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[[1915年]]、[[群馬県立富岡高等学校|旧制富岡中学校]]を卒業。[[第二高等学校 (旧制)|第二高等学校]]英法科<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940307/138 第二高等学校編『第二高等学校一覧 自大正7年至大正8年』第二高等学校、1918年、p.266]</ref>を経て、[[1918年]]、[[東京大学|東京帝国大学]][[文学部]]入学。しかし大学の講義に興味なく、彫刻家[[朝倉文夫]]に入門し、[[彫刻家]]を志す。 |
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[[1922年]]、第4回[[日展|帝展]]に彫刻作品「酔漢」が初入選。[[1924年]]、渡仏。[[ジョルジョ・デ・キリコ]]や[[マックス・エルンスト]]に影響を受け、昭和初年に[[シュルレアリスム|シュールレアリズム]]を日本に紹介した。[[1930年]]、[[独立美術協会]]に参加。[[1931年]]、帰国。[[1939年]]、独立美術協会を脱退し、[[美術文化協会]]を結成。戦前の前衛美術運動に大きな刺激を与える。[[1941年]]4月から10月までの間、共産主義者の嫌疑で[[瀧口修造]]とともに拘禁された<ref>『日本美術家事典 2003年度版』(構成執筆・藤森耕英、日本美術家事典社、2003年3月)</ref>。 |
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2018年7月12日 (木) 16:41時点における版
福沢 一郎(ふくざわ いちろう、1898年(明治31年)1月18日 - 1992年(平成4年)10月16日[1])は、日本の洋画家。
来歴
群馬県北甘楽郡富岡町(現富岡市)に生まれる。父は後に富岡町長となった。
1915年、旧制富岡中学校を卒業。第二高等学校英法科[2]を経て、1918年、東京帝国大学文学部入学。しかし大学の講義に興味なく、彫刻家朝倉文夫に入門し、彫刻家を志す。
1922年、第4回帝展に彫刻作品「酔漢」が初入選。1924年、渡仏。ジョルジョ・デ・キリコやマックス・エルンストに影響を受け、昭和初年にシュールレアリズムを日本に紹介した。1930年、独立美術協会に参加。1931年、帰国。1939年、独立美術協会を脱退し、美術文化協会を結成。戦前の前衛美術運動に大きな刺激を与える。1941年4月から10月までの間、共産主義者の嫌疑で瀧口修造とともに拘禁された[3]。
多摩美術大学、女子美術大学教授をつとめた。1978年、文化功労者となる。1991年、文化勲章を受章。
代表作に『他人の恋』(1930年 群馬県立近代美術館蔵)、『科学美を盲目にする』(1930年 群馬県立近代美術館蔵)、『よき料理人』 (1930年 神奈川県立近代美術館蔵)などがある。
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富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館(群馬県富岡市)