「宮崎緑」の版間の差分
m編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
14行目: | 14行目: | ||
== 経歴 == |
== 経歴 == |
||
[[湘南白百合学園小学校]]、[[横浜国立大学教育学部附属鎌倉中学校]]、[[神奈川県立湘南高等学校]]を経て、[[慶應義塾大学]]法学部政治学科卒業。同大学院法学研究科修了(法学修士)。指導教員は[[神谷不二]]。この大学生時代の頃に、[[NHK教育テレビジョン]]の中高生向けの[[教養番組]]「[[ジュニア文化シリーズ]]・サイエンスレーダー」のレポーターを務めていた。 |
[[湘南白百合学園小学校]]、[[横浜国立大学教育学部附属鎌倉中学校]]、[[神奈川県立湘南高等学校]]を経て、[[慶應義塾大学]]法学部政治学科卒業。同大学院法学研究科修了(法学修士)。指導教員は[[神谷不二]]。この大学生時代の頃に、[[NHK教育テレビジョン]]の中高生向けの[[教養番組]]「[[ジュニア文化シリーズ]]・サイエンスレーダー」のレポーターを務めていた。中学・高校時代の口癖は「わたし美人で頭いい」。 |
||
また自署にて東京大学を不合格になったことを明かしている。その言い訳として「塾や家庭教師とは全く無縁だったため、所詮はテクニックが重要な大学受験には向いていなかった」と述べている。 |
|||
⚫ | |||
⚫ | [[1982年]](昭和57年)[[4月]]、[[日本放送協会|NHK]]『[[ニュースセンター9時]]』の初の女性ニュースキャスターに就任し、その後6年間に渡って同職を務めた。しかしながら、中曽根総理に食事に誘われたことを暴露したり、阪神大震災の取材で毛皮のコートを着ていた、等の記事を書きたてられたことにより、メディアに失望して学界に戻った。東京工業大学社会工学科非常勤講師を経て[[2000年]]([[平成]]12年)、千葉商科大学政策情報学部助教授となり、[[2006年]]教授、[[2010年]](平成22年)学部長に就任した。[[2015年]](平成27年)より国際教養学部教授、学部長。 |
||
[[2001年]](平成13年)より[[鹿児島県]][[奄美市]]にある地域文化の情報発信拠点[http://www.amamipark.com/ 奄美パーク]園長と、その付属施設である[[田中一村|田中一村美術館]]の館長を兼任するほか、神奈川県教育委員、[[ソニー教育財団]]理事、[[昭和シェル石油]]株式会社監査役などもつとめている。 |
[[2001年]](平成13年)より[[鹿児島県]][[奄美市]]にある地域文化の情報発信拠点[http://www.amamipark.com/ 奄美パーク]園長と、その付属施設である[[田中一村|田中一村美術館]]の館長を兼任するほか、神奈川県教育委員、[[ソニー教育財団]]理事、[[昭和シェル石油]]株式会社監査役などもつとめている。 |
2017年4月17日 (月) 09:18時点における版
宮崎 緑 | |
---|---|
生誕 | 1958年1月15日(66歳) |
教育 | 慶應義塾大学法学部 |
職業 |
学者 ニュースキャスター |
代表経歴 |
「ニュースセンター9時」 キャスター(1982-88年) 東京工業大学講師 千葉商科大学教授 |
宮崎 緑(みやざき みどり、1958年(昭和33年)1月15日 - )は、日本のジャーナリスト、国際政治学者、国際政策学者である[1]。1982年(昭和57年)から6年間、テレビのニュース番組「ニュースセンター9時」(NHK)のキャスターを務め、日本の女性ニュースキャスターの草分けとしても知られる[1]。千葉商科大学国際教養学部教授、同学部長、東京都教育委員。
経歴
湘南白百合学園小学校、横浜国立大学教育学部附属鎌倉中学校、神奈川県立湘南高等学校を経て、慶應義塾大学法学部政治学科卒業。同大学院法学研究科修了(法学修士)。指導教員は神谷不二。この大学生時代の頃に、NHK教育テレビジョンの中高生向けの教養番組「ジュニア文化シリーズ・サイエンスレーダー」のレポーターを務めていた。中学・高校時代の口癖は「わたし美人で頭いい」。
また自署にて東京大学を不合格になったことを明かしている。その言い訳として「塾や家庭教師とは全く無縁だったため、所詮はテクニックが重要な大学受験には向いていなかった」と述べている。
1982年(昭和57年)4月、NHK『ニュースセンター9時』の初の女性ニュースキャスターに就任し、その後6年間に渡って同職を務めた。しかしながら、中曽根総理に食事に誘われたことを暴露したり、阪神大震災の取材で毛皮のコートを着ていた、等の記事を書きたてられたことにより、メディアに失望して学界に戻った。東京工業大学社会工学科非常勤講師を経て2000年(平成12年)、千葉商科大学政策情報学部助教授となり、2006年教授、2010年(平成22年)学部長に就任した。2015年(平成27年)より国際教養学部教授、学部長。
2001年(平成13年)より鹿児島県奄美市にある地域文化の情報発信拠点奄美パーク園長と、その付属施設である田中一村美術館の館長を兼任するほか、神奈川県教育委員、ソニー教育財団理事、昭和シェル石油株式会社監査役などもつとめている。
2015年10月30日、東京都教育委員会委員に任命された[2]。
2016年9月23日、天皇陛下がご意向を示された「生前退位」への対応に関し、同日付で「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」を設置され、その有識者会議のメンバーに選ばれた[3]。
2016年9月29日、週刊文春 2016年10月6日号にて「経歴詐称疑惑」とするセンセーショナルなねつ造記事を書かれ中傷された。この記事よると、首相官邸のホームページの宮崎氏のプロフィールには、昭和63年東京工業大学講師とあるが、この講師の職歴に疑問が呈され、週刊文春が東京工業大学に問い合わせたところ宮崎氏の職歴を確認できなかった、とのことである[4][5]。しかし、週刊新潮 2016年10月13日号で宮崎氏が、当時の学長名で「講師(東京工業大学工学部)に採用する」とする昭和63年4月18日付の辞令があること等により真実を証明し、週刊文春の記事内容が取材途中の「見切り発車」による事実無根の誹謗中傷であったことを暴いた[6][7]。
出演
- NHK教育『ジュニア文化シリーズ サイエンスレーダー』(1981年)
- NHK総合『ニュースセンター9時』(1982年4月~1988年3月)
- 『NHKモーニングワイド』(1988年4月~1989年3月)
- テレビ朝日 『ニュースフロンティア』(1992年4月~1994年3月)
著書
単著
- 『宮崎緑の社会あんぐるよりどりみどり』(日本生産性本部, 1983年/講談社文庫 1988年「キャスター駆け出す」に改題)
- 『わたしが会ったアジアの子ども - NHK海外たすけあいキャンペーン取材で』(偕成社 1984年)
- 『NHKを10倍楽しむ法』(講談社 1984年/講談社文庫 1987年「はい、ニュースキャスターです」に改題)
- 『From me to you - お便りありがとう』(文化出版局 1984年)
- 『夢を拓く - Talk journal』(講談社 1987年)
- 『私のリアルタイム』(読売新聞社 1989年)
- 『私のリアルタイム2』(読売新聞社 1993年)
- 『おもいっきり翔んで』(読売新聞社 1994年)
- 『女の耳目』(読売新聞社 1996年)
共著
- (赤木完爾・小此木政夫編)『冷戦期の国際政治』(慶應通信 1987年)
- (アジアの総合安全保障研究グループ)『アジアはどう変わるか - 90年代のアジアの総合安全保障』(日本経済新聞社 1993年)
- 加藤寛、宮崎緑 2009 『福沢諭吉なら、今、こう言う 加藤寛インタビュー 究極のベストセラー『学問のすすめ』に学ぶ日本再生への提言』星雲社
- 『大学維新への挑戦』中央公論新社 2010年
翻訳
- リチャード・ニクソン『ノー・モア・ヴェトナム』(講談社 1986年)
脚注
- ^ a b 大学プレスセンター - 宮崎 緑 教授(元NHKニュース・キャスター)が千葉商科大学・政策情報学部長に!
- ^ 自然公園トイレ、洋式化 都、五輪に向け整備方針産経新聞 2015年10月1日
- ^ 菅義偉官房長官、有識者会議設置を発表産経新聞 2016年9月23日
- ^ 宮崎緑プロフィール首相官邸 2016年9月30日閲覧
- ^ 天皇「生前退位」有識者会議メンバー 宮崎緑(58)に「経歴詐称」疑惑週刊文春 2016年9月29日
- ^ 本務校による声明 2016年9月30日
- ^ 『週刊文春』に経歴詐称と叩かれた「宮崎緑」が反論の証拠書類週刊新潮 2016年10月5日