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==概説==
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1970年(昭和45年)8月3日昼、[[池袋駅]]前で街宣活動を行っていた[[革命的共産主義者同盟全国委員会|中核派]]活動家が、たまたま通りかかった[[日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派|革マル派]]活動家の当時[[東京教育大学]][[理学部]][[化学科]]3年生であった被害者男性を発見、その場で[[私刑|リンチ]]を加えた。その後、動けなくなった被害者に「中核」の白ヘルメットを被せて隊列の中に入れ、あたかもデモ隊の一員であるかのように周囲の目撃者に見せかけて、中核派の拠点校である[[法政大学]]に拉致した。
1970年(昭和45年)8月3日昼、[[池袋駅]]前で街宣活動を行っていた[[革命的共産主義者同盟全国委員会|中核派]]活動家が、たまたま通りかかった[[日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派|革マル派]]活動家の当時[[東京教育大学]][[理学部]][[化学科]]3年生であった被害者男性を発見、その場で[[私刑|リンチ]]を加えた。その後、動けなくなった被害者に「中核」の白ヘルメットを被せて隊列の中に入れ、あたかもデモ隊の一員であるかのように周囲の目撃者に見せかけて、中核派の拠点校である[[法政大学]]に拉致した。


法政大学校内で、中核派メンバーは被害者に「反革命は死ね」「ここから生きて帰れると思うな」と罵声を浴びせながら、殴る蹴るのリンチを加えて殺害、遺体を[[東京厚生年金病院]]の玄関前に遺棄し、4日朝発見された。
法政大学校内で、中核派メンバーは被害者に「反革命は死ね」「ここから生きて帰れると思うな」と罵声を浴びせながら、殴る蹴るのリンチを加えて殺害、遺体を[[東京厚生年金病院]]の玄関前に遺棄し、4日朝発見された。


被害者男性は、8月3日早暁まで大学内で化学実験をしていたことが確認されている。その後、帰宅途中に池袋駅構内において、[[カンパ]]活動中の中核派集団に捕捉され、中核派の拠点校であった法政大学に連れ込まれ、リンチを受けた結果、午後6時ころに全身打撲と出血性ショックで亡くなったと診断された<ref>『文理科大学新聞、[[教育大学新聞]] 縮刷版』985ページ</ref>。意図的な殺害ではなく、過度なリンチが殺人をもたらしたと考えられる。
被害者男性は、8月3日早暁まで大学内で化学実験をしていたことが確認されている。その後、帰宅途中に池袋駅構内において、[[カンパ]]活動中の中核派集団に捕捉され、中核派の拠点校であった法政大学に連れ込まれ、リンチを受けた結果、午後6時ころに全身打撲と出血性ショックで亡くなったと診断された<ref>『文理科大学新聞、[[教育大学新聞]] 縮刷版』985ページ</ref>。意図的な殺害ではなく、過度なリンチが殺人をもたらしたと考えられる。


被害者男性は、革マル派活動家と見なされてリンチを受けたが、特に目立った活動家ではなかった<ref>『21世紀への置文-新十年史』08年号、36ページ</ref>{{sfn|『置文21』編集同人|2011|p=301}}。[[埼玉県立浦和高等学校]]出身で、池袋駅は大学から自宅への通学経路にあたっていた。
被害者男性は、革マル派活動家と見なされてリンチを受けたが、特に目立った活動家ではなかった<ref>『21世紀への置文-新十年史』08年号、36ページ</ref>{{sfn|『置文21』編集同人|2011|p=301}}。[[埼玉県立浦和高等学校]]出身で、池袋駅は大学から自宅への通学経路にあたっていた。

2020年1月15日 (水) 18:16時点における版

東京教育大学生リンチ殺人事件
日付 1970年(昭和45年)8月3日
12時ごろ
概要 中核派革マル派の内ゲバ
攻撃手段 被害者を拉致しリンチを加えて殺害
死亡者 1
被害者 革マル派活動家の東京教育大学理学部3年生の男性
犯人 中核派活動家
謝罪 なし
賠償 なし
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東京教育大学生リンチ殺人事件(とうきょうきょういくだいがくせいリンチさつじんじけん)とは、1970年昭和45年)8月3日東京都千代田区で、発生した、内ゲバ殺人事件。被害者の名前を取って「海老原事件」とも呼ばれる。

概説

1970年(昭和45年)8月3日昼、池袋駅前で、街宣活動を行っていた中核派活動家が、たまたま通りかかった革マル派活動家の当時東京教育大学理学部化学科3年生であった被害者男性を発見、その場でリンチを加えた。その後、動けなくなった被害者に「中核」の白ヘルメットを被せて隊列の中に入れ、あたかもデモ隊の一員であるかのように周囲の目撃者に見せかけて、中核派の拠点校である法政大学に拉致した。

法政大学校内で、中核派メンバーは被害者に「反革命は死ね」「ここから生きて帰れると思うな」と罵声を浴びせながら、殴る蹴るのリンチを加えて殺害、遺体を東京厚生年金病院の玄関前に遺棄し、4日朝発見された。

被害者男性は、8月3日早暁まで大学内で化学実験をしていたことが確認されている。その後、帰宅途中に池袋駅構内において、カンパ活動中の中核派集団に捕捉され、中核派の拠点校であった法政大学に連れ込まれ、リンチを受けた結果、午後6時ころに全身打撲と出血性ショックで亡くなったと診断された[1]。意図的な殺害ではなく、過度なリンチが、殺人をもたらしたと考えられる。

被害者男性は、革マル派活動家と見なされてリンチを受けたが、特に目立った活動家ではなかった[2][3]埼玉県立浦和高等学校出身で、池袋駅は大学から自宅への通学経路にあたっていた。

東京教育大学の学生、卒業生が内ゲバの被害者となった事件としては、この他に川崎市女子職員内ゲバ殺人事件がある。

事件の影響

この事件以前の中核派と革マル派の間には多少の摩擦はあったものの、相互の命を奪うような凄惨なものではなかった。しかし、この事件で中核派23人が殺人の容疑で検挙され、一方革マル派は「階級的報復」を宣言、この事件直後の8月14日に偽装した革マル派数十人が法政大学で中核派を襲撃、10人ほどの中核派活動家に重軽傷を与えた。これ以後、相互の内ゲバは激しさを加え、長年にわたり両派の多数の人命が奪われるに至った。

このことは、学生運動を学生から遠ざけて学生運動後退の原因ともなった。また、両派のメンバー自身が常に自らが危険にさらされることとなり、警戒のために活動や生活にまで不便をもたらすことになった。

参考文献

  • 警察庁『"内ゲバ"の実態 極左暴力集団のセクトの争いとその周辺』警察庁、1972年。全国書誌番号:20851081 
  • 警備研究会『極左暴力集団・右翼101問(改訂)』立花書房、2000年11月。ISBN 9784803715194 
  • 『置文21』編集同人『回想の全共闘運動-今語る学生叛乱の時代』彩流社、2011年10月27日。ISBN 9784779116858 

脚注

出典

  1. ^ 『文理科大学新聞、教育大学新聞 縮刷版』985ページ
  2. ^ 『21世紀への置文-新十年史』08年号、36ページ
  3. ^ 『置文21』編集同人 2011, p. 301.