アスパシア・マノス

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アスパシア・マノス

アスパシア・マノスギリシア語: Ασπασία Μάνου /Aspasia Manos, 1896年9月4日 - 1972年8月7日)は、ギリシャアレクサンドロス1世の妻。貴賤結婚であったため王妃にはなれず、「デンマーク・ギリシャ王女」の称号を授かったのみだった。

生涯[編集]

アテネでペトロス・マノス大佐と妻マリア・アルギロプーロの娘として生まれた。マノス家もアルギロプーロ家もファナリオティスの一族であり[1]、先祖にはワラキアモルダヴィアの豪族、ギリシャ独立戦争の指導者らがいたが、平民の出身である。

1919年11月4日、タトイでアレクサンドロスと秘密裡に結婚した。この貴賤結婚はたちまち国を揺るがす大スキャンダルとなった。ギリシャ王族は王族としか結婚できないと定められていたためだった。2人は国外へ亡命する他なかった。ギリシャ政府は、父王コンスタンティノス1世の許可なしの結婚は違法であるとして、結婚の無効、これから2人の間に生まれるであろう子供は庶子となる旨を公式に発表した。

アスパシアとアレクサンドロスはパリで暮らしていた。彼女は“マダム・マノス”と呼ばれていた。2人の結婚生活は1年にも満たず、夫は破傷風で1920年10月に急死した。当時妊娠中だったアスパシアは、翌年3月に忘れ形見のアレクサンドラを生んだ。

1922年7月、亡夫の母ソフィアの取りなしもあり、ギリシャ王族が王族出身でない者とも結婚できるよう法律が改定された。これにより、アスパシアと娘のアレクサンドラは、「デンマーク・ギリシャ王女」の称号と「殿下」の敬称を授かった。アスパシアとアレクサンドラは、ギリシャのグリュックスブルク王家の中で、初めてギリシャ人の血を引く王族となった。20世紀の他のヨーロッパ王家と同じく、それまでのグリュックスブルク家はドイツの血が色濃く流れており、東ローマ帝国から続くギリシャ人の血統ではなかったのである。

成長したアレクサンドラは、のちユーゴスラビアペータル2世の王妃となった。第二次世界大戦後、経済的に苦しく健康問題を抱えたペータルとアレクサンドラの結婚生活は、不安定なものだった。アスパシアは2人の長男アレクサンダル王太子の養育を引き受け、彼を主にイギリスで育てた。1972年7月、アレクサンダルとマリア・ダ・グロリア(オルレアンス=ブラガンサ家出身)の結婚式に出席できたことに、アスパシアは非常に喜んだという。

1972年8月、ヴェネツィアで死去。最初はヴェネツィア近郊のサン・ミケーレ島の墓地に葬られたが、のちに棺はギリシャのタトイに運ばれ、王族として葬られた。

脚注[編集]

  1. ^ 特にアルギロプーロ家はメディチ家に招かれレオナルド・ダ・ヴィンチとも交流のあったジョヴァンニ・アルギロプーロ(en:John Argyropoulos)を輩出した名門である。