「ラインラントの私生児」の版間の差分
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当時の[[ヴァイマル共和政]]政府も、黒人兵士の撤退を要求するなど、政界でも[[ドイツ独立社会民主党|独立社会民主党]]を除く全ての党派が、この風潮に倣う姿勢を取っていた。国会でも<blockquote>「ドイツの婦女子だけでなく、男や少年達にとっても、この野蛮人は恐ろしく危険である。ドイツ婦女子の名誉・肉体・生命・純血・無垢が損なわれるからだ。黒人部隊がドイツ婦女子を犯し、抵抗する者を傷つけているのみならず、殺戮までしている事例が、益々多く挙げられている」</blockquote> |
当時の[[ヴァイマル共和政]]政府も、黒人兵士の撤退を要求するなど、政界でも[[ドイツ独立社会民主党|独立社会民主党]]を除く全ての党派が、この風潮に倣う姿勢を取っていた。国会でも<blockquote>「ドイツの婦女子だけでなく、男や少年達にとっても、この野蛮人は恐ろしく危険である。ドイツ婦女子の名誉・肉体・生命・純血・無垢が損なわれるからだ。黒人部隊がドイツ婦女子を犯し、抵抗する者を傷つけているのみならず、殺戮までしている事例が、益々多く挙げられている」</blockquote> |
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といった政府に対する質問が成された。 <ref>{{Cite journal |last=Roos |first=Julia |date=September 2009 |title=Women's Rights, Nationalist Anxiety, and the 'Moral' Agenda in the Early Weimar Republic: Revisiting the 'Black Horror' Campaign against France's African Occupation Troops |journal=[[Central European History]] |volume=42 |issue=3 |pages=473–508|doi=10.1017/S0008938909990069 |s2cid=145701088 }}</ref><ref>{{Cite book |last=Andrew |first=Christopher M. |year=1981 |title=France Overseas |location=[[London]] |publisher=[[Thames and Hudson]] |page=211 |isbn=0500250758 |work=The Great War and the Climax of French Imperial Expansion}}</ref> |
といった政府に対する質問が成された。 <ref>{{Cite journal |last=Roos |first=Julia |date=September 2009 |title=Women's Rights, Nationalist Anxiety, and the 'Moral' Agenda in the Early Weimar Republic: Revisiting the 'Black Horror' Campaign against France's African Occupation Troops |journal=[[Central European History]] |volume=42 |issue=3 |pages=473–508|doi=10.1017/S0008938909990069 |s2cid=145701088 }}</ref><ref>{{Cite book |last=Andrew |first=Christopher M. |year=1981 |title=France Overseas |location=[[London]] |publisher=[[Thames and Hudson]] |page=211 |isbn=0500250758 |work=The Great War and the Climax of French Imperial Expansion}}</ref> |
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大衆文化においても、グイド・クロイツァーが1921年に発表した小説『黒い汚辱ー辱しめられたドイツの物語』では、「ラインラントで生まれた混血児は、肉体的・精神的にも退化して生まれた存在であり、ドイツ国民として扱う価値は無い」「混血児を産んだドイツ人女性も、同様に[[民族共同体]]から排除されるべきだ」と記された。<ref name="auto">{{Cite book |last=Wigger |first=Iris |url=https://books.google.com/books?id=uCpADwAAQBAJ&q=The+%27Black+Horror+on+the+Rhine%27+Intersections+of+Race%2C+Nation%2C+Gender+and+Class+in+1920s+Germany&pg=PA115 |title=The 'Black Horror on the Rhine' Intersections of Race, Nation, Gender and Class in 1920s Germany |publisher=[[Macmillan Publishers|Macmillan]] |year=2017 |isbn=9780230343610 |location=[[London]] |page=85}}</ref> |
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[[アドルフ・ヒトラー]]も「[[我が闘争]]」の中で、[[ユダヤ人]]と黒人を結び付けたうえで、「ラインラントに黒人を連れてくるのはユダヤ人だ」「そうやって、必然的に人種の質を劣化させる事で、彼等が嫌悪する白人を破滅させようとする、秘めた考えと明確な目的が常にある」と記している。<ref>{{Cite book |last=Downs |first=Robert B. |title=Books That Changed the World |publisher=Signet Classic |year=2004 |isbn=978-0451529282 |page=325}}</ref><ref>{{Cite book |last=Hitler |first=Adolf |url=http://gutenberg.net.au/ebooks02/0200601.txt |title=Mein Kampf |date=February 1939 |volume=I |translator-last=James Murphy |chapter=XI}}</ref> |
[[アドルフ・ヒトラー]]も「[[我が闘争]]」の中で、[[ユダヤ人]]と黒人を結び付けたうえで、「ラインラントに黒人を連れてくるのはユダヤ人だ」「そうやって、必然的に人種の質を劣化させる事で、彼等が嫌悪する白人を破滅させようとする、秘めた考えと明確な目的が常にある」と記している。<ref>{{Cite book |last=Downs |first=Robert B. |title=Books That Changed the World |publisher=Signet Classic |year=2004 |isbn=978-0451529282 |page=325}}</ref><ref>{{Cite book |last=Hitler |first=Adolf |url=http://gutenberg.net.au/ebooks02/0200601.txt |title=Mein Kampf |date=February 1939 |volume=I |translator-last=James Murphy |chapter=XI}}</ref> |
2021年10月24日 (日) 05:23時点における版
ラインラントの私生児(ラインラントのしせいじ、ドイツ語: Rheinlandbastard)とは、第一次世界大戦後のドイツ西部のラインラントにおいて、アフリカ出身のフランス兵とドイツ人の女性の間に生まれた私生児たるアフリカ系住民の事を主に指した、ナチス・ドイツ時代の差別用語である。
歴史
ヴァイマル共和政時代
当初、第一次世界大戦後のドイツにおける非白人の殆どが、アフリカやメラネシアをはじめとする、戦前までの海外植民地へ渡った宣教師を主としたドイツ人男性と、現地人女性の間に嫡出子として生まれ、敗戦による植民地の喪失に伴い、ドイツへ渡る事を選んだ者達だった。[1]
その後、大戦後に締結されたヴェルサイユ条約に伴い、三国協商を代表してフランス軍がラインラントに駐留した際、当時フランスの植民地だったアフリカの北部や西部から約2万人の兵士が送られた。その際、一部の黒人兵が現地のドイツ人女性と関係を持ち、約6~800人の混血児が生まれる事となった。[2]
元々ドイツは、中央同盟国では唯一海外植民地を多く保持する国家であったが、大戦時は連合国に制海権を抑えられた為、連合国とは対照的に植民地から兵士を送る事が不可能な状態であった。加えて、20世紀の初頭から植民地の一つだった南西アフリカにおいて、先住民であるヘレロやナマ人に対する大規模な虐殺を行うなど、大戦前の時点でドイツ国内では、既に黒人を蔑視する風潮が醸成されていた。その為、ヨーロッパ戦線において、植民地から派遣した非白人の兵士を多用する連合国軍に対して、多くのドイツ国民は嫌悪感を抱く様になった。[2]
敗戦後も、ドイツの世論は連合国によるラインラント駐留を国辱と捉える声が多く、如何なる形でも占領軍に対する協力は、事実上の反逆罪と見なされる風潮が出来上がった。1920年春頃から、ドイツの新聞は 『黒い汚辱』と称して、セネガル出身のフランス兵によるドイツ人女性への強姦が、連日の様に横行していると主張する記事を、頻繁に掲載する様になり、これに伴う形で『ラインラントの私生児』なる造語が生まれる事となった。[3]
当時のヴァイマル共和政政府も、黒人兵士の撤退を要求するなど、政界でも独立社会民主党を除く全ての党派が、この風潮に倣う姿勢を取っていた。国会でも
「ドイツの婦女子だけでなく、男や少年達にとっても、この野蛮人は恐ろしく危険である。ドイツ婦女子の名誉・肉体・生命・純血・無垢が損なわれるからだ。黒人部隊がドイツ婦女子を犯し、抵抗する者を傷つけているのみならず、殺戮までしている事例が、益々多く挙げられている」
大衆文化においても、グイド・クロイツァーが1921年に発表した小説『黒い汚辱ー辱しめられたドイツの物語』では、「ラインラントで生まれた混血児は、肉体的・精神的にも退化して生まれた存在であり、ドイツ国民として扱う価値は無い」「混血児を産んだドイツ人女性も、同様に民族共同体から排除されるべきだ」と記された。[6]
アドルフ・ヒトラーも「我が闘争」の中で、ユダヤ人と黒人を結び付けたうえで、「ラインラントに黒人を連れてくるのはユダヤ人だ」「そうやって、必然的に人種の質を劣化させる事で、彼等が嫌悪する白人を破滅させようとする、秘めた考えと明確な目的が常にある」と記している。[7][8]
ナチス時代
1933年にナチ党が政権を獲得した当時のドイツにおけるアフリカ系住民の人口は、総人口に比して0.1%にも満たない、極めて少数なものに過ぎなかった。しかしナチ党は人種政策において、アフリカ系住民を義務教育の対象から除外する、一部の職業に就く事や白人との恋愛・結婚を禁止する、原則としてドイツ国籍を与えない事を定める等、迫害の標的とする事を決定した。[9]ナチ党は、黒人による芸術全般に『退廃芸術』のレッテルを貼ったうえで、アメリカにおけるジャズやスウィングをはじめとする、アフリカ系アメリカ人によってもたらされた音楽を『腐敗した黒人音楽』として、禁止する方針を採った。
無論、こうした政府の方針に対して反発するアフリカ系住民もいた。例えばヒラリウス・ギルゲスは、16歳でドイツ共産主義青年同盟に入団し、反ナチ運動に身を投じたが、1933年6月にデュッセルドルフの自宅アパートに居るところをゲシュタポと親衛隊の捜査員6名によって逮捕・拉致され、拷問の末に殺害されている。[10]
1933年7月14日に制定、翌1934年1月に施行された遺伝病子孫予防法に基づき、政府はカイザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人類遺伝学研究所の所長であるオイゲン・フィッシャーを、特別委員会の委員長に任命した。フィッシャーは、アフリカ系住民による子孫を増やさない為の防止策を講じる事を任される事となった。[11]
1935年3月11日には、フィッシャーやフリッツ・レンツ、ハンス・ギュンターをはじめとする優生学者と一部の内務官僚達が、アフリカ系住民への非合法の不妊手術計画を発表した。計画書の中では、アフリカ系住民を『ラインの黒い恥』『遺伝性疾患患者』と断じ、同年の『医師評論』にも、
「将来ライン川の岸辺で、白い肌と美しい顔をして、すくすくと育ち、精神的にも秀でて健康で活発なドイツ人が、よく通る声で歌っているのではなく、有色で梅毒に罹った混血児が、割れる様な声で怒鳴っている様になるとしたら、どうだろう? 我々は、そうなる事を今みすみす黙認しなければならないのか?」
と、黒人への差別を煽る内容の論文が掲載された。[11]
1935年9月に制定されたニュルンベルク法によって、ユダヤ人とドイツ人の結婚が禁止される事となったが、その後の改訂に伴い、アフリカ系住民もドイツ人とは結婚できなくなった。
1937年春以降、フィッシャーらによるレポートに基づき、確認されているだけでも385名のアフリカ系住民に対する断種手術が、法に反して実施された。[2]
第二次世界大戦が勃発すると、ハインリヒ・ヒムラー内務大臣兼親衛隊長官は、アフリカ系住民を虐殺の対象とする事を検討すべく、1942年頃に彼等を対象とした人口調査を実施したが、結局虐殺そのものが実行される事は無かった。一方で、最低でも24名のアフリカ系住民が強制収容所へ送致された事も、戦後明らかになっている。[2]
断種手術を受けた者も含めて、アフリカ系住民が戦後のドイツ国内において、どういった措置を受ける様になったかは、現在でも詳しい事は判っていないとされている。
関連項目
脚注
- ^ リチャード・J・エヴァンズ The Third Reich in Power, 1933-1939. ペンギン・ブックス, 2005年. ISBN 1594200742. 527. archive.org. Retrieved September 30, 2019.
- ^ a b c d ナチスドイツにいた黒人たち 語られてこなかった存在と迫害 - BBC
- ^ Nelson, Keith (1970). “The 'Black Horror on the Rhine': Race as a Factor in Post-World War I Diplomacy”. The Journal of Modern History 42 (4): 606–627. doi:10.1086/244041.
- ^ Roos, Julia (September 2009). “Women's Rights, Nationalist Anxiety, and the 'Moral' Agenda in the Early Weimar Republic: Revisiting the 'Black Horror' Campaign against France's African Occupation Troops”. Central European History 42 (3): 473–508. doi:10.1017/S0008938909990069.
- ^ Andrew, Christopher M. (1981). France Overseas. London: Thames and Hudson. p. 211. ISBN 0500250758
- ^ Wigger, Iris (2017). The 'Black Horror on the Rhine' Intersections of Race, Nation, Gender and Class in 1920s Germany. London: Macmillan. p. 85. ISBN 9780230343610
- ^ Downs, Robert B. (2004). Books That Changed the World. Signet Classic. p. 325. ISBN 978-0451529282
- ^ Hitler, Adolf (February 1939). “XI”. Mein Kampf. I
- ^ Chimbelu, Chiponda (10 January 2010 ). “The fate of blacks in Nazi Germany”. Deutsche Welle. 2011年11月9日閲覧。
- ^ “Todestag des Hilarius Gilges (in german)”. 2011年7月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年6月8日閲覧。
- ^ a b Samples, Susan. "African Germans in the Third Reich", in The African German Experience, edited by Carol Aisha Blackshire-Belay (Praeger Publishers, 1996).