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2012年3月24日 (土) 03:54時点における版
マレーネ・ディートリッヒ Marlene Dietrich | |||||||||
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『舞台恐怖症』(1950)予告編 | |||||||||
本名 | Marie Magdalene Dietrich | ||||||||
生年月日 | 1901年12月27日 | ||||||||
没年月日 | 1992年5月6日(90歳没) | ||||||||
出生地 | ドイツ帝国、ベルリン | ||||||||
死没地 | フランス、パリ | ||||||||
国籍 |
ドイツ アメリカ合衆国 | ||||||||
職業 | 女優、歌手 | ||||||||
活動期間 | 1919 - 1984 | ||||||||
配偶者 | ルドルフ・ジーバー(1924-1976、死別) | ||||||||
著名な家族 | マリア(娘) | ||||||||
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マレーネ・ディートリッヒ(Marlene Dietrich、1901年12月27日 - 1992年5月6日)はドイツ出身の女優・歌手である。
1920年代のヴァイマル共和国のドイツ映画全盛期に花開き、1930年代からはハリウッド映画に出演、1950年代以降は歌手としての活動が多かった。
経歴
生い立ち
1901年に、ベルリンのプロイセン近衛警察士官の次女として生まれる。幼くして父が病死、継父も、第一次世界大戦で戦死。生活費を稼ぐため酒場などで歌っていた。また、フランス語を独学した。 18歳で国立ヴァイマール音楽学校に入学してバイオリニストを目指すが、手首を痛めて音楽家を断念。
映画デビュー
1921年にマックス・ラインハルトの演劇学校に入学、翌年には『ナポレオンの弟』で映画デビュー。1924年に、助監督のルドルフ・ジーバーと結婚。同年12月には娘マリアを出産後、ジーバーとは別居となる。夫はカトリックであり、離婚が認められていなかった。
1930年、ベルリンの舞台に立っていたところを映画監督ジョセフ・フォン・スタンバーグに認められドイツ初のトーキー『嘆きの天使』に出演。退廃的な美貌、セクシーな歌声、その脚線美で国際的な名声を獲得した。
アメリカへ
同年、パラマウントに招かれてアメリカ合衆国に渡りゲイリー・クーパーと共演した『モロッコ』でハリウッド・デビュー、アカデミー主演女優賞にノミネートされた(『モロッコ』は日本語字幕映画の第1作である)。「上海特急」でスターの座を確立する。 ユダヤ人監督スタンバーグとのコンビで黄金時代を築く。
1935年の『西班牙狂想曲』がヒットしなかったのを最後にスタンバーグ監督との公私にわたる関係を解消、しばらく低迷する。当時のドイツの指導者であるアドルフ・ヒトラーはマレーネがお気に入りだったようでドイツに戻るように要請したが、ナチスを嫌ったマレーネはそれを断って1939年にはアメリカの市民権を取得したため、ドイツではマレーネの映画は上映禁止となる。1940年代からは西部劇やブロードウェイの舞台にも立って活躍した。また、占領下のフランスからジャン・ギャバンも渡米しており交際、やがて、自由フランス軍にジャンは志願したが、文通は続け、やがて、アルジェリアで再会した。
第二次世界大戦中の1943年からはUSO(前線兵士慰問機関)の一員として活動、アメリカ軍兵士の慰問にヨーロッパ各地を巡り反ナチスの立場を明確にした。戦地で兵士が口ずさんでいた「リリー・マルレーン」をおぼえ、対独放送でも歌った。戦後、壊滅したベルリンで、奇跡的に母親と再会、その2か月後に、母は急死した。 戦後、その功績によりアメリカからは1947年に大統領自由勲章(アメリカ市民として最高の栄誉)、フランスからはレジオンドヌール勲章を授与された。 なお、1944年にはバルジの戦い中のアルデンヌにおいてアメリカ軍の慰問を行った際に急襲してきたドイツ軍に捕えられそうになったが直前に回避し事なきを得た。 戦後、しばらくパリでジャンと暮らしたが次第に疎遠となり別れた。
歌手活動
若い女優の登場で映画出演の機会は減ったが、ラスベガスでのリサイタル依頼があり、成功をおさめ1950年代からは歌手としての活動が多くなり、アメリカ合衆国やヨーロッパを巡業。1958年からはバート・バカラックと組んでいる。1960年には念願の故郷ドイツでの公演を行った。マレーネは「裏切り者」と罵声を浴びせられながらも、暖かい歓待も受けるという彼女に対するドイツ人の複雑な感情を見せつけられた。1970年の大阪万博(EXPO'70)と1974年に来日して日本でもコンサートを行った。 メリー・ホプキンの悲しき天使(Those Were the Days)という曲を歌ったことでヒットしたことも知られている。 1976年ジャンと夫を立て続けに亡くした。
引退
1979年、コンサート中に足を骨折して活動を中止せざるをえなくなる。引退後はパリに隠棲。引退から時期がたってもファンレターは絶えず、『パリ市。マレーネ・ディートリヒ様』と書くだけで手紙が届いたと言う。引退後の姿はまったく謎に包まれており、人々の興味の対象となった。
ドイツの大衆紙『ビルト』が、ある老女の写真を「現在のマレーネ・ディートリッヒだ」とスクープを出したことがあるが、彼女の親族によって否定された。
1989年のベルリンの壁崩壊の際には、いつになく興奮していたという。
死去
1992年、パリで死去。死因は肝臓と腎臓障害であったとされる。亡くなる前の12年間は寝たきりであったという。葬儀はパリのマドレーヌ寺院で行われ、その後遺骸がベルリンに移されベルリンでも葬儀が行われた。
その遺骸は同年、彼女の望み通りベルリンの母の墓の横に葬られた。死後、ベルリン中心のポツダム広場に隣接した広場が「マレーネ・ディートリッヒ広場」と命名された。 2002年ベルリン名誉市民となった。
主な出演作品
- 嘆きの天使 The Blue Angel(1930)
- モロッコ Morocco(1930) - キネマ旬報ベスト・テン 第1位
- 間諜X27 Dishonored(1931)
- 上海特急 Shanghai Express(1932)
- ブロンド・ヴィナス Blonde Venus(1932)
- 恋の凱歌 The Song of Songs(1933)
- 恋のページェント The Scarlet Empress(1934)
- 西班牙狂想曲 The Devil is a Woman(1935)
- 真珠の頚飾 Desire(1936)
- 沙漠の花園 The Garden of Allah(1936)
- 鎧なき騎士 Knight Without Armour(1937)
- 天使 Angel(1937)
- 砂塵 Destry Rides Again(1939)
- 妖花 Seven Sinners(1940)
- 焔の女 The Flame of New Orleans(1941)
- 大雷雨 Manpower(1941)
- 淑女の求愛 The Lady Is Willing(1942)
- スポイラース The Spoilers(1942)
- 男性都市 Pittsburgh(1942)
- キスメット Kismet(1944)
- 狂恋 Martin Roumagnac(1946)
- 黄金の耳飾り Golden Earrings(1947)
- 異国の出来事 A Foreign Affair (1948)
- 舞台恐怖症 Stage Fright(1950)
- 無頼の谷 Rancho Notorious(1952)
- モンテカルロ物語 The Monte Carlo Story(1956)
- 八十日間世界一周 Around the World in Eighty Days(1956) - 第29回アカデミー賞作品賞受賞作品
- 黒い罠 Touch of Evil (1958)
- 情婦 Witness for the Prosecution (1957)
- ニュールンベルグ裁判 Judgment at Nuremberg(1961) - 1962年度キネマ旬報ベストテン第2位
- パリで一緒に Paris, When It Sizzles(1964)
- ジャスト・ア・ジゴロ Just a Gigolo(1979)
- MARLENE/マレーネ Marlene(1984)
その他
- 真実のマレーネ・ディートリッヒ Marlene Dietrich: Her Own Song(2001) - マレーネの孫デヴィッド・ライヴァ監督のドキュメンタリー。
- 永遠のヒロイン(NHK 2010年)
受賞歴
- ノミネート
- 1931年 アカデミー主演女優賞:『モロッコ』
- ノミネート
- 1958年 主演女優賞 (ドラマ部門):『情婦』
通称
本名はマリー・マグダレーネ・ディートリッヒ(Marie Magdalene Dietrich)であるが、彼女はファーストネームとミドルネームを合わせて1つとして現在良く知られている通称を自身創造した。つまりMarie Magdaleneの太文字部分を合わせ、マレーネ・ディートリッヒ(Marlene Dietrich)とした。
第二次世界大戦開戦後アフリカ戦線で敵味方両軍の間でブレークした『リリー・マルレーン』はララ・アンデルセンが最初にリリースしたものである。原題は"Lili Marleen"とディートリッヒの通称・マレーネ("Marlene")とスペルが若干異なるが、英語読みすると似た発音になる。彼女は"Lili Marlene"としてカバーして、連合軍兵士を慰問した。日本では『リリー・マルレーン』はマレーネのオリジナルと見なされているほどである。
参考文献
関連項目
- ディートリヒ
- グレタ・ガルボ
- アドルフ・ヒトラー
- エディット・ピアフ:シャンソン歌手。パリでマレーネと親友になる。
- ズビグニェフ・ツィブルスキ:俳優『灰とダイヤモンド』に主演。マレーネの友人。
- リリー・マルレーン
- 嘆きの天使賞:ベルリン映画祭の賞の1つ。
- マレーネ・ディートリッヒ広場
- 淀川長治
- 小松政夫:「わりーね、わりーね、ワリーネ・ディートリッヒ」という持ちネタがある。
- ジャン・コクトー:ピアフと並ぶ親友の1人。
- ジャン・ギャバン:恋人同士であった。
- ユル・ブリンナー:1950年代の恋人の1人だった。
- アーネスト・ヘミングウェイ:互いに「クラウト」、「パパ」と呼び合う。ベッドを共にしなかった数少ない男性の親友。
- エーリヒ・マリア・レマルク:1930年代後半にマレーネの恋人となる。『凱旋門』のヒロインジョアン・マドゥーは、マレーネがモデルと言われている。
- 『無敵鋼人ダイターン3』:登場人物の一人である執事のギャリソン時田は、好きな女優にマレーネを挙げている。