, 1945年7月17日 - )は、ユーゴスラビア王国の最後の王太子。ペータル2世とその妃でギリシャ王女のアレクサンドラとの間に生まれた一人息子。王制廃止後も「アレクサンダル王太子」の名で呼ばれている。

共産主義政権の崩壊後、ユーゴスラビア国家は民族主義の台頭によって解体したため、アレクサンダルは現在はセルビアにおける立憲君主制の樹立を提案しており、そのため「セルビア王太子アレクサンダル2世殿下」を自称するようになっている。

経歴[編集]

第二次世界大戦時の他のヨーロッパ諸国の君主と同様、ペータル2世もまた国を追われ、亡命政権を樹立していた。王は1941年4月にユーゴスラビアを出国し、同年6月にロンドンに到着した。1943年11月に開かれたテヘラン会談の結果、連合国はユーゴスラビアにおいて支援する勢力を、王党派のチェトニクから共産主義のパルチザンに変更した。1944年6月、国王の代理人イヴァン・シュヴァシッチとパルチザンの指導者ヨシップ・ブロズ・チトーが、国王の亡命政権と共産主義政権が合流するための協定に調印した。

しかし1943年11月29日にパルチザンの結成したユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議は、自らが国家政府となることを宣言し、国王政府の全ての法的権利を剥奪した。1945年8月10日、アレクサンダルが生まれて1か月も経たないうちに、反ファシスト会議はユーゴスラビア連邦共和国を建国した。同年11月29日、同国は共産主義国となることを宣言して国称を「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」に変更した。そして1947年3月8日、共産主義政権は旧王家であるカラジョルジェヴィチ家の全成員のユーゴスラビア市民権および全財産を剥奪した。

アレクサンダルは1945年7月17日、ロンドンのブルック通りにあるクラリッジス・ホテル212号室のスイート・ルームで生まれた。ユーゴスラビア王位継承者は同国内で誕生していることが王位継承の条件であったため、イギリス政府はこのスイート・ルームに対する主権を一時的に放棄し、ユーゴスラビア王国に割譲した。このためアレクサンダルは形式上はユーゴスラビア生まれということになる。

彼の洗礼の代父母を務めたのはイギリス王ジョージ6世とその長女エリザベス王女(現在のイギリス女王エリザベス2世)であった。アレクサンダルは両親にとって唯一の子供であった。アレクサンダルには中世セルビアの王家であったネマニッチ家の血も流れていた。両親は体調が思わしくなかったり、経済的な問題も抱えていたりして幼い息子の世話が出来ないため、母方の祖母であるアスパシア・マノス(ギリシャ王アレクサンドロス1世貴賤結婚の妻)が孫息子を養育した。アレクサンダルはル・ロゼ校、カルヴァー軍事大学ゴードンスタウン校、ミルフィールド校、モンス士官学校で教育された。1970年11月に父ペータル2世が亡くなると、名目上のユーゴスラビア王位およびカラジョルジェヴィチ家の家長位を継承した。

1972年7月1日、アレクサンダルはペトロポリス系のブラジル帝位請求者ペドロ・ガスタン皇子の娘マリア・ダ・グロリアと結婚し、夫妻はあいだに3人の息子をもうけた。次男と三男は双子である。

ローマ・カトリック教徒と結婚したことで、アレクサンダルはイギリスのヴィクトリア女王の次男アルフレッドの直系子孫として有していたイギリス王位継承権を喪失したが、もともと王位を継承できる見込みはなかったため問題にならなかった。3人の息子たちは現在、イギリス王位継承順位ではそれぞれ95位、96位、97位である。

アレクサンダルは1985年にマリア・ダ・グロリアと離婚した。アレクサンダルは同じ1985年9月にギリシャ生まれのアメリカ人女性キャサリン・ベイティスと再婚した。キャサリンは現在、カタリナ王太子妃と名乗っている。

アレクサンダルは1991年、共産主義政権の崩壊後に初めてユーゴスラビアを訪問した。アレクサンダルは独裁的なセルビア大統領スロボダン・ミロシェヴィッチに反対する民主主義運動に協力し、ミロシェヴィッチが2000年に退けられると、イギリスからセルビアに帰国した。2001年3月、セルビア政府はアレクサンダルを家長とするユーゴスラビア王家の市民権を回復し、その財産を返却することを決めた。アレクサンダルは現在、ベオグラードの高級住宅街デディニェ地区にある旧王宮で、妻と3人の息子と一緒に暮らしている。

君主制復帰運動[編集]

アレクサンダル王太子(中央)。セルビア保健相トミツァ・ミロサヴリェヴィチ(左)、セルビア駐箚アメリカ合衆国大使マイケル・ポルト夫妻(右)、セルビア出身のNBAバスケットボール選手ブラデ・ディバッツ(後ろ)とともに。2005年9月29日の世界ハートの日にベオグラードで開催されたイベントにて。

アレクサンダルはセルビアにおける立憲君主制の復活を提案しており、もし王政復古が現実となれば自分が合法的な王として即位するつもりである。彼は君主制がセルビア国家に「安定性、継続性、統一性」をもたらすだろうと話している。 暗殺された前首相ゾラン・ジンジッチも王太子一家と親しく、自身が党首を務めるセルビア民主党は君主制支持ではないにもかかわらず、王太子一家のキャンペーン活動や慈善事業を支援していた。

アレクサンダル王太子はセルビアの国政には関与しないことを誓っており、分家筋のイェリサヴェータ王女が2004年のセルビア大統領選挙に出馬した時も、これに反対している。王太子夫妻は基本的には慈善事業に力を注いでいる。

しかし、アレクサンダル王太子は最近になってセルビアと、その他のユーゴスラビアの構成国の政治指導者や外交官と一緒に公的行事に頻繁に参加するようになってきている。2006年5月には、アレクサンダルは王宮で開催されたセルビアとモンテネグロの首脳会談におけるレセプションで、主人役を務めた。このレセプションにはセルビア国立銀行の総裁のほか、スロベニア、ポーランド、ブラジル、日本、アメリカ合衆国およびオーストリアの大使や外交官も出席していた。王太子は主賓であるセルビア首相ヴォイスラヴ・コシュトニツァとモンテネグロ首相ミロ・ジュカノヴィッチの前で演説調のスピーチを行い、その中でセルビアが欧州連合に加盟することを期待する、と述べた。

2006年5月21日にモンテネグロが住民投票によって分離独立を果たすと、セルビアにおける君主制の復活は再び政治における主要な議題となった。セルビアの君主制支持者は君主制復帰のための新憲法の発布をすでに提案している。憲法の承認をめぐる2006年のセルビア国民投票で承認された憲法は、政体として共和制を明示していた。セルビア人は政体それ自体をどうするかについて国民投票を行ったことはない。

外部リンク[編集]

先代:
ペータル2世
〈名目上〉ユーゴスラビア王
カラジョルジェヴィチ家家長

1970年11月3日 -
次代:
-
推定相続人:ペータル王子