パリで一緒に

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パリで一緒に
Paris When It Sizzles
監督 リチャード・クワイン
脚本 ジョージ・アクセルロッド
原作 ジュリアン・デュヴィヴィエ
アンリ・ジャンソン
製作 リチャード・クワイン
ジョージ・アクセルロッド
出演者 オードリー・ヘプバーン
ウィリアム・ホールデン
音楽 ネルソン・リドル
撮影 チャールズ・ラング・Jr
配給 パラマウント映画
公開 アメリカ合衆国の旗 1964年4月8日
日本の旗 1964年5月30日
上映時間 110分
製作国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
言語 英語
製作費 $4,000,000(見積値)[1]
配給収入 日本の旗1億214万円[2]
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パリで一緒に』(パリでいっしょに、Paris When It Sizzles)は、1964年アメリカ合衆国ロマンティック・コメディ映画。監督はリチャード・クワイン。『麗しのサブリナ』(1954年)で共演したオードリー・ヘプバーンウィリアム・ホールデンが再び共演した作品。原案はジュリアン・デュヴィヴィエとアンリ・ジャンソンの1952年フランスの映画アンリエットの巴里祭フランス語版』の台本。それをジョージ・アクセルロッドが脚色した。

ストーリー[編集]

著名な脚本家であるリチャード・ベンソン(ウィリアム・ホールデン)は、プロデューサーのアレギザンダー・マイヤハイム(ノエル・カワード)からの出資をとりつけ、映画『エッフェル塔を盗んだ娘』の脚本執筆に取り組んでいることになっている。とはいえ、決まっているのはキャッチーなタイトルだけで、実際にはパリのホテルに滞在しながら遊び呆ける毎日を過ごしていた。

締切まであと2日となったある日、若き女性タイピストのガブリエル・シンプソン(オードリー・ヘプバーン)がホテルの部屋にやってくる。ガブリエルは脚本が1ページもできていないことに驚きあきれる。リチャードは彼女の刺激を受けながら、ようやく脚本の執筆にとりかかる。彼はガブリエルをモデルに“ギャビー”(ガブリエルの親称)というキャラクターを立ち上げ、自分をモデルにした嘘つきの泥棒“リック”(リチャードの親称)との、巴里祭を舞台にしたサスペンスもののラブ・ストーリーを書き始める。

リチャードは脚本家としての自分の仕事に誇りを持つ一方で、虚しさや疑念を感じてもおり、ほとんど酒浸りになっている。一日めが終わりガブリエルが自分の寝室に引っ込んでしまうと、リチャードはアレギザンダーに電話をかける。呼び出し待ちの間に無人の電話口で『エッフェル塔を盗んだ娘』の仕事を断る言い回しを練習していると、雰囲気を察してネグリジェ姿で現れたガブリエルに優しい言葉をかけられ、リチャードはやる気を取り戻して電話を切る。

翌朝、ガブリエルが寝室から出ると、リチャードが夜通しタイプライターで書き続けた原稿が道のように足元に並べられ、たどっていくと壁際で逆立ちをしたリチャードに行き当たる。リチャードはフレッド・アステアの歌うレコードに合わせてガブリエルとダンスを踊り、その後で脚本の筋書きをガブリエルに紹介する。リチャードが口に出すストーリーの続きをガブリエルがタイプし、ストーリー上のリックとギャビーにリンクするように、現実のリチャードとガブリエルも親密な関係となる。

ストーリーのなかでは、公開前の映画『エッフェル塔を盗んだ娘』のフィルムを盗み出して大金をせしめようとするリックと、警察の手先としてリックの動向を探ろうとするギャビーの犯罪と恋の駆け引きに加え、ジレー警視( グレゴワール・アスラン )やフィリップ刑事(トニー・カーティス)による追跡が繰り広げられる。リックはギャビーを寝返らせ、一緒にプライヴェート・ジェットで逃走しようとするが、フィリップの放った銃弾に倒れ、悲劇として幕を閉じる。

悲劇の結末に涙ぐむガブリエルに対し、泥酔状態のリチャードはリックの結末と自分を重ね合わせ、現在の仕事の無意味さを辛辣に愚痴り、そのまま眠り込んでしまう。翌朝、リチャードが目を覚ますとガブリエルの姿はなく、ガブリエルが持ち込んだ鳥籠と小鳥だけが残されている。

キャスト[編集]

役名 俳優 日本語吹き替え
東京12ch フジテレビ
ガブリエル・シンプソン/ギャビー オードリー・ヘプバーン 池田昌子
リチャード・ベンソン/リック ウィリアム・ホールデン 家弓家正 羽佐間道夫
アレックス・マイヤハイム ノエル・カワード 早野寿郎 兼本新吾
ジレー警視 グレゴワール・アスラン 吉沢久嘉 大宮悌二
フィリップ トニー・カーティス[注 1] 広川太一郎 安原義人

スタッフ[編集]

  • オードリー・ヘプバーンの香水:ユベール・ド・ジバンシィ

エピソード[編集]

  • 作品中、マレーネ・ディートリヒトニー・カーティスメル・ファーラー(ヘプバーンの当時の夫)、ピーター・セラーズがゲスト出演し、フランク・シナトラフレッド・アステアの歌が使われている[3][4][5]フレッド・アステアの「That Face」を除いてクレジットはない。
  • ただし、トニー・カーティスのみ、日本での1972年リバイバル時にはポスターで3番目にクレジットされていた[6][7][8]
  • オードリー・ヘプバーンの衣装デザインはユベール・ド・ジバンシィ[9][4]。また、この映画ではオードリー・ヘプバーンの香水の製作者としてもクレジットされている[10][11]。『パリで一緒に』は出演者のつけた香水をクレジットに載せた史上初の作品となった[12]
  • 撮影は1962年の7月〜11月に行われており、撮影時のヘプバーンは33才。公開は1964年と、後で撮った「シャレード」より後になった。
  • 後年のヘプバーンの伝記ではホールデンがアルコール使用障害になっていたことなどが、撮影現場の雰囲気や状況を悪化させ、撮影日数が遅れたと書かれている[13][14][15][16]。しかし、撮影中に実際に現場にいて宣伝写真を撮っていたボブ・ウィロビーによると、監督、ホールデン、ヘプバーンが「この撮影を通して人生をエンジョイしていた」「このときのオードリーは最高の輝きを見せていた」と逆のことを述べている[17]。ヘプバーン自身も息子ショーンに『パリで一緒に』の撮影はとても楽しかったと語っており、「映画を製作するときの体験とその出来栄えは関係ない」と述べている[18]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ クレジットなしだが出演場面は多く、劇中劇で「おまえなんか警官Cで小さくクレジットされるだけだ」などと頻繁に揶揄されている。
  2. ^ 再放送1976年5月14日『ゴールデン洋画劇場』。
  3. ^ オードリー・ヘプバーン追悼企画として放送。

出典[編集]

  1. ^ Paris - When It Sizzles (1964)” (英語). IMDb. 2011年5月18日閲覧。
  2. ^ 1967年『キネマ旬報』5月下旬号(キネマ旬報社)49頁。
  3. ^ 「パリで一緒に」映画パンフレット: 解説ページ. (1964年初公開時および1972年リバイバル時). 
  4. ^ a b シネアルバム5『オードリー・ヘプバーン きらめく真珠のように 夢みる白鳥のように』p111. 芳賀書店. (1971年12月20日初版発行) 
  5. ^ 『Sinatra In Hollywood 1940-1964)』(ASIN : B000066BN9)DISC6。
  6. ^ 『カタログ オードリー・ヘプバーン』雄鶏社、1977年1月25日、23頁。 
  7. ^ 井上由一『オードリー・ヘプバーン 映画ポスター・コレクション』DU BOOKS、2019年12月25日、129頁。 
  8. ^ 『オードリー玉手箱』チネアルテ/映画堂出版、2009年11月30日、66頁。 
  9. ^ 『カタログ オードリー・ヘプバーン』雄鶏社、1977年1月25日、116頁。 
  10. ^ ジェリー・バーミリー『スクリーンの妖精 オードリー・ヘップバーン』シンコー・ミュージック、1997年6月13日初版発行、167頁。 
  11. ^ バリー・パリス『オードリー・ヘプバーン 上巻』集英社、1998年5月4日初版発行、369頁。 
  12. ^ エレン・アーウィン&ジェシカ・Z・ダイヤモンド『the audrey hepburn treasures』講談社、2006年9月25日、112頁。 
  13. ^ バリー・パリス『オードリー・ヘプバーン 上巻』集英社、1998年5月4日初版発行、365-367頁。 
  14. ^ チャールズ・ハイアム『オードリー・ヘプバーン 映画に燃えた華麗な人生』近代映画社、1986年3月15日、206-208,210頁。 
  15. ^ アレグザンダー・ウォーカー『オードリー リアル・ストーリー』株式会社アルファベータ、2003年1月20日、247-248頁。 
  16. ^ ロビン・カーニー『ライフ・オブ・オードリー・ヘップバーン』キネマ旬報社、1994年1月20日、127-128頁。 
  17. ^ ボブ・ウィロビー『オードリー・ヘプバーン』朝日新聞社、1993年12月30日初版発行、79頁。 
  18. ^ (ヘプバーンの長男)ショーン・ヘプバーン・フェラー(ファーラー)『AUDREY HEPBURN―母、オードリーのこと』竹書房、2004年5月18日、165頁。ISBN 978-4812416686 

外部リンク[編集]