バルジの戦い

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バルジの戦い
Battle of the Bulge
M-4 Sherman Tanks Lined up in a Snow Covered Field, near St. Vith, Belgium (15726815434).jpg
サン・ヴィト近郊で配置につく第7機甲師団、第40戦車大隊のM4戦車。
戦争第二次世界大戦西部戦線
年月日1944年12月16日 - 1945年1月25日
場所アルデンヌ高地、ベルギールクセンブルク
結果:連合軍の勝利
交戦勢力
ナチス・ドイツの旗 ナチス・ドイツ 連合軍
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
イギリスの旗 イギリス
カナダの旗 カナダ
指導者・指揮官
ナチス・ドイツの旗アドルフ・ヒトラー総統
ナチス・ドイツの旗 ゲルト・フォン・ルントシュテット(西方総軍司令官)
ナチス・ドイツの旗ヴァルター・モーデルB軍集団司令官)
ナチス・ドイツの旗ヨーゼフ・ディートリヒ第6SS装甲軍司令官)
ナチス・ドイツの旗 ハッソ・フォン・マントイフェル第5装甲軍司令官)
ナチス・ドイツの旗 エーリッヒ・ブランデンベルガー第7軍司令官)
アメリカ合衆国の旗ドワイト・アイゼンハワーSHAEF司令官)
イギリスの旗 バーナード・モントゴメリー第21軍集団英語版司令官)


アメリカ合衆国の旗オマール・ブラッドレー第12軍集団英語版司令官)
アメリカ合衆国の旗コートニー・ホッジス第1軍司令官)
アメリカ合衆国の旗ジョージ・パットン第3軍司令官)
アメリカ合衆国の旗トロイ・H・ミドルトン英語版第8軍団英語版司令官)

戦力
500,000 840,000
損害

戦死 12,652
行方不明 30,582
戦傷 38,600
合計81,834[1]

もしくは100,000[2] ~120,000[3]

アメリカ軍
戦死8,607
戦傷 47,139
捕虜・行方不明 21,144
合計 76,000[4]
戦死 19,276
戦傷 47,139
捕虜・行方不明 21,144
合計 87,559

イギリス軍
戦死201
戦傷・行方不明 1,400

西部戦線 (1944-45)

バルジの戦い(バルジのたたかい、英語: Battle of the Bulgeバトル・オブ・ザ・バルジ、その他の呼称は「バルジの戦い#名称」を参照)は、第二次世界大戦における西部戦線において1944年12月から1945年1月の間、アルデンヌ高地で行われたナチス・ドイツドイツ国防軍(以下ドイツ軍)とアメリカ軍を主体とする連合軍との戦闘の名称。

概要[編集]

1944年12月16日連合軍の重要な兵站基地であったアントワープ占領を目標として、ドイツ軍の3個軍がアルデンヌ地方においてアメリカ軍に攻撃をかけた。アメリカ軍はアルデンヌでのドイツ軍の攻撃を予期しなかったため、アルデンヌには実戦経験が皆無か、以前の戦闘で消耗していた師団ばかりが配置されていた。その上悪天候により航空支援も受けられず、緒戦では多くの戦線でドイツ軍の突破を許した。しかしながらドイツ軍の補給線が伸びて行く一方で、アメリカ軍は増援部隊の到着により防衛線を着々と固めていき、12月25日には最大でもミューズ川手前でドイツ軍の攻勢は阻止され、戦線は「バルジ」(突出部の意)を形成していた。翌年の1945年にはアメリカ軍による「バルジ」への反撃が開始され、ドイツ軍の作戦は失敗し、ドイツ軍は貴重な戦力や物資を余計に消耗することとなった。

名称[編集]

アメリカをはじめとする欧米では、ドイツ軍の突出した戦線「バルジ」にちなんで「バルジの戦い」(Battle of the Bulge)という名称が主に使われる。

ドイツでは作戦の正式名称であった「ラインの守り作戦」(Unternehmen Wacht am Rhein)または西方総軍司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥の名前をとって「ルントシュテット攻勢」(Rundstedt Offensive)の名が使われている。

そのほか「アルデンヌの戦い」(Battle of the Ardennes)という名称もある。

日本では「バルジの戦い」が一般的だが、「バルジ大作戦」とする資料も存在する。

以下、断りがなければ戦闘名はすべて「バルジの戦い」とする。

戦闘前の状況[編集]

連合軍進撃の停滞[編集]

1944年6月6日から始まったノルマンディー上陸作戦以降アメリカ・イギリス軍を主体とする連合軍(以下連合軍)はフランスで進撃を続け、8月25日にはパリの解放が実現した。その後も連合軍はドイツ軍を追撃したものの、予想以上に早い連合軍の進撃は補給線の延長を招いたため連合軍の進撃は停滞し、戦線は膠着状態にあった。9月4日にはイギリス軍が良好な港湾があるベルギーアントワープを解放したものの、海とアントワープの間の水路の両岸にあるドイツ軍陣地の掃討が難航したため、港湾を補給拠点として使用する目処は立っていなかったのである。

この状況を打開するため、または「クリスマスまでに戦争を終わらせる」ために9月17日からオランダへの侵攻作戦、いわゆるマーケット・ガーデン作戦が開始された。だが、ドイツ軍の能力をあまりに軽視した作戦計画は作戦の進行とともに次々と欠陥を露呈し、本作戦は多くの犠牲とともに失敗した。戦線は再び膠着し、連合軍は一時的に進撃を中止して部隊の再編成とともに補給対策に取り組み始めた。また、東部戦線ではソ連軍によるバグラチオン作戦ポーランドの東部で息切れしていた頃で、小休止状態にあった。

ヒトラーの「最後の賭け」[編集]

かねてよりドイツのアドルフ・ヒトラー総統は、西部戦線での連合軍に対する反撃攻勢を夢想しており、ノルマンディーに上陸した連合軍がフランスを進撃していた頃に「11月には攻勢を始められるように準備せよ。1~2か月のうちに25個師団を西部戦線に移動せよ」という命令を出し、国防軍最高司令部の将軍たちを驚かせている。東西両戦線で連日大損害を被っていたドイツ軍には到底実現不可能な命令と思われたが、ヒトラーの強引とも言える戦争指導によって、連合軍による工場地帯への猛爆撃のなかでも軍需生産は増大して空前の生産記録を達成し、徴兵基準を強化して兵士の増員も進んで、ヒトラーの命令通り11月中には戦力の準備には目途をつけることができている[5]

ヒトラーの目論見としては、順調な進撃で自信過剰となっている連合軍の隙をつき、スピードに物を言わせて攻め立てて、一気にアントワープを奪還するというものであった[6]。アントワープは連合軍の主要な補給港であり、奪還することにより連合軍部隊の補給路を遮断し[7]、その後に連合軍のアメリカ、イギリス、カナダ、フランス各軍を個別に撃破しようという、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥がナチス・ドイツのフランス侵攻のさいに行ったマンシュタイン・プランの縮小版のような計画であり、ヒトラーは1940年の怒涛の電撃戦による快進撃をもう一度味わいたいと願い、さらには、連合軍を海に追い落とす、「第二のダンケルク」の再現まで夢想していた[8]。ヒトラーは短期且つ圧倒的な勝利によって、連合国の少なくとも1か国を戦争から脱落させ、一時的に強化された立場をもって、有利な講和に持ち込みたいと考えていた[9]

西方総軍司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥は、ヒトラーの計画を現実離れしていると考えて作戦に反対しており、より実現性の高い、アメリカ軍のアーヘン突出部を粉砕するといった限定的な反攻を計画しその準備も進めていたが、結局は、ヒトラーから、B軍集団ヴァルター・モーデル元帥と共に「ラインの守り作戦」の指揮を命じられた。作戦はヒトラーが国防軍最高司令部の参謀たちと細部に至るまで入念に練り上げたものであったが、ヒトラーは連合国に一泡吹かせてやるという復讐心だけが心の支えになっていた[10]。ルントシュテットは作戦計画を聞くと「アントワープだって?とんでもない、もしミューズ川に到達できたらひざまずいて神に感謝すべき」と酷評しているが[11]、のちに連合軍がこの作戦をあたかも自分が発案したかのように「ルントシュテット攻勢」と呼称していると知って立腹している[12]

作戦は当初計画では11月中の開始予定であったが、戦力の準備が遅延したことや、補給の問題も解決せずに2週間遅延していた[13]。ヒトラーは作戦準備の遅さに激昂し、最終的な作戦開始を12月16日の05:30と決定して、各指揮官に徹底した[14]。ヒトラーは作戦に参加する戦力として30個師団の投入を命じたが、実際に準備できたのは作戦に参加する精鋭約20個師団と予備5個師団の計25個師団となった[15]。この時期の多くのドイツ軍師団はこれまでの激戦での損失で多くが定員割れを起こしていたが、作戦に投入される師団には優先的に補充が行われ、ノルマンディで可動戦車3輌にまでなっていた第2装甲師団(英語版) は、作戦開始には定数の14,000人の兵力となっていた[16]。また、作戦の主力となる第1SS装甲師団ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」のパイパー戦闘団フィンランド語版には新鋭のティーガーII戦車が約20輌も配備された。練度の低い新編成の国民擲弾兵師団(en)もかき集めて投入されたが、なかには第26国民擲弾兵師団英語版 のように歴戦の歩兵師団を改編し、17,000人と通常の師団よりは多い兵員を割り当てられ、StG44アサルトライフルなどの新兵器もふんだんに配備された精鋭師団も含まれていた[17]。軍需燃料の不足も深刻さを増していたが、それまで備蓄していた予備燃料400万ガロン(1,500万リットル)を切り崩す許可をヒトラーが出した。しかしそれでも燃料不足が懸念されていた。

1944年12月時のアルデンヌ一帯は両軍ともに積極的な作戦行動が行われていなかったことから“幽霊戦線(ゴーストフロント)”などと呼ばれて、再編途中や休息中の部隊が配置され、兵士らの保養のために映画館やスポーツ施設や温泉などといった娯楽施設まで設置されていた。アメリカ軍全体に危機感が欠如しているなかで、第1軍司令部の情報参謀ベンジャミン・ディクソン大佐は、押収したドイツ軍の秘密文書や、周辺の航空偵察写真、ドイツ軍通信の傍受などを総合的に分析して「フォン・ルントシュテットは兵力を巧みに温存しており、しかるべきときに、しかるべき場所で、空軍、装甲兵力、歩兵、秘密兵器による集中的な反撃に出る能力を有している」「反撃の場所は、おそらくドイツ軍が幾度もフランス侵入への通路として使用したアルデンヌ近辺だろう」とほぼ完ぺきにドイツ側の意図を看破していたが、その分析が活かされることはなかった[18]

計画の立案[編集]

ライン(河)の守り作戦

9月中旬までに、アルデンヌの森を通って攻撃を行うことが決定された。主力は西方に進撃しミューズ川に達したところで北西のアントワープとブリュッセルに進撃する予定であった。最も困難なのは作戦開始での迅速な移動と考えられたが、ムーズ川を越えれば劇的に改善され、海岸への到達が可能になるはずであった。作戦は連合軍諜報部にラインラントの防御作戦と誤認させるため「ライン(河)の守り」Wacht am Rhein と名付けられた。これはドイツの歌から取られた名称でもある。

4個軍の作戦投入が決定された:

  • 第15軍は再編成されたばかりで、最北部に配置された。任務はその地域のアメリカ軍勢力を固定し攻撃に最適な状況を作り出すことであった。

攻撃の成功には三つの点が要求されると考えられた。

  • 攻撃は完全な奇襲であること。
  • 悪天候であること。連合軍の制空権を無効にし、補給路が確保できること。時期は冬季のしかも豪雪期に設定された。
  • 迅速な進撃。モーデルはミューズ川に4日で到達しなければいけないと考えた。

攻撃に先立つドイツ軍の部隊移動を連合軍は確認できなかった。フランスの解放によりレジスタンスから有益な情報がもたらされたが、連合軍がドイツ国境に達した現在それは意味を持たなかった。フランスではエニグマによって暗号化された無線通信による指令がドイツ軍内で行われており、それは傍受しウルトラで解読することができたが、ドイツ国内ではこのような指令が電話とテレプリンターを使用して送信されていた。また、来たる攻勢によるものと考えられる無線交信の特別遮断指令で交信が減少していた(ドイツ国内だったので電話や電報などが多用された)。7月20日のヒトラー暗殺計画失敗によるドイツ国防軍内での粛清によりドイツの通信セキュリティは再強化され、情報漏洩の減少に繋がった。更に秋の濃霧の天候は連合軍の偵察機が地形状況を評価するのを妨げた。作戦に反対していた国防軍首脳たちも、思いのほか順調に進んだ作戦準備で自信を深めて、ルントシュテットは「今や我々は全てを賭けている。失敗はあり得ない」、モーデルは「報復の剣を創造した総統と祖国とを、我々は決して失望させない。ロイテンの戦いの勝利の精神を持って、進め」と全軍に対して訓示した[21]

連合軍最高司令部は諜報部のこれまでの実績からドイツ軍の重要通信情報を重視していて、諜報作戦をほとんど成功していた。マーケット・ガーデン作戦時には現場レベルの師団配置情報の欠如による失敗があったが、それでも幹部クラス通信の傍受解析を重視していたもののこの時にはその種の通信が少なくなっていた。特に本作戦計画については、命令文を暗号通信で送信するのではなく、高級将校が厳重に管理した命令書を持ち運び、物理的に伝達先の高級将校に手渡すといった、原始的ながら徹底した機密保持策を行ったため情報が連合軍に漏洩することがなかった[22]。諜報部はこれをすでにドイツ国内は戦略爆撃により疲弊の極みと認識した判断による報告 - ドイツ軍はこの末期状況に於いていかなる攻勢も行うことはできない - を根拠としていた。現実にはドイツ軍は攻勢の準備をすすめており、偵察など現場情報からの積み上げで現場レベルでは攻勢が近いと判断していたが諜報部上層部は黙殺し、重要通信のみによる判断でアルデンヌの情勢に変化は無いものと考え、ほぼ完ぺきにドイツ側の作戦を看破していた第1軍情報参謀のディクソンは、「過労のせいで分析が悲観的になっている」として、軍上層部からの命令で強制的に休暇を取らされて後方に送られるといった有様だった[23]

アメリカ軍はディクソンの警告にも関わらずアルデンヌ方面の弱体な部隊の交代、もしくは強化を行わず放置した。アルデンヌ地区に展開しているアメリカ第8軍団英語版の司令官トロイ・H・ミドルトン英語版少将は「アルデンヌ地区は広大で、我が軍団は135㎞にわたって薄く長く展開しているのが現状」とオマール・ブラッドレー中将に警告したが、軍司令部では既にドイツ軍は相当に弱体化しており、もはや脅威とはなりえないという楽観論が主流となっており「心配するなトロイ、連中があそこを抜けてくることは金輪際ないから」と回答している[24]。ミドルトンの指揮下にあった歩兵師団は4個師団であったが、そのなかの第99歩兵師団英語版第106歩兵師団はアメリカ本土から到着したばかりで実戦経験はほとんどなかった。この頃にアメリカ本土から戦地に送られた将兵たちは、激戦が続く日本軍相手の太平洋戦域に派遣されるのを嫌がり、自分たちの部隊が西部戦線に派遣されるとわかると、全員が歓声をあげながら喜ぶといった状況になっており、この両師団の多くの将兵も自分たちが激戦に巻き込まれるとは考えていなかった[25]

ドイツ軍の攻撃[編集]

捕虜となったアメリカ第99歩兵師団の将兵の横を行くドイツ第501SS重戦車大隊のティーガーII戦車。

パイパー戦闘団の進撃[編集]

ヨアヒム・パイパー

南北に広く展開したドイツ軍の中で北部の侵攻を担当したのはヨーゼフ・ディートリヒSS大将が指揮する第6SS装甲軍であった。ヒトラーはヒトラー暗殺未遂事件以来、国防軍の高級将校を信頼しておらず、自分に忠誠を誓っている武装親衛隊への傾倒を強めており、ディートリヒにもっとも強力な戦力を与えて、作戦目的のアントワープに最も近距離の北部戦線の進撃を委ねていたが、そのなかでも最精鋭の第1SS装甲師団(ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー師団)の先鋒を担い、先頭に立ってミューズ川に向けて進撃したのがパイパー戦闘団フィンランド語版であった。戦闘団は4,800名の兵士と600両の車両[26]から成りドイツ陸軍にあって最年少(29歳)の連隊長のヨアヒム・パイパー親衛隊中佐が率いていた。1944年12月16日、戦闘団は期待された通りの急進撃を行って、第99歩兵師団と第106歩兵師団の間隙部を突破し[27]、目標のブフホルツ駅ドイツ語版で2個小隊のアメリカ軍歩兵を蹴散らして確保すると、休む間もなく進撃を再開した。12月17日の06:00頃、ホンシフェルトの村に到達し、駐屯していたアメリカ第99歩兵師団と第14騎兵連隊の一部を急襲、アメリカ軍は多数の対戦車砲を装備していたが、パイパー戦闘団の攻撃にろくに応戦もできずに降伏し、15門の対戦車砲と50輌以上の車両が鹵獲された。戦闘団は補給の遅れもあり燃料不足が懸念されていたが、08:00頃にビューリンゲン村のアメリカ軍の燃料集積所を急襲し、ここで5万ガロンの燃料を確保、自軍の車両に補給し、残りを鹵獲したトラックに積み込んで、再び西方へ進撃を開始した[28]

マルメディ虐殺事件[編集]

マルメディでのパイパー戦闘団の武装親衛隊員

12月17日12:30にパイパー戦闘団はマルメディリヌーヴィルフランス語版の間の高地、ボーネズ村英語版の近くでアメリカ第285砲兵観測大隊に遭遇した。小戦闘の後にアメリカ軍部隊は降伏し、捕虜の約150人が武装解除され後方に送られるため十字路の近くの野原に8列横隊で立たされた。パイパーは捕虜監視のため自走砲と2輌のトラックを置いて更に進撃した。生存者の証言では、この部隊を率いていた将校がまず1人を射殺し、それを合図にしてトラックに搭載されていた2挺の機関銃が乱射されて捕虜多数が射殺され、ドイツ兵はさらに負傷している兵士に近づくと一人一人頭を撃ちぬいてとどめを刺し、最後は笑いながらアメリカ兵の遺体を射的の的代わりにして銃弾を撃ち込んでその場を後にしたという[29]。生存者のなかにはドイツ軍の将校が「Macht alle kaputt」(皆殺しにしろ)と命令したのを聞いたというものもいた[30]

この事件で84人のアメリカ兵が虐殺されたが、のちに遺体の検視が行われ、43体が頭部に銃弾による傷を負い、少なくとも3人が頭部に重度の打撃を受け、3人が押しつぶされ、9人がまだ頭の上に腕を上げている状態でこと切れているなど生存者の証言に合致するような状況であったが、逆にドイツ兵がアメリカ兵の遺体を物色して金品を強奪していったという証言に対しては、多くの遺体に物色された痕跡がないなど証言と矛盾する状況もあった[31]。 虐殺はバルジの戦いを取材していたアーネスト・ヘミングウェイ従軍記者によって報道され[32]、あっという間にアメリカ全軍の末端の兵士にまでこの衝撃的なニュースは広まった。このニュースを聞いたアメリカ軍前線指揮官のなかには、親衛隊員は捕虜にはせず見つけ次第殺していいという命令をするものもあった[33]

パイパーはその後も急進撃を続け、12月17日の午後5時にはスタブロー英語版を望むアンブレブ川英語版の対岸に到達していた。パイパーは夜陰に紛れて橋梁を渡ってスタブローを急襲する計画を立てたが、先行していた戦車が地雷で擱座したため、アメリカ軍に発見されたと考え、夜襲をあきらめて明日の早朝にスタブローを攻撃することとした、パイパーはこれまでの実績から1日に50マイルは進撃可能と考えており、あと42マイルまで迫っていたミューズ川には翌日には到達できると見込んだことも、この攻撃延期の判断につながったが、この攻撃延期の判断がのちにパイパー戦闘団の運命を変えることとなった[34]。連合軍はスタブローを突破されると、ウェルボモンフランス語版が危機にさらされ、ウェルボモンも突破されれば、ミューズ川河畔の重要拠点リエージュまでは一本道であることから、パイパーの急進撃に危機感を抱いている[35]

北部戦線の戦い[編集]

クリンケルトでアメリカ軍のバズーカで撃破されたヒトラーユーゲント師団のパンター戦車、手を挙げているのは捕虜になったドイツ軍戦車兵

第1SS装甲師団と北部突破作戦の要とされていた第12SS装甲師団(ヒトラーユーゲント師団)であったが、大きな期待とは裏腹に作戦初日から、「ヒトラーユーゲント」の露払いをするべきであった第277国民擲弾兵師団が、第99歩兵師団英語版の激しい抵抗にあってなかなか前進できずにいた。「ヒトラーユーゲント」師団長フーゴ・クラース(de:Hugo Kraas)SS少将は、増援としてIV号駆逐戦車部隊を送り、12月17日にはどうにかアメリカ軍の防衛線をこじ開け、ようやく作戦開始点からわずか数マイル先の村落クリンケルトとロッヒェラートに向けて進撃を開始することができた。しかし、アメリカ軍は実戦経験が豊富な精強師団ながら、再編成のために休息中であった第2歩兵師団第9連隊の1個大隊を足止めのため村落の途上にあるラウスデール十字路英語版に派遣した。そして同大隊にはエルセンボルン峠英語版に配置されたアメリカ軍砲兵部隊が支援を行った[36]

第2歩兵師団の頑強な抵抗と激しい支援砲撃に第277国民擲弾兵師団は再び釘付けにされた。焦るクラースは、2個中隊のV号戦車パンターを抽出すると、ドイツ軍の戦闘教則を破って擲弾兵の支援なしで12月18日にラウスデール十字路に突入させた。パンター隊はアメリカ軍の阻止砲撃でたちまち4輌が撃破されながらもどうにか村落に突入したが、村落内で待ち伏せしていた第741戦車大隊のM4中戦車20輌と第644戦車駆逐大隊のM10駆逐戦車数輌にパンター6輌が撃破され、その後も村落に陣地を構築していた第38歩兵連隊のバズーカM1 57mm砲で次々と撃破された。ドイツ軍はさらに第12国民擲弾兵師団英語版を主力とする増援をつぎ込み、翌日まで激しい戦いが続き、19日の午後になってようやくアメリカ軍部隊が村落から撤退したが、この戦闘で北方のドイツ軍は大損害を被った[37]。第741戦車大隊は8輌のM4を喪失したが、27輌のパンターと数輌の突撃砲を撃破、第644戦車駆逐大隊も16輌のパンター撃破を報告しているが、これは過大戦果報告ながら、抽出されたパンター2個中隊はこの攻撃で壊滅しており、早くも「ヒトラーユーゲント」は主力戦力を失ってしまった[38]

翌12月20日に「ヒトラーユーゲント」は残存戦力からヤークトパンターIV号駆逐戦車IV号戦車を抽出し、第12国民擲弾兵師団と連携してドム・ビュトゲンバッハ英語版の突破を試みた。しかし、攻撃翌日の21日には第613駆逐戦車大隊の新鋭駆逐戦車M36ジャクソンが増援として到着、さらに翌22日には第745戦車大隊のM4戦車1個中隊と第2歩兵師団第38歩兵連隊が到着して攻撃は撃退され、「ヒトラーユーゲント」は早くもこの12月22日で進撃が停止してしまい、連携して進撃するはずであった第1SS装甲師団は孤立してしまった[39]

第5装甲軍の快進撃[編集]

アルデンヌを進軍するドイツ兵。
ドイツ軍の捕虜となったアメリカ兵

マントイフェル率いる第5装甲軍は戦線の中央の進撃を開始した。折からのひどい悪天候により連合軍は航空機を飛ばすことができず、大いにドイツ軍の助けとなった。第6SS装甲軍がヒトラーの指示で作戦開始前に、アメリカ軍陣地に集中砲火を加えてから進撃を開始したのに対して、マントイフェルはこれまでの豊富な実戦経験から、強固な陣地を構築する敵に対して多少の準備砲撃を行ったところで、敵に与える損害は大したことはないのに対して無用に防備を固める逆効果しかないと考えており、ヒトラーの命令に逆らって、まずは、入念に戦場の地形の偵察を行ない、敵に気づかれないうちに包囲する浸透戦術をとることにしている[40]

“幽霊戦線”でもっとも敵陣に近いところに配置されていた部隊の1つが戦闘経験の乏しい第106歩兵師団であったが、マントイフェルは事前に機械化部隊を第106師団が陣地を構築している丘陵地帯を迂回させ、道路に沿って進撃させていた。やがて作戦開始時間となると、油断しきっていた第106師団の2個連隊を包囲してしまった[41]。これは、正面からクリンケルトとロッヒェラートを攻めて苦戦している第6SS装甲軍とは対照的でマントイフェルの巧みな指揮が際立つこととなった。第106師団長のアラン・ジョーンズ少将は、包囲された2個連隊にサン・ヴィト方面への脱出を命じるが、ドイツ軍の包囲は厚く包囲網を突破することができず死傷者が続出した。弾薬などの物資が底をついたが、悪天候で空輸でも補給もままならず、包囲されて3日後の12月19日、両連隊長はドイツ軍に降伏した。この降伏でアメリカ軍は9,000人余りが捕虜となりドイツ軍はこの勝利を誇らしげに喧伝し、この後も足踏みが続く第6SS装甲軍主力に対して、第5装甲軍の快進撃が続くこととなる[42]

突然の反撃に不意を突かれた第8軍団英語版の司令官トロイ・H・ミドルトン英語版少将は、ドイツ軍の規模やその意図についての情報を全く持たない中で、「諸隊が現在地を撤退するのは、そこが持ち堪えられなくなったとき、ただ、その時にかぎる」と実質的な死守命令を出した。隷下の各師団からはドイツ軍の戦力が強大なことや、いたるところで前線が突破されているという情報がもたらされたが、ミドルトンの死守命令が覆ることはなく、さらに「一切の陣地はいかなる犠牲をはらっても、これを堅持せよ」と強い命令を下している[43]

戦線中央には第28歩兵師団英語版の3個連隊が薄く広く配置されていたが、第5装甲軍はその機動性を活かして、攻撃2日目までには交通の要衝であるサン・ヴィト、ウーファリズ英語版バストーニュを攻略するように命じられていた。とくに東西の道路網の中心でバストーニュは、アメリカ軍の反撃阻止の意味合いからも最重要攻略目標とされていた[44]。第5装甲軍はアメリカ軍の陣地を迂回しながらバストーニュ目指して進撃したが、クレルヴ川英語版をのぞむ要衝を守る第28歩兵師団の第110歩兵連隊と戦闘になった。攻撃初日にドイツ軍は第110歩兵連隊が守る要衝のひとつマルナッハ英語版に第2装甲師団の装甲擲弾兵が到達、激戦の末に攻略に成功していた。第110歩兵連隊のハーレー・フラー大佐は、自分たちが守る地域はクレルヴ川にかかる橋梁を望める要衝であり、その重要性を痛感していたことから奪取されたマルナッハの奪還を試み、第707戦車大隊の支援を受けて3方向からマルナッハを目指したが、昨日のうちに、ヴィレル・ボカージュの戦いでも名高い精鋭の装甲教導師団が村落に到着しており、装甲擲弾兵のみと考えていたフラーの目論見は外れて、強力なドイツ軍の反撃に第110歩兵連隊は大損害を被った。なかでも北方から進撃してきた18輌のM5軽戦車がドイツ軍戦車の砲撃で次々と撃破され、11輌を失って撃退されるなど、アメリカ軍の攻撃は失敗した[45]

その後、第110歩兵連隊はクレルヴォー英語版ホージンゲンドイツ語版でドイツ軍を迎え撃つこととなった。ミドルトンは予備兵力の第9機甲師団R戦闘部隊から戦車1個中隊と駆逐戦車4輌を送り込みフラーに死守命令を出したが、もはやクレルフ川をドイツ軍に突破されるのは時間の問題となっており、増援はこれが最後となった。それでも第110歩兵連隊は優勢なドイツ軍の攻撃に36時間も耐え続けたが、市街に突入した装甲教導師団の戦車が、連隊指揮所の置かれたホテルに零距離で砲撃を浴びせてきたため、連隊長のフラーは指揮所から脱出して後方の部隊に合流を目指したが、途中でドイツ軍の捕虜となってしまった[46]。連隊長を失った後も各拠点は頑強に抵抗したが、12月18日になってまずはホージンゲンが降伏した。クレルヴォーでは連隊長を失った連隊本部の将兵が、クレルフ川の橋を望むクレルヴォー城英語版に立て籠もって最後まで抵抗したが、大きな城壁に戦車の徹甲弾で大きな穴をいくつもあけられて城が炎上すると「ドイツ軍の戦車と歩兵に包囲されている。さらに多くの戦車と歩兵がクレルヴォーを通過して北進中である」と打電したのち降伏した。第110歩兵連隊はこれで壊滅したが、その犠牲によって40時間以上もドイツ軍の足止めに成功し、ドイツ軍の進撃計画は大きく狂うこととなった[47]

特殊作戦[編集]

シュテッサー作戦[編集]

連合国占領地域後方への空挺降下による本作戦の支援、連合軍の攪乱を狙いとするシュテッサー作戦が計画された。シュテッサー作戦では作戦開始が12月16日の午前早くに予定されたが悪天候と燃料不足のため、結局一日遅れの12月17日の03:00に降下時間が設定された。降下部隊の目標地点はマルメディから11km北の「バラク・ミシェル」十字路であった。フリードリッヒ・フォン・デア・ハイテ中佐と部下は同地点を確保、第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」が到着するまでの24時間を防衛し、同地点への連合軍の増援と補給を妨害する予定であった。

12月17日の午前零時直後、112機のJu 52輸送機が約1,300名の降下兵を搭載し、多くの雲と強い風雪の中離陸した。その結果多くの機が予定コースを外れ、また降下地点に接近していた強風のため多くの兵士が降下予定地点から遠く離れた地点に着陸した。

17日の正午に約150名(300名の説もある)が目的地点に集合したがこの人数では戦力的に不十分なため、フォン・デア・ハイテ中佐は十字路を確保する計画を放棄し、付近に隠れて味方の到着を待つことにした。しかし、5日待っても味方が現れないため、部隊は小グループに分かれて自軍の方向に戻ることにしたが、戻る途上でフリードリッヒ・フォン・デア・ハイテ中佐は疲労のためアメリカ軍に降伏した[48]。何の戦果も上げなかった降下であったが、降下が広範囲に分散したため、各地からの報告で連合軍司令部は大規模な降下作戦が実施されたと誤認した。多くの混乱が生じ後方の安全を確保するための人員配置を行ったため、前線への増援が遅れ結果としてドイツ軍の攻勢を許すこととなった。

グライフ作戦[編集]

第150SS装甲旅団の偽装M-10駆逐戦車

10月21日、オットー・スコルツェニー親衛隊中佐はヒトラーから直々に特殊任務を命じられ、特殊部隊第150SS装甲旅団英語版を指揮することになった。旅団は1個の歩兵班と2つの機甲班で編成されていたが、歩兵班のなかにはアメリカ軍の軍服を着てアメリカ兵に成りすまして後方攪乱するアインハイト・スティーラウ大尉率いる特殊部隊も含まれていた。特殊部隊は80人の編成であり、非常に流ちょうな英語を話すものもいたが、なかにはどうにかわかる程度のものもいた。特殊部隊は偵察班と破壊活動班に分けられ、アメリカ軍から鹵獲したジープに分乗し、敵中深く侵入して作戦の突破口を開くことが求められていた[49]。この特殊部隊のなかで指揮官のスコルツェニーに「自分はパリに詳しいので連合軍最高司令部を占領する任務を任せてほしい」と自らアピールする隊員も現れたが、のちにこのアピールが隊内に広がって作戦に予想外の効果をもたらせることとなった[50]

機甲班にはアメリカ軍から鹵獲したM4中戦車などが配備されたが数が全く足りなかったので、M-10駆逐戦車に似せて改造したパンター戦車、アメリカ軍塗装を施したIII号突撃砲や、車両に砲塔ハリボテを付けた偽装車両が配備された。隊員はドイツ全軍から志願者を募った。陸軍だけではなく海軍や空軍からも志願者が殺到したが、英語を話せるものという条件に対してはせいぜい「イエス」「ノー」「OK」を理解する程度の志願者がほとんどであった。志願者は戦車訓練場に集められると、外部との連絡を一切遮断され、アメリカ人になりきる特殊訓練を受けた。訓練のなかにはアメリカ人らしくチューインガムを噛む訓練などもあったが、長い間刷り込まれた慣習は抜け切れるものではなく、アメリカ兵らしくガムを噛んでいても、将校が命令すると直ぐに飛び上がるように敬礼してしまうなど、アメリカ人になりきれない状況を見てスコルツェニーは頭を抱えている[51]

ドイツ軍の侵攻が開始されると、真っ先にスティーラウ大尉率いる特殊班が戦場に投入された。しかし、投入された第6SS装甲軍の戦区は同軍の苦戦によって、道路上には敵味方の車両があふれ作戦実施が困難となっていた。そこでスコルツェニーが作戦を継続するか思い悩んでいる間に特殊班の1部は既に活動を開始しており、アメリカ軍の後方深くの侵入に成功し、道路標識や通信設備を破壊してアメリカ軍を混乱させ、なかには3,000人のアメリカ軍大部隊に流ちょうな英語で嘘の進路案内をして違った道に誘導した班もあった。また、ある班はミューズ川を渡ってアメイ英語版を偵察して無事に帰還したが、結局この攻勢で唯一ミューズ川を越えたドイツ兵となっている[52]。特殊班は捕らえられると、アメリカ軍の軍服を着ていたため多くがスパイとして即決裁判で処刑されたが、わずか80人の特殊班が挙げた戦果は素晴らしいものであり、アメリカ軍を大きく混乱させた[53]

アメリカ軍に銃殺される第150SS装甲旅団の特殊班員

この作戦で最も大きな効果を上げたのがリエージュの南エイワイユ英語版まで到達したギュンター・ビリング士官候補生率いる1班であった。そこでアメリカ軍に捕らえらてしまったが、班員の1人ヴィルヘルム・シュミット伍長は「部隊の指揮官はスコルツェニーである」「我々の真の目的はドイツ軍捕虜護送任務を装ってパリに向かい連合軍総司令部を襲撃することだ」という自白を行った。これは、一部の隊員がスコルツェニーに進言していた計画であるが、実際に進められてはいなかったのにも関わらず、一部の隊員の中には「この作戦の真の目的」と信じられており、シュミットも自信を持って自白したものであった。この自白を聞いたアメリカ軍も、いくらドイツ軍とは言えこんな荒唐無稽な作戦を実施するわけがないという意見が主流であったが、情報部次長が「指揮官がグラン・サッソ襲撃ベニート・ムッソリーニを救出したスコルツェニーである、また広範囲に降下猟兵が降下しており、工作隊がパリを目指している可能性は高い」「工作隊は連合軍総司令官のアイゼンハワーの暗殺か誘拐を狙いにしているかも知れない」と警戒を呼び掛けた[54]

そのため、パリの連合軍司令部周囲には大量の憲兵が配置されて、さながら司令部が憲兵に包囲されていると揶揄された。また、アイゼンハワーにも常時護衛の兵士が付けられて自由に散歩もできず囚人のような生活を送った。さらに警戒しすぎた保安担当者は、アイゼンハワーに風貌が似て仕草の物まねも上手かったボールドウィン・B・スミス中佐を影武者に仕立てて、工作員をおびき寄せて殲滅するといった作戦を実行したが、当然ながら空振りに終わり、のちにこの作戦を知ったアイゼンハワーから保安担当者が厳しく叱責されている[55]。パリの連合軍全軍には夜20時以降の夜間外出禁止令も出された。パリ市内にもスコルツェニーの工作隊が変装して潜入しているというデマが広がり、その工作隊はアメリカ兵を目潰しするため硫酸の小瓶を所持しているという話まで広がっていた[56]。そのため、パリ市内は集団ヒステリー状態となって、幻の工作隊狩りが流行し、片言のドイツ語を話せる人物がドイツ軍のスパイとして糾弾されたり、アメリカ兵に愛想をよくしただけでバーの店主が工作隊の変装と疑われたりした[57]

前線も同様に混乱しており、至るところに検問所が設置され、兵員や装備の移動を停滞させることとなった。野戦憲兵は、友軍のアメリカ兵に銃を突きつけながら「ミッキーマウスガールフレンドは誰か?」「1934年のメジャーリーグの優勝球団は?」「シナトラのファーストネームは?」「大統領の犬の名前は?」「イリノイ州州都は?」などアメリカ人以外は知りそうもない豆知識的なクイズを出した[58][59]。軍司令官も例外ではなく、ブラッドレーは検問でイリノイ州の州都のクイズでスプリングフィールドと正しく答えたが、憲兵が州都をシカゴと思い込んでいたため、彼は短時間の拘留を受けることとなった(イリノイ州最大の都市はシカゴであるため、多くのアメリカ人が誤解している)。その後に「女優ベティ・グレイブルの今の夫は?」というクイズに「ハリー・ジェイムス」と正しい回答ができたこともあって解放された[60]第7機甲師団英語版B戦闘部隊指揮官ブルース・C・クラーク英語版准将はシカゴ・カブスのクイズで間違ったため、野戦憲兵は「こんな質問を間違えるのはクラウツだけだ」と興奮してクラークを拘束している。このためクラークはドイツ軍の攻撃を受けているサン・ヴィトへの到着が遅れてしまった[61]

皮肉なことにこの事件のせいで、「ヨーロッパで最も危険な人物」と綽名されるようになったスコルツェニーだが、自身はこの作戦は失敗だったとしている。特殊班の一部は大きな成果を挙げていたものの、第6SS装甲軍の進撃は捗々しくなく、また部隊の存在が明らかになった以上、作戦に固執しても仕方ないと判断し、スコルツェニーは作戦に見切りをつけ、ディートリヒに特殊任務から外れて通常の戦闘任務に就きたいと申し出た。ディートリヒはスコルツェニーの申し出を承認し、第150装甲旅団は第1SS装甲師団所属となり、兵士達は通常のドイツ軍軍服に着替えている。第150装甲旅団は、12月21日に第1SS装甲師団の後方を脅かすマルメディの連合軍部隊の排除を命じられたが、ここでアメリカ軍の新兵器近接信管付きの重砲の砲撃をドイツ軍として初めて浴びることになった。目標の至近で炸裂し弾片をまき散らす近接信管付きの砲弾は、通常の砲弾よりも殺傷力が高く、1斉射で100人以上が死傷するなど部隊は大損害を被って恐慌状態に陥り、スコルツェニーは攻撃を諦めて撤退を命じている[62]。その日、第1SS装甲師団の司令部が置かれたホテルにいたスコルツェニーは飛来してきたアメリカ軍の榴弾で重傷を負った。12月28日には旅団の将兵とともに撤退し、まもなく旅団も解散となった[63]

連合軍の防衛[編集]

連合軍の状況判断[編集]

ヨーロッパ戦線でのアメリカ軍司令官、前列左から2人目ジョージ・S・パットン、4人目ドワイト・D・アイゼンハワー、5人目オマール・S・ブレッドレー、6人目コートニー・H・ホッジス

ドイツ軍侵攻の報告が司令部に届いたとき、アイゼンハワーは部下の当番兵と婦人陸軍部隊の女性兵士との結婚式に出席していた。この時点でアイゼンハワーは事態が深刻とは考えておらず、結婚式を最後まで楽しんだ後、夜に第12軍集団司令官のブラッドレーとディナーの席で作戦協議をすることにしている[64]。ディナーの席でブラッドレーはドイツ軍の侵攻を「パットン率いる第3軍の進撃をけん制する目的」と限定的な攻撃であるとし特段の対応は必要ないと主張したが、アイゼンハワーは「ドイツ軍は敗北を認めるまえに総力をあげて一大攻勢にでてくる」と以前から考えており[65]、もっと面倒なことになりそうとして、前線から離れたところで休養中であった第7機甲師団英語版第10機甲師団英語版を増援として投入することを指示した。しかし、事態の深刻さには気づいておらず、2人はディナーが終わるとコントラクトブリッジで楽しんでいる[66]

翌12月17日には詳細な情報が寄せられ、司令部はパニックに陥った。アイゼンハワーと司令部の幕僚たちは、集まった情報でドイツ側の企画を探ろうとしたが、ドイツ軍の主目標を特定することができず、主力がどこかも判断できなかった。第1軍との通信は既に途絶しており、ブラッドレーは自分の判断ミスを認め、作戦地図を見ながら「あのクソ野郎どもはこんな余力をどこに隠していやがった」と感情的に呟いた[67]。パイパー戦闘団の急進撃も連合軍司令部の判断を迷わせ、「主攻も助攻もなく全ドイツ軍がいっせいに西進しているのでは?」という極端な意見も出るほどだった[68]。しかし、アイゼンハワーの決断は早く、連合軍最高司令部の予備戦力であった第18空挺軍団から、マーケット・ガーデン作戦のあと休養中であった第82空挺師団第101空挺師団を増援として投入することを決定し、交通の要衝であるバストーニュの防衛に向かわせた[69]。軍司令のマシュー・リッジウェイ中将はイギリスにいたが、命令を受けるとすぐに幕僚を招集して空路でドーバー海峡を渡り、出発済みの両師団を追ってバストーニュに向かった[70]。 これらのアメリカ軍司令部の動きはドイツ軍最高統帥部にとって全くの予想外で、特にアメリカ軍は指揮系統を無視した臨機応変な対応はできないと分析しており、こうも早く防衛体制を立て直せるとは考えていなかった。そしてこれらの増援部隊は各戦場で決定的な役割を果たすこととなる[71]

連合軍の作戦計画[編集]

12月18日にブラッドレーが第3軍のパットンと今後の作戦について電話で協議した。ドイツ軍の侵攻が開始されたとき、パットンは数日中にドイツ本国に向けての攻勢開始を計画しており、予備として使用予定であった第10機甲師団を第8軍団の援軍に回されたことに「このドイツ軍の攻撃は第3軍の攻勢をつぶそうとする妨害の攻撃以外の何物でもない」と腹を立てていたが[72]。ドイツ軍の攻勢が本格的で大規模なものと判明してくると、これを第3軍で叩こうという考えになっていた。アイゼンハワーとブラッドレーは事前に第3軍を反攻の主力とすることを決めており、ブラッドレーからパットンに対し「今夜中にでも、第4機甲師団英語版第80歩兵師団英語版だけでも出発させてくれ」と早急に第8軍団の支援に向かうように指示を行うと「アイクは第8軍団も貴官の指揮下に入れてドイツ軍撃退を任せるつもりだ」「明日、アイクがヴェルダンで会いたいと言っている」と作戦会議への参加を求めた。パットンは作戦会議への参加を了承すると「このさいクラウツにもっと進出させて、第3軍を南から北に転回させて包囲殲滅するチャンスだと思う、これで戦争は早く終わる」という意見を述べている[73]

12月19日連合軍上級指揮官達はヴェルダンで作戦会議を開催したが、今回の侵攻がドイツ軍による本格的な反攻であると確信したアイゼンハワーとブラッドレーの間で作戦方針は決定されており、その概要が参加者に説明された[74]

  1. ミューズ川を固守防衛線とする
  2. ドイツ軍攻勢を撃破することに主眼を置き、一時的に現戦線の一部を縮小しても反撃戦力を強化する
  3. 第21方面軍はミューズ川の南と東でドイツ軍を阻止する
  4. 第6方面軍はモーゼル川河畔で防衛態勢をとり第3軍の南翼をカバーする
  5. 第12方面軍は第21方面軍と連携しミューズ川東でドイツ軍を阻止するとともに、第3軍は第1軍と第8軍団を指揮してドイツ軍第5・第6装甲軍を撃破する

このときアイゼンハワーはパットンにバストーニュの南にいる第3軍を北部への反撃に向けるのにどのくらいかかるかを尋ねた。パットンは「私の3個師団なら12月22日、第1軍と第8軍団は12月25日」と答えた。前述の通り、第3軍は新たな攻勢のため東進準備をしており、わずか3日の間に全軍を北方向に90°転換させて適時適所に進軍させることは常識的には無理であり参加者はどよめいたが、パットンは昨日にブラッドレーから反攻戦力の主力にすると内示されてからすぐに第4機甲師団と第80歩兵師団に北進を指示しており、軍参謀らには司令部をルクセンブルグ内に移転することも命令済みで、準備を整えたうえで自信を持っての回答であった[75]。パットンの独演はさらに続いて「私の3個師団だけでもクラウツを叩き潰せる」「クラウツは挽き臼に頭をつっこんだようなもんだ、そしてその挽き臼の取っ手を握っているのがオレだ」などと冗談も言って、アイゼンハワーら出席者を爆笑させている。パットンの発言に満足したアイゼンハワーは「ジョージ、攻撃は早くても12月22日以降、遅くとも23日以前にしよう。しかし前進は手順をふんで注意してやってくれ」と命じ、パットンは大きくうなずくと「クリスマスまでにはバストーニュに到達する」と約束している[76]

しかし、会議の席では威勢のいいパットンの発言に賛意を示したアイゼンハワーも、やはり第3軍の3個師団だけの反撃では心もとないことと、ドイツ軍の進撃により巨大な「バルジ」ができつつあり、その北側と南側では連絡が取りづらくなっていることを考慮して、「バルジ」の北側を第21方面軍司令官のモントゴメリーに任せることとした。モントゴメリーを作戦に主体的に関わらせることによって、隷下のイギリス軍やカナダ軍の戦力も使用できるようになるが、北部のアメリカ第1軍と第9軍もモントゴメリーの指揮下に入ることとなり、第1軍司令官のホッジスをはじめアメリカ軍の指揮官たちは、偏屈で不愛想なモントゴメリーの指揮下に入ることを嫌がった[77]。戦況に即した戦闘序列の改編を命じたアイゼンハワーは、アメリカ軍とイギリス軍の間の不協和音を払拭するため「敵は堅固な陣地から突出することによって、最大の博打を最悪の敗北にする機会を我々に与えてくれた」「今や、地上、空中、いかなる場所でも敵を撃破することだけを考えるべきである。この決意の下に団結し、戦争目的に対する揺るぎない信念を持ち、神のご加護のもと、我々は最も偉大な勝利に向かって前進するのだ」と全軍に向けて訓示している[78]

ドイツ軍の状況判断[編集]

「ラインの守り作戦」作戦会議中の左からハンス・クレープス、ヴァルター・モーデル、ゲルト・フォン・ルントシュテット

攻撃開始3日目の12月18日、第6SS装甲軍と第5装甲軍の侵攻によってアメリカ軍内が恐慌状態に陥っているとの報告を受けた西方総軍司令官ルントシュテットは、北部に配置されている第15軍がアーヘンへ進撃する好機がきたとし翌19日に進撃開始を命じた。対峙していた第7機甲師団と第30歩兵師団英語版が増援として南下を始めており、手薄となったアーヘン地区の連合軍を一挙に包囲できると判断したからであった。しかしこれは、戦線を拡大することになって、まずはアントワープに向かって進撃することを優先するといったヒトラーの作戦方針とは異なるものであった。ルントシュテットが作戦開始わずか3日でこのような作戦の修正を行おうとした意図は、作戦開始2日目には第6SS装甲軍の先頭がミューズ川に達するという計画が達成できないばかりか、まだ25㎞しか進撃できていないことを知って、華々しい勝利の報告とは裏腹に作戦成功の見通しは到底持てないと判断したからと戦後に行われた連合軍の尋問で答えている[79]

ルントシュテットはヴォルフスシャンツェのヒトラーに第15軍の進撃開始の承認を申し出たが、ヒトラーは「勝利に向かって邁進している現段階において必要なことは別のことを考えるのではなく、第6SS装甲軍、第5装甲軍が開いたアメリカ軍の破孔を拡大することである」と第15軍を侵攻中の両軍団の予備に回して、あくまでもアントワープへの突進を優先させるとしてルントシュテットの進言を却下した。この作戦却下をルントシュテットに言い渡した国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル上級大将も作戦2日目で作戦の失敗を予感していたが、ヨードルもルントシュテットもヒトラーの意志に逆らうことはできず、この後もドイツ軍は作戦成功に懐疑的な司令官に指揮されながら作戦を続行することになった[80]

サン・ヴィトの攻防[編集]

破壊されたサン・ヴィト市街。しかし被害は戦闘によるものよりも、奪還作戦のための連合軍による空爆によるものの方が大きかった。

戦線北側、サン・ヴィト(ザンクト・フィート、サン・ヴィットとも)の街は重要な道路の交差地点で、ドイツ軍の主要な目標であった。しかし、第106歩兵師団が第5装甲軍に包囲されたせいで、サン・ヴィトの防衛は弱体化していたので、ホッジスは急遽第7機甲師団英語版B戦闘部隊を増援として派遣した。第7機甲師団B戦闘部隊にはサン・ヴィトを防衛しつつ、シェーンベルグに進撃し包囲されている第106師団2個連隊を救出するという任務も与えられていた。しかし、サン・ヴィトに向かう道路上には前線から退却してくるアメリカ兵があふれて渋滞しており、第7機甲師団B戦闘部隊はなかなか前進できなかった。そのため、サン・ヴィトへの到着は遅れて、第106歩兵師団の2個連隊は降伏してしまった[81]。サン・ヴィト防衛部隊は第106歩兵師団及び第9機甲師団英語版の一部と第28歩兵師団英語版の残存部隊という寄せ集めであったが、12月17日以降、ドイツ軍の攻撃をよく防いでいた。特に配備されていたM4戦車はこれまで戦ってきた75㎜短身砲型ではなく、M4A3の76㎜長身砲型でありドイツ軍の戦車とも互角に渡り合うことができて大きな戦力となった[82]

ドイツ軍はサン・ヴィトと後方の連合軍拠点とを結ぶ連絡路を遮断してサン・ヴィトを包囲しようとしていたが、そこは増援の第82空挺師団のうち先行していた部隊の必死の防衛によって確保していた[83]。第7機甲師団B戦闘部隊が到着したころには、サン・ヴィトは孤立してアメリカ軍の防衛線から突出した形となっており、第6SS装甲軍と第5装甲軍の進撃路の中間点で戦場の間隙を押し広げようと画策しているモーデルの作戦の大きな障害となっており、いわば「ドイツ軍の喉仏に刺さった魚の骨」のような状態になっていた[84]。ドイツ軍の進撃は各地でアメリカ軍の予想外の抵抗もあって遅れ気味となっており、12月20日夜にモーデルは「これ以上は待てない、サン・ヴィトを攻略せよ」と第5装甲軍のマントイフェルに命じている[85]

しかし、サン・ヴィトの防衛体制も盤石というにはほど遠く、ドイツ軍の進撃の遅延に助けられてはいたが、特に指揮系統に大きな問題があった。寄せ集めの部隊であったため、指揮系統が明確でなく、第82空挺師団のジェームズ・ギャビン少将がサン・ヴィト市街に入り最上位であった第106歩兵師団の師団長ジョーンズに戦況を確認したが、配下の2個連隊が降伏したことと、その連隊に自分の息子がいたことですっかり意気消沈しており、第7機甲師団B戦闘部隊指揮官クラークに統一指揮を任せているということであった。しかし、クラークは第7機甲師団司令部に出向いた帰路で、第150SS装甲旅団に過剰反応した野戦憲兵の検問で5時間も拘束されて不在にしていた。そこで指揮は先に到着していた第7機甲師団長のハスブルーグ准将がとるべきであったが、ハスブルーグは階級が上のジョーンズに気兼ねしているなど、統一的な指揮がとられていなかった。ギャビンはこの状況を見て「激戦の中でも人事、とくに人間関係は大きな問題になることがわかった」との感想を抱いている[86]

ドイツ軍は12月21日になって戦力を揃えて、第18国民擲弾兵師団英語版第62国民擲弾兵師団英語版がサン・ヴィトを総攻撃した。サン・ヴィトにはアメリカ軍が馬蹄型の陣地を構築していたが、その前衛にいた第7機甲師団B戦闘部隊の第38機甲歩兵大隊がドイツ軍の攻撃に曝されることとなった。しかし第38機甲歩兵大隊は圧倒的優勢なドイツ軍相手に善戦し、構築していた機関銃座がドイツ兵を次々となぎ倒して何度も撃退した。頑強なアメリカ兵の抵抗に手を焼いたドイツ兵は、機関銃座に対して本来は対戦車兵器であったパンツァーファウストを撃ち込んでくるなど猛攻を加えてきて、670人が所属していた大隊は夜までドイツ軍の総攻撃に持ちこたえたが、ほぼ全員が死傷したか投降して捕虜となっていた[87]。ようやくクラークがサン・ヴィトに到着すると、第38機甲歩兵大隊の壊滅と、周囲のドイツ軍の進撃で後方が危うくなってきたとの報告があったため、サン・ヴィトの放棄と守備隊の撤退を命令し[88]、アメリカ軍は抵抗を続けながらサン・ヴィトの西側の陣地へ退却した。アメリカ軍が退却した陣地も12月23日までにドイツ軍により突破されたため、アメリカ軍は西のサルム川を越えて退却することとなった。ドイツ側の計画では12月17日の18:00までにサン・ヴィトを確保することになっていたが、計画の遅延は作戦進行に大きな打撃となり、この間にドイツ軍進路のアメリカ軍の防衛体制は大きく強化されることになった[89]

パイパー戦闘団の壊滅[編集]

ラ・グレーズに放棄されたパイパー戦闘団のティーガーII、被弾の跡が確認できる。

12月18日午前6時にパイパー戦闘団はスタブローへの攻撃を開始した。スタブローの戦力はアメリカ第526機甲歩兵大隊B中隊と対戦車砲1個小隊に過ぎず、大隊長のP.ソリス中佐はドイツ軍が橋を渡ったら撤退するように部下に命じ、自らは二個小隊を率いて、北の森にある大規模な燃料集積所に向かった。燃料集積所にはガソリンが124,000ガロンもあり、ソリスはガソリンが捕獲されるのを阻止し、なおかつバイパー戦闘団の侵攻を妨害するため、ガソリンをスタブローの市街に流してそれに火を放つように命令した。火災は瞬く間に市街地北方に広がり、火炎と黒煙が橋を渡って市街地に突入してきたパイパー戦闘団を襲ったため、パイパーは戦闘団の一時後退を命じて、一部をスタブローの抑えに残すと、戦闘団主力はアンブレブ川とサルム川英語版の合流点の内側にあるトロワ・ポン英語版に向かって前進させた[90]

両河川を渡河してウェルボモンフランス語版まで進撃すれば、ミューズ川を望む重要拠点リエージュまでは一本道であった。トロワ・ボンにはアメリカ軍第51工兵大隊C中隊の140人しかおらず、パイパー戦闘団の攻撃を受ければひとたまりもなかったが、指揮官のR.イーツ少佐はたった1門装備していた対戦車砲でパイパー戦闘団の進撃を阻止している間に橋梁を爆破しようと計画を立てた。やがて、爆破準備中にパイパー戦闘団19輌の戦車が1列縦隊で進撃してきたため、イーツは対戦車砲の砲撃を命じて爆破を急がせた。対戦車砲はしばらくの間パイパー戦闘団の足止めに成功したのち撃破されたが、その戦闘中の午前11:15に橋梁の爆破に成功した[91]。このためパイパー戦闘団は北側の別のルートで西方のアビエモンに向かったが、アビエモンの橋も13:00に戦闘団の目の前で爆破された[92]。第51工兵大隊は18日の未明にトロワ・ポンに到着したばかりで、パイパーが前夜に立ち止まることなく当初計画通りに進撃していたら、アメリカ軍の橋梁の爆破は間に合わず、戦闘団は渡河に成功し、最短距離でミューズ川への前進も十分可能であったが、ここでパイパー戦闘団は迂回を余儀なくされた[93]

このときのパイパー戦闘団の戦力はV号戦車パンター23輌、IV号戦車6輌、ヴィルベルヴィント1輌と減少しており、とくに新鋭のティーガーIIは当初20輌から6輌にまで激減していた。これは戦闘損失よりむしろ故障による消耗が大きかったが、パイパーは少なくなった兵力で、翌12月19日に増援のアメリカ軍第30歩兵師団英語版が防衛しているストゥモン英語版を攻撃し、夕方まで激戦が続いたが最後は撃退されている。これがパイパー戦闘団の最大進出点となったが、この後はパイパー戦闘団は前進も後退もできなくなり、ラ・グレーズ英語版周辺に閉じ込められる形となった[94]。物資が尽きて絶望的となった戦闘団の将兵は周辺の住民を虐殺し、老若男女問わず130人のベルギー国民が犠牲となった[95]。12月24日にパイパーは装備を捨てて退却することを決定し、生き残っていた部下とともに雪中を徒歩で味方がいる方向に向かい、厳寒の川を泳いで渡るなどの末、ドイツ軍陣地に帰還したが、進撃に参加したパイパー戦闘団の将兵4,800人以上のうち、無事に撤退できた者はわずか717人だけであった[96]

戦後に開廷されたマルメディ虐殺裁判の模様、被告席最前列の左から4番目腕を組んでいるのがヨアヒム・パイパー

戦後パイパーは一連の虐殺の責任を問われて、マルメディ虐殺裁判英語版で裁かれた。この虐殺が行われたときに司令官のパイパーはこの場におらず、パイパー自身は虐殺を命じた記憶はないと否定したが、進撃を急いでいたパイパーが捕虜を煩わしく感じて射殺を命じた可能性が指摘された[97]。被告はパイパーのほか、第6SS装甲軍の司令官ディートリヒや参謀長フリッツ・クレーマー英語版など73人が名を連ねたが、ドイツ軍の被告らは憎しみを募らせたアメリカ軍取調官から日常的に拷問を受けて自白を強要されていたという[98]。裁判の結果、パイパーを含む43人が死刑判決を受けた。しかし、その後に様々な政治的な思惑もあって減刑が行われ、結局この事件で死刑を執行された者はおらず、パイパーも終身刑に減刑され11年服役したのちに釈放されている[99]。一方で、事件に対する報復で、アメリカ軍によって行われた親衛隊員への虐殺は明らかにされることはなかった[100]

バストーニュ[編集]

第101空挺師団到着[編集]

バストーニュ市街
12月19日から23日までのバストーニュ周辺の戦況

増援を命じられた第18空挺軍団の2個師団のうち、先行した第82空挺師団がパイパー戦闘団の急進撃に対応するため北部の要衝ウェルボモンフランス語版に派遣され、第101空挺師団がバストーニュに送られた。増援の命令を受けたとき、第101空挺師団長マクスウェル・テイラー少将はアメリカ本国に帰国中で、副師団長と多くの師団幕僚は打ち合わせのためイギリスにおり、部隊にいたのは師団砲兵指揮官のアンソニー・マコーリフ准将だけであった。一刻を争うため、マコリーフは急遽師団長代理を任じられると、380輌のトラックに分乗した第101空挺師団将兵を率いてバストーニュに向かっている。もっとも先行した第501空挺歩兵連隊は出発した12月18日中の真夜中にバストーニュに到着し、他の3個連隊も翌朝9時までにはすべて到着した[101]

バストーニュには第101空挺師団の他に、第10機甲師団のB戦闘部隊と第28歩兵師団の残存部隊と第8軍団の予備戦力が配置されていたが、第10機甲師団のB戦闘部隊は、第8軍団長ミドルトンの命令で3隊に分割され、バストーニュに通じる道路上の拠点に配置されていた。ヘンリー・チェリー中佐率いるチェリー隊にはロンヴィリーフランス語版ジェームズ・オハラ中佐率いるオハラ隊にはワルディンフランス語版ウィリアム・デソブリー少佐率いるデンブリー隊にはノーヴィルフランス語版を守らせていた。また、第8軍団の予備戦力のなかには第705駆逐戦車大隊英語版の新鋭駆逐戦車M18ヘルキャットもいた。M18ヘルキャットは貫通力に優れる長砲身の76㎜砲を搭載し速度もドイツ軍のどの戦車より速く、今までドイツ軍の戦車に苦戦してきたアメリカ軍にとって大きな戦力になると期待された。また、M59 155mmカノン砲(通称ロング・トム)2個大隊も合流しており、その長射程で防衛線のどの場所にも支援砲撃ができるようになっていた[102]

休む間もなくマコーリフはバストーニュの孤立化を防ぐため、周囲の拠点の防衛に積極的に部隊を派遣した。バストーニュ北方のノーヴィルではデンブリー隊が守りについていたが、12月19日午前4時に西方に向かって進撃していた第2装甲師団主力が攻撃してきた。デンブリー隊のM4戦車15輌と1,000人の兵力に対して、第2装甲師団は80輌の戦車と7,000人の兵員を擁しており、マコーリフは第506空挺連隊の第1大隊を救援に向かわせ、同時に第705駆逐戦車大隊のM18駆逐戦車4輌も支援に向かっている。デンブリー隊は圧倒的な第2装甲師団に対して、立ち込めていた濃霧の助けもあってどうにかノーヴィルを確保していたが、強力なドイツ軍の戦車に2輌のM4が撃破されるなど苦戦していた。そこにM18が救援に到着し、霧の晴れ間を見てドイツ軍戦車を砲撃し9輌を撃破して撃退した[103]。その後に到着した第506空挺連隊第1大隊とデンブリー隊は第2装甲師団と何度も攻守を変えて激戦を繰り広げた。昼過ぎには16輌の戦車に支援された装甲歩兵1個大隊がノーヴィル市街に突入してきたが、空挺兵はバズーカで応戦、大損害を被りながらも戦車5輌を撃破してドイツ軍の攻撃を再度撃退した。その後も第2装甲師団は数輌の戦車に歩兵を随伴させて断続的に攻撃を繰り返し、市街でM4やM18との戦車戦が行われた。戦闘は夜を徹して行われた激しいものとなったが、激戦の中でティーガーⅠ戦車88㎜砲が戦闘指揮所に着弾し、第506空挺連隊第1大隊長ジェームズ・ラプラード中佐が戦死し、デンブリー隊指揮官ウィリアム・デソブリー少佐も重傷を負った。圧倒的な第2装甲師団に対して寡兵で善戦を続けるノーヴィル守備隊であったが、第8軍団長のミドルトンはバストーニュの孤立を防ぐためとして、ここでも死守命令を出した。しかし、バストーニュとノーヴィルの中間にあるフォイ村英語版がドイツ軍に奪われたため、ノーヴィルの戦略的価値が薄れ、翌12月20日にマコリーフはノーヴィル守備隊に撤退とフォイの奪還を命じ、支援に第506空挺連隊第3大隊を送った。フォイはノーヴィルとバストーニュからの攻撃で奪還したが、一連の戦闘で第506空挺連隊は212人の死傷者を出し、デンブリー隊は15輌のM4のうち11輌を撃破され、第704駆逐戦車大隊のM18は4輌すべて撃破されていた。一方でドイツ軍は30輌の戦車が撃破され800人の死傷者を被り、第2装甲師団は2日も足止めされた[104]

装甲教導師団はチェリー隊と第9機甲師団B戦闘部隊のわずかな生き残りが守備するロンヴィリーに向かって進撃していた。師団長のフリッツ・バイエルライン中将はアメリカ軍の退路を断つため、前衛部隊をロンヴィリーの背後のマゲレットフランス語版に前進させていた。チェリー隊は戦力を3分割してロンヴィリーの守りについていたが、背後のマゲレットに装甲教導師団が迫っていると聞くと、慌ててその迎撃に向かった。しかし、ドイツ軍の戦力が強大であると判明すると迎撃を諦めて第9機甲師団の生き残りと共に、第10機甲師団B戦闘部隊の戦闘指揮所があるネッフェフランス語版に撤退することとし、その殿をハイデューク中尉率いるM4とM3軽戦車合計17輌と戦車と同数のM3ハーフトラックに任せたが、ハイデューク隊が撤退する前に装甲教導師団の本隊が襲い掛かった。激しい準備砲撃とその後の第559戦車駆逐大隊ヤークトパンターの攻撃で、17輌の戦車とハーフトラックは全滅し、ロンヴィリーは装甲教導師団に攻略された[105]。次に装甲教導師団はオハラ隊が守るワルディンにも進撃したので、マコーリフは1個中隊を増援に送ったが、市街に入る前の路上で装甲教導師団の戦車と遭遇して戦闘となり壊滅的な損害を受けた。オハラ隊も出撃したがドイツ軍戦車を捕捉することができなかったので、そのままネッフェ方面に撤退し、ワルディンも装甲教導師団に占領された[106]

チェリー隊が撤退したネッフェにもマコーリフは第501空挺連隊から抽出した1個大隊を基幹とする増援を送り込んだ、増援の空挺部隊はチェリー隊と協力して装甲教導師団の進撃を撃退したが、空挺部隊が配備していたM101 105mm榴弾砲の特殊な発射音を聞いた装甲教導師団は戦車砲の発射音と誤認し、アメリカ軍の戦車隊の増援が到着したとして進撃を停止してしまった。師団長のバイエルラインはロンヴィリーを攻略したのち一気に第47装甲軍団全軍を持ってバストーニュを攻略すべきと軍司令官のマントイフェルに進言していたが、西方への進撃が主目的として進言は却下されていた。そのため、バイエルラインは無理をしてまでバストーニュに接近する必要はないと判断し、一旦進撃を停止したのであるが、この時点ではバストーニュの防備は固まっておらず、のちにマントイフェルはバストーニュ攻略の好機を逃したと後悔することになった[107]

バストーニュの包囲[編集]

バストーニュ周囲の拠点を次々と攻略した第5装甲軍第47装甲軍団英語版はバストーニュを孤立化させつつあった。12月20日から21日にかけて、バストーニュ攻略を命じられていたハインツ・ココット少将の第26国民擲弾兵師団英語版は装甲教導師団の支援を受けながらビゾリーフランス語版、ネッフェ、マルビーフランス語版というバストーニュ近隣の拠点を激しく攻撃し、撤退してきた第10機甲師団B戦闘部隊各隊や増援の空挺部隊との間で激戦となっていたが、ドイツ軍が各拠点を突破できない間に、バストーニュの防備は固められて、もはやドイツ軍が奇襲で市街に突入することは困難となっていた[108]

12月21日、ノーヴィルを攻略後は快進撃を続けていた第2装甲師団がフラミエルージュ英語版を攻略し、バストーニュから西方に通じる道路を遮断して孤立化に成功した。マントイフェルは西方への進撃を優先するため、第2装甲師団や装甲教導師団主力には進撃を命じ、第26国民擲弾兵師団と装甲教導師団の装甲歩擲弾兵1個連隊にバストーニュの攻略を任せた。しかし、そのドイツ軍の戦力では、16,000人の兵士と40輌の戦車と多数の重砲が守るバストーニュを攻略するには不十分であった。それでも、第101空挺師団はこれまでの戦闘で既に1,300人の死傷者を被り、第10機甲師団B戦闘部隊も多数の戦車を失っているなど、状況はアメリカ軍にとっても決して楽観できるものではなかった。また、サン・ヴィトでもあった指揮系統の混乱がバストーニュでも繰り返された。マコーリフは独自の作戦行動を続ける第10機甲師団B戦闘部隊を自分の指揮下に入れて統一した作戦行動をとろうと考えて、指揮官W.ロバーツ大佐に自分の指揮下に入るよう勧告したが、ロバーツは「失礼ですが、閣下は戦車のことは何かご存じですか?」と言って拒否した[109]。一方で、バストーニュの最先任は第28歩兵師団のノーマン・コータ英語版少将であり、コータは作戦協議のために第28歩兵師団司令部のあるシブレフランス語版に来てほしいとマコーリフに依頼したが、階級が下にも関わらずマコーリフは「忙しからいけません」と拒否し、やむなくコータの方がマコーリフの司令部を訪れている[110]

バストーニュに設けられた臨時野戦病院に横たわるアメリカ軍負傷兵たち

バストーニュを完全に包囲するために、ココットはバストーニュの西方にあるシブレとスノーシャンフランス語版の攻略に、第26国民擲弾兵師団最精鋭部隊第26偵察大隊の700人の兵士と20輌の戦車を向かわせた。バストーニュは第101空挺師団が全周囲に防衛線を構築していたが、背後の南西の防備は弱かったので、第26偵察大隊はスノーシャンを攻略したのちに、第101空挺師団の防衛線の間隙からバストーニュ市街への突入も命じられていた。シプレには第28歩兵師団の司令部があったが、師団といっても指揮下の3個連隊はすでに壊滅状態になっており、コータの指揮下にあるのはわずかな敗残部隊に過ぎなかった。それでもバストーニュへの補給路を維持するため、第8軍団長ミドルトンはコータにシプレの死守命令を出していた。コータは残存兵力をまとめるとシブレに強固な陣地を構築しドイツ軍を待ち構えていたが、それでも兵力は200名ぐらいに過ぎず、バストーニュでマコーリフと協議したあとにドイツ軍の部隊がシブレに接近しているという報告を受けたコータは、すぐに軍司令部にミドルトンを訪ねると、第28歩兵師団司令部の撤退と、バストーニュの指揮権をマコーリフに委ねることの許可をミドルトンに求めた。ミドルトンはコータに進言を承認し、直ぐにロバーツに連絡して、マコーリフの指揮下に入るように指示した。初めはマコーリフに挑戦的であったロバーツも、その後のマコーリフの作戦指揮を見てその能力に敬服するようになっており、ミドルトンの命令に素直に従って、即時に自分の司令部をマコリーフの司令部内に移し、この後はマコーリフに戦車の運用について的確な助言を行うようになった[111]

シブレ攻撃には第26偵察大隊の他に第5降下猟兵師団英語版の1個中隊も加わったが、コータら司令部がヴォー・レ・ロジエールフランス語版に撤退したあとも、わずか200人のシブレ防衛隊は重火器がたった3門の榴弾砲しかなかったのにも関わらず善戦して、暫くの間ドイツ軍を足止めしたが、12月21日午前9時にシブレはドイツ軍の手に落ちた。その後、第26偵察大隊は単独でスノーシャン攻略に向かったが、ここにはアメリカ軍第796高射砲大隊の300人が守りを固めており、特にM16対空自走砲の水平射撃が猛威を振るい、ドイツ兵は次々となぎ倒されて第26偵察大隊は大損害を被って撃退された。従ってドイツ軍は作戦目的のスノーシャン攻略による包囲網の強化とバストーニュへの突入も果たすことはできなかったが、主要な道路はすべて遮断し、第5装甲軍団のマントイフェルは「今日奪れなくとも、明日は奪れる」と宣言して、バストーニュ奪取に自信を見せた[112]

ドイツ軍の降伏勧告[編集]

クリスマスディナーで集まったマコーリフらバストーニュのアメリカ軍司令部

バストーニュを事実上包囲した第26国民擲弾兵師団のココットは、攻略したシブレの住民からバストーニュのアメリカ軍は潰走を始めているという情報を聞くと、降伏勧告を行えばバストーニュのアメリカ軍は簡単に降参するのではと考えて、第47装甲軍団司令官ハインリヒ・フォン・ルトヴィッツ英語版中将に許可を求めた。ルトヴィッツは1個師団もの戦力が降伏すればアメリカ軍全体の士気に及ぼす影響は計り知れないものになるとココットの進言を承認した。12月22日の正午前に大きな白旗を持った4人の軍使がアメリカ軍陣地前に現れ、応対したアメリカ兵に英語で「降伏条件です」と言って封筒を渡した。その封筒は直ちに司令部に届けられて、第101空挺師団参謀が封筒を開けて内容を確認した[113]

1944年12月22日、包囲されたバストーニュの町のアメリカ司令官へ
戦争の運勢は変わりつつある。今回、バストーニュとその周辺のアメリカ軍は、強力なドイツの装甲部隊に包囲されている。
包囲されたアメリカ軍を全滅から救う唯一の可能性がある。それは包囲された町の名誉ある降伏である。
この提案が拒否されるべきならば、ドイツ砲兵隊と6個の高射砲大隊はバストーニュとその近くでアメリカ軍を殲滅する準備ができている。
この砲撃によって引き起こされるすべての深刻な民間人の損害は、よく知られているアメリカの人道主義には合致しないものと思われる。

— ドイツ軍司令官[114]

マコーリフはココットらの推測とは全く違い、空挺部隊は敵中に孤立して戦うのが本務であって、包囲されている状況では上部に妨害されず空挺の本務通りに「自由に戦力を駆使して存分に戦える」と思っており、降伏など論外であった。逆にマコーリフはドイツ軍捕虜から、ドイツ軍は食料が不足しており、ドイツ兵はバストーニュを占領すれば腹いっぱい食べることができると上官からけしかけられていることや、弾薬も不足気味になっており支援砲撃も十分にできなくなっているなどの情報をつかんで、「降伏すべきは自分たちではなく敵である」と考えており、この降伏勧告に「NUTS!(ふざけるな!)[115]」もしくは「shit」と舌打ちした。やがて、ドイツ軍への正式な回答を書こうとマコーリフはペンを握ったが、適当な文章が思いつかず悩んでいると、参謀から「先ほどのお言葉が冴えていると思われますが」という提案があった。そこでマコーリフはのちに有名になるたった一言の回答を書きあげた[116]

ドイツ軍司令官へ
NUTS!

— アメリカ軍司令官[117]

回答はドイツ軍軍使が現れた地域の指揮官であった第327グライダー連隊長J.ハーパー大佐が自ら志願してドイツ軍軍使に手渡すことになった。受け取ったドイツ軍軍使は意味が理解できず「これは受諾ですか拒否ですか?」とハーパーに尋ねると、ハーパーは「もしドイツ軍が攻撃を続けるならば、わが方は、この町に突入しようとするドイツ兵をみな殺しにする。これは約束する。」と答えている。その回答を聞いたドイツ軍軍使は直立不動で敬礼をすると「わが軍も、アメリカ兵を殺します。それが戦争です」とだけ言い残して戻っていった。ドイツ軍が降伏勧告を行い、それをマコーリフが拒否したという話はすぐにバストーニュのアメリカ全軍に伝わって士気はますます高まった[118]

第3軍の進撃遅延[編集]

C-47による空輸 (1944年12月26日)。

12月23日には天候が回復し、高気圧により5日間は好天が継続する見通しとなったため、第9空軍英語版司令官ホイト・ヴァンデンバーグ中将は航空隊に全力出撃を命じた。12月16日のドイツ軍侵攻以降ずっと悪天候が続き、連合軍はまともな航空支援を行うことができず、ドイツ軍の快進撃を許すことになったので、ブラッドレーは「ドイツ軍と天候が共同謀議している」などと恨み言を言っていたが[119]、この後連合軍の圧倒的な航空攻撃によって、ドイツ軍は大損害を被ることになった。包囲されているバストーニュへも合計260機の輸送機が144トンの物資を空輸して空中から投下した。第101空挺師団はこれまでの激戦で弾薬が不足しており、マコーリフは1日の発砲数に制限を設けていたが、補給物資の大半は弾薬であり、早速前線に届けられて久しぶりの大量発射が行われた[120]

第3軍は12月22日に北進を開始したが、そのなかで第4機甲師団にバストーニュ救出が命じられた。パットンは第4機甲師団に「とにかく突っ走れ」と命じたが、進撃する道路は皮肉にもアメリカ軍の第8軍団がドイツ軍進撃阻止のために入念に破壊していたため、予想外に進撃は捗らなかった。苛立つパットンは徹夜での進軍を命じ、第4機甲師団A戦闘部隊とB戦闘部隊は19㎞進撃してバストーニュまで14㎞の位置に到達した。しかしドイツ軍第5降下猟兵師団が第4機甲師団の前進を阻止すべく、その進路上に戦線を集約して待ち構えており、ココットも手持ちの自走砲を増援に送って強力な防衛線を構築していた。そして12月23日の日中にA戦闘部隊がワールナハフランス語版、B戦闘部隊がショーモンでドイツ軍と交戦したが、ドイツ軍の降下猟兵は投降することはなく戦って、最後は手榴弾で自爆するなど徹底して抗戦したため、第4機甲師団は苦戦した。それでもA戦闘部隊は5輌の戦車を失い68人の死傷者を出しながらも、その数倍の降下猟兵を殺傷してワールナハを攻略したが、B戦闘部隊は増援の自走砲で11輌の戦車を撃破され、65名の死傷者を被って撃退されるなど進撃の停止を余儀なくされた[121]

12月24日には第3軍苦戦の報はバストーニュにも届いていた。パットンはマコーリフに「クリスマスプレゼントを配達中」と12月25日までの救出を約束していたが、その約束が困難な見通しとなってきたのでバストーニュの全将兵は失望した。マコーリフはミドルトンに電話をすると「当師団が望むクリスマスプレゼントはただ一つ、明日の救出です。明日には間違いないのでしょうか?」と問い詰め、ミドルトンは「パットンは明日には到着すると確約している。本職も必ず明日バストーニュを訪れる」と約束したが、全将兵がその約束で力づけられることはなかった。第101師団の将兵たちは市民からドイツ軍がクリスマスに総攻撃を計画しているという情報を聞いており、明日が最期になるという恐怖が蔓延していた[122]。バストーニュ周辺の拠点に対するドイツ軍の攻撃も激化していた。第227グライダー連隊第2大隊とオハラ隊が守るマルビーには、ティーガーⅠとパンターで編成された戦車隊が攻撃しており守備隊は窮地に陥っていたため、マコリーフは少なくなった予備兵力から、ロンヴィリーで大打撃を受けたチェリー隊の生き残りと第501空挺連隊の一部を急派しどうにか主陣地を確保するなど[123]、これまでで最も危機的状況になっていた。そこでマコーリフはドイツ軍の総攻撃に備えて、防衛線を全長26㎞に集約して防備を固めることとした[124]

バストーニュの攻防戦[編集]

バストーニュ防衛戦で活躍したアメリカ軍M18駆逐戦車「ヘルキャット」

第26国民擲弾兵師団は12月23日からバストーニュの幾つかの地点に対し順に攻撃を集中し両軍の間で激戦が行われたが、なかなかアメリカ軍の防衛線を突破することができなかった。B軍集団司令官モーデルは、北進するアメリカ第3軍に対抗するため戦略予備兵力の第15装甲擲弾兵師団英語版の戦場投入を許可していたが、同師団の増援を受けた第47装甲軍司令官のルトヴィッツは、同師団を第26国民擲弾兵師団長ココットの指揮下に入れ、ココットにクリスマスまでにバストーニュを攻略するよう命じた。ココットも増援を含めれば十分な戦力になると考えて、連合軍が航空支援できない午前4時に攻撃開始し、航空機が飛来する8時までには増援の第15装甲擲弾兵師団が市街に突入できると宣言している。しかし、攻撃開始の午前4時までに到着した第15装甲擲弾兵師団の部隊は、擲弾兵3個連隊のなかの1個連隊、戦車もわずか18輌と期待外れであった。後続部隊の到着を待っていたのでは、連合軍の航空支援が開始されてしまうことから、ルトヴィッツは作戦開始を命令、ココットは不満ながらも応じている[125]

バストーニュ北西の戦闘の跡に散乱する死亡したドイツ兵(1944年12月25日)。

12月25日、午前3時ドイツ空軍の数機の爆撃機が夜間爆撃に飛来、投下された爆弾1発が野戦病院に着弾し20名の死傷者を出したが、その中にはベルギー人のボランティア看護婦ルネ・ルメール英語版オーガスタ・マリー・チウィ英語版もいた。もう1発は司令部付近のクリスマスツリーに命中して吹き飛ばしたが、司令部に損害はなかった。この爆撃を合図にしてドイツ軍は進撃を開始したが、ココットの計画は第26国民擲弾兵師団第77擲弾兵連隊がバストーニュ北西のシャンフランス語版、第39擲弾兵連隊が南西のアセノワフランス語版、第26偵察大隊が西方のスノーシャンに牽制攻撃をかけて守備隊を引きつけている間に、第15装甲擲弾兵連隊がエムルールフランス語版を突破し一気にバストーニュ市街に突入しようというものであった[126]

第77擲弾兵連隊の兵士はカムフラージュの白い軍服を身につけてアメリカ軍の陣地ににじり寄ると、「目をつぶって突っ込め」の掛け声のもとでシャンのアメリカ軍陣地に突撃して白兵戦を演じた。アメリカ兵とドイツ兵が村落内の一戸一戸の建物を巡って激しい白兵戦を戦っているなか、バストーニュ西方のフラミソウルドイツ語版から、第15装甲擲弾兵師団のV号戦車パンターを主力とする18輌の戦車が、同師団第115連隊第1大隊の兵士をタンクデサントさせてバストーニュに向かって突進した。アメリカ軍の増援はシャンに急行していたので、第15装甲擲弾兵師団は大きな抵抗を受けずに順調に進撃し、午前8時45分には「我らバストーニュの西端に到達」と報告してきた。順調な進撃報告を受けたココットは「思ったよりアメリカ軍の防備は弱い」と自信を深めて、部隊を二手に分けての進撃を命じ[127]、11輛のパンターからなる主力はたちまちエムルールに進み、第327グライダー連隊第3大隊の戦闘指揮所に迫って、大隊長は慌てて近くの森林に逃げ込んでいる。しかし、そこに増援の第10機甲師団のB戦闘部隊のM4と第705駆逐戦車大隊英語版M18ヘルキャット4輌が到着し、パンターとの間で激しい戦車戦となった。とくにM18ヘルキャットはその機動性を活かして、パンターの側面や後面に回り込んで次々と撃破、村落内に突入できたパンターも空挺隊のバズーカに狙い撃たれて、順調な進撃を報告したわずか数十分後の午前9時台にはパンターは全車撃破された。タンクデサントしていたドイツ兵とアメリカ軍空挺兵との間でも激しい白兵戦が戦われ、アメリカ軍は多大な損害を被ったが、ドイツ兵は全員戦死するか捕虜となった[128]。もう1隊の7輛のパンターは第502空挺連隊戦闘指揮所を攻撃したが、アメリカ軍の集中砲火で6輛が撃破、1輛が鹵獲され、擲弾兵も全員が戦死するか捕虜になり、文字通り全滅した。牽制攻撃をしていた第77擲弾兵連隊もシャンを攻略することができず足止めされていたが、その頃にはすっかり陽も登っており、戦闘爆撃機P-38が多数飛来してドイツ軍に激しい攻撃を行った。攻撃失敗を悟ったココットはルトヴィッツに作戦中止を要請したが「バストーニュ攻略は絶対に必要である」と却下された。しかしドイツ軍はアメリカ軍の空と陸からの猛攻にすっかりと士気を喪失してしまい、その状況を見たココットは午後3時に独自で作戦中止を命じた[129]

翌日にも10輌の突撃砲と第26国民擲弾兵師団の兵士を満載したSd Kfz 251で市街への突入をはかったが、これもアメリカ軍の猛反撃で全滅するなど、ドイツ軍はバストーニュを攻略することができずに大損害を被っていた[130]。バストーニュの攻防戦では特に第705駆逐戦車大隊のM18ヘルキャットが活躍し、得意のヒット・エンド・ラン戦法英語版でティーガーⅠ戦車を含む39輌の戦車と多数の装甲車両を撃破し、大いに貢献している[131]

バストーニュ救出[編集]

バストーニュに一番乗りした第4機甲師団のM4戦車「コブラ・キング」
「第101空挺師団のボロボロになった野郎どものバストーニュ要塞」と書かれた看板の下で握手する第8軍団司令官トロイ・H・ミドルトン(左)と第101空挺師団長マクスウェル・テイラー(右)

バストーニュ到着をパットンが約束した12月25日、第4機甲師団はまだ第5降下猟兵師団の防衛線を突破できずにいた。A戦闘部隊はワールナハを攻略したものの、小川を挟んだティンタンジュの村落に自走砲1輌と空挺兵数百人が守っており、その攻略に手間取って、結局自走砲を撃破し161名の空挺兵を捕虜にして村落を確保した頃には、日没となってしまい進撃できなかった。B戦闘部隊はショーモンの攻略にもっと手間取っており、B戦闘部隊司令部にはドイツ軍侵攻開始時に休暇でアメリカ本国に帰国していた第101空挺師団長のテイラーが同行し、バストーニュで部下将兵と再会することを楽しみとしていたが、ショーモンで2日も足止めを食らうこととなった。第4機甲師団はABの両戦闘部隊ともに苦戦が続いていたので、予備のR戦闘部隊も投入されることとなり、R戦闘部隊は首尾よく前進を続けて、25日にはB戦闘部隊が苦戦中のショーモン村落北西のレモンビーユ村落に到着し、大きな損害を被ることなく320人のドイツ兵を捕虜にして村落を攻略したが、師団長のヒュー・ジョセフ・ガフィー英語版少将はこれまでのパットンからの無理な進撃命令で損害を被っていたことから慎重になっており、R戦闘部隊にも進撃停止を命じた[132]

12月26日の早朝、R戦闘部隊は進撃を開始した。R戦闘部隊の主力はクレイトン・エイブラムス中佐が指揮する第37戦車大隊と第53装甲歩兵大隊であったが、これまでの激戦で戦車はM4が20輌にまで減っていた。エイブラムスにはシブレの攻略が命じられていたが、ドイツ軍の強力な部隊が守っていることが予想されたため、シブレを迂回してドイツ軍の防備が薄いアセノワフランス語版を攻略すればバストーニュまでわずか5㎞の位置に到達できると考えて作戦を変更を決めた。この作戦変更に対してパットンは「勝利は危険の中に存在する。これが私が待っていた吉報だ」と喜んで許可している[133]。エイブラムスはアセノワに対し砲撃支援と航空支援を要請、アセノワでは第26国民擲弾兵師団第39擲弾兵連隊がバストーニュへの攻撃準備をしていたが、そこに激しい砲爆撃が加えられその爆煙が収まらないうちにM4が村落内に突進してきた。ドイツ兵は地雷を道路上にばら撒き抵抗し、ハーフトラックが1輌地雷を踏んで撃破されたが、戦車隊を率いていたW.ドワイト大尉は構わず前進を続けた[134]。日没前の16:55ついにドワイトの戦車隊はバストーニュ市街に達して第101空挺師団との接触に成功、19:10にエイブラムスもバストーニュに到着してマコーリフと握手をし、そのあとに師団長のテイラーも到着した。ドワイトが素通りしたアセノワの掃討は午後10時に終わり、確保できた交通路から物資を満載したトラックと、負傷者を搬送する野戦救急車が次々とバストーニュ市街に入り重傷者964人を後方に搬送したが、70輌の救急車でピストン輸送しても重傷者全員の搬送には36時間を要した[135]

連合軍の反撃とその後[編集]

ドイツ軍進撃停止[編集]

連合軍の反撃。

バストーニュを後に残して西に向かったドイツ軍のなかで第5装甲軍の第2装甲師団は、劇的な進撃を遂げて12月23日に先方の偵察部隊はミューズ川からわずか9kmのセル村英語版に達し、翌日には戦車大隊も合流した。しかし、各地で連合軍の増援が到着しており、第2装甲師団の進撃はここで食い止められ、セルがドイツ軍による最も西への進出地点となった。その後は進撃してきた連合軍部隊と各方面で激戦に突入した。同日12月24日にはフレヌーフランス語版で第2装甲師団第2戦車連隊第2戦車中隊のパンターと第3機甲師団英語版第32機甲旅団D中隊のM4が激突し、ドイツ軍側は騎士鉄十字章を受賞したドイツの戦車エースフリッツ・ランガンケ少尉が率いていたものの、パンター8輌が撃破もしくは損傷したのに対し、撃破したM4はたった1輌と戦闘はドイツ軍の惨敗でフレヌーから撃退されている。このようにドイツ軍快進撃を支えてきた戦車戦におけるドイツ軍の優位も失われてきていたが、ランガンケは撤退中に、戦闘に気が付かず無警戒で接近してきた第9機甲師団のM4を奇襲で4輌撃破して一矢を報いている[136]

セルまで達した先行部隊も、12月24日にはミューズ川を渡河して進攻してきたイギリス軍第3王立連隊とアメリカ軍第2機甲師団英語版と接触して全面的な戦闘に突入した。第2装甲師団と一団となって進撃していた装甲教導師団はロシュフォール(ナミュール州)英語版で、第84歩兵師団英語版の1個大隊他の激しい防衛にあい、どうにか攻略できたものの進撃が停止しており、第116装甲師団もホットン英語版で第84歩兵師団に足止めされて、その後に第3機甲師団英語版に捕捉された。第2装甲師団は包囲網の突破を試みたが失敗に終わり、燃料が欠乏した第2装甲師団にアメリカ軍第2機甲師団は情け容赦なく襲い掛かり、戦車82輌と火砲83門、各種車両400輌が撃破されるか鹵獲され、1,200人のドイツ軍将兵が投降し壊滅状態となったが[137]、第2機甲師団が失ったM4はわずか26輌に過ぎなかった[138]。第2装甲師団の残った将兵も、救出の見込みもなかったことから装備を捨てて小部隊に分かれて退却を開始したが[139]、そのなかには12月25日の戦闘で重傷を負ったドイツ軍戦車エースの1人エルンスト・バルクマンもいた[140]

装甲教導師団は第2装甲師団を救出するため、ロシュフォールに一部の部隊を残し引き返したが、第2装甲師団は既に潰走中であり、装甲教導師団もそのままバストーニュ方面に向けて撤退を開始した。ロシュフォールに残されたティーガーⅠを含む十数輌の戦車と500人以上の兵員は、1月3日から開始されたイギリス第5空挺旅団英語版とのブレの戦い英語版で壊滅し、ロシュフォールもイギリス軍に奪還されている。この頃にはドイツ軍は無線封鎖を解除していたため、連合軍の情報部は容易にドイツ軍の位置を割り出して、的確に反撃することができるようになっており、空襲による損害も激増していた。24日の夜にマントイフェルは作戦の停止と撤退を進言したが、ヒトラーはそれを拒絶した[141]

ボーデンプラッテ作戦[編集]

ヒトラーはドイツ空軍最高司令官ヘルマン・ゲーリングに「ライン(河)の守り」にドイツ空軍による全力支援を命じており、地上軍進撃開始と同時にドイツ空軍が連合軍飛行場を攻撃して、空からの脅威を排除するボーデンプラッテ(大鉄槌)作戦が計画されていた。アドルフ・ガーランドをはじめとする多くの現場指揮官の反対を押し切って準備は進められていたが、地上軍が進攻を開始すると、ドイツ空軍は通常の支援任務に駆り出されて、いったん作戦は棚上げになった。ドイツ空軍は悪天候の中でも果敢に出撃し、進攻初日の12月16日には昼夜を問わず述べ900回も出撃したが、天候が回復するにつれて連合軍の迎撃も激しくなり、1日の出撃数は200回にまで減少していた[142]。そこで、年末の12月31日午後に戦闘航空兵団司令官ディートリヒ・ペルツ英語版は制空権を奪還すべく作戦開始を命令、各指揮官は大変に困惑しながらも作戦準備を進めて、1945年1月1日の午前9時に作戦が開始された。当初の作戦計画では1,000機以上の作戦機を出撃させる予定であったが、これまでの損失によって出撃できたのは約800機であった[143]

ドイツ軍戦闘爆撃機は連合軍のレーダーを避けるため低空飛行を続けて、17の連合軍飛行場を急襲したが、連合軍はこの作戦準備を全く察知しておらず、奇襲は成功し地上で多数の連合軍航空機を撃破した。しかし、連合軍戦闘機に迎撃された場合は、空戦でほぼ一方的にドイツ軍戦闘爆撃機が撃墜された。とくにベルギーのY-29飛行場(現ズテンダール空軍基地英語版)での空戦では8機のP-47と12機のP-51が61機のドイツ軍戦闘爆撃機フォッケウルフ Fw190を迎撃、戦力は1/3ながら空戦では連合軍機が圧倒し、28機のFw190を撃墜しながら、損失はP-47の1機という一方的な戦いとなっている。他の飛行場でも同様な展開で、この後もドイツ軍戦闘爆撃機は地上で多少の無人の連合軍機を撃破できても、迎撃してきた戦闘機に一方的に撃墜され、わずかに残っていたエースパイロットを失うことになった。一方で連合軍の人的損失は軽微であった。作戦中にドイツ軍は290機の連合軍航空機を地上で撃破したが、空戦と対空砲火によって305機の戦闘機を損失し、213人のパイロットを失うという致命的損失を被った。ドイツ軍内の連携もお粗末であり、友軍の高射砲部隊に撃墜されたドイツ軍機も多数に上った[144]。一方で空戦で撃墜された連合軍はたったの15機であり、結果的にはドイツ空軍の惨敗であった[145]。連合軍は後方から航空機の補給が可能であったのに対して、ドイツ空軍にもはや余力はなく、作戦目的とは逆に制空権を完全に喪失してしまったとともに、以後ドイツ本土および各戦場での空軍の戦闘能力は極端に低下した[146]

ノルトヴィント作戦[編集]

ルントシュテットは、バストーニュを解放したアメリカ第3軍が、ドイツ軍包囲のため北進を開始したのを知って「指揮官パットン将軍の精力的なリーダーシップ下にあるアメリカ第3軍は近くわが軍の南翼に攻撃を加えるものと予想される」とヒトラーに報告した。ヒトラーは南部のアルザス=ロレーヌで新たな攻勢を行うことにより進撃する第3軍をけん制し、ストラスブールを占領してアルザス=ロレーヌのアメリカ軍とアルデンヌのアメリカ軍の連絡を遮断し、あわよくばフランス軍にも大打撃を与えようとする野心的な作戦ノルトヴィント作戦(北風作戦)の開始の好機が来たと判断し、12月28日に作戦参加予定の8個師団の師団長を集めて12月31日夜の作戦開始を告げた。そして最後に「このジルベスタドイツ語版はドイツ史に記念すべき日となる。そしてドイツ国民は最良の新年を祝うこととなるだろう」という演説で締めている[147]。ドイツ軍の攻勢を受けたのはアメリカ第7軍となったが、同軍はアルデンヌに武器や物資を大量に送り込んでおり、弱体化していた。そのため、ドイツ軍の攻勢に対して数マイル押し込まれる形となり、アイゼンハワーは戦線整理のため一時的にストラスブールの放棄も検討したが、自由フランス軍総司令官シャルル・ド・ゴールが「ストラスブール市民が虐殺される」と強硬に反対し、放棄案は撤回された[148]。その後は、フランス第1軍団フランス語版も頑強に抵抗し、また、アルデンヌの形勢が決すると連合軍の増援が続々と到着したため、1月25日にドイツ軍は作戦を中止し、作戦はアルデンヌの戦況に対して影響を与えることもできずに竜頭蛇尾に終わってしまった[149]

アメリカ軍とイギリス軍の不協和音[編集]

左から大英帝国参謀本部総長のアラン・ブルック、イギリス首相のウィンストン・チャーチル、第21軍集団司令官のバーナード・モントゴメリー

ドイツ軍の侵攻によりできた「バルジ」によって戦線が南北に分断されてしまったことから、アイゼンハワーは戦線北部にあったアメリカ第1軍と第9軍の指揮権を第12軍集団司令官のブラッドレーから第21軍集団モントゴメリーに移譲していたが、モントゴメリーのイギリス軍至上主義から、権限移譲当初からアメリカイギリス両軍の間で感情的な衝突が繰り返された。権限移譲が行われた翌日の12月20日にはモントゴメリーがアメリカ第1軍司令部を訪れて作戦会議を行ったが、司令官のホッジスがわざわざ準備していた昼食に一切手を付けず、持ち込んできたサンドウィッチを食べ紅茶を飲みながら、アメリカ軍が作成していた作戦地図を無視し、自分が作ってきた小さな地図を開いて作戦指示を行ってホッジスらアメリカ軍の面々を不愉快にさせた[150]。そしてその夜には連絡将校を第1軍司令部に向かわせて、就寝中のホッジスに無理やり面会すると「イギリス軍は貴軍のミューズ川への撤退を援護すべく行動を開始した。イギリス軍はミューズ川の橋梁を管理しており、命令あればいつでも爆破できる」と告げている。これは第1軍がドイツ軍の攻撃を支えきれずミューズ川に撤退することを前提とした声明であって、アメリカ軍の戦闘力を侮蔑したものであったが、これを聞いたホッジスは激怒し、アイゼンハワーも不快感を抱いたが、今さら権限移譲を取り消すわけにもいかなかった[151]

その後、バストーニュが包囲され、アメリカ第3軍がその救出に向かったものの苦戦していることを聞いたモントゴメリーはアイゼンハワーに「第3軍の攻撃は必要な任務を遂行できるほど強力ではない」「その場合は当軍がドイツ軍に対抗しなければならないが、アメリカ第1軍と第9軍の戦力は少ない」「この重大な異常事態に対処する適切な対策が必要であることを強調したい」と通告してきた。これは苦戦する第3軍を援護するためにイギリス軍を使用するのはご免であると言わんばかりの内容であり、さすがにアイゼンハワーも激怒して「モンティに権限移譲したのは誤りであった、彼の頭にはイギリス軍だけがあって連合軍という認識が不足している」「時間がかかってもいいイギリス軍の助けは一切借りぬ」と吐き捨てている[152]。モントゴメリーはさらにブラッドレーの第12軍集団の指揮権も自分に移譲して、連合軍地上部隊の指揮を任せるようにと迫る書簡をアイゼンハワーに送り付けた。これには、連合軍総司令部内にいたイギリス軍将官たちも「同じイギリス人として恥ずかしい」と批判的であったが、アイゼンハワーもこれ以上は容認できず、モントゴメリーの解任を連合軍の参謀本部議長ジョージ・マーシャル元帥に求めようとするところまで至ったが、アメリカ軍とイギリス軍の本格的な対立を懸念した連合軍総司令部内のイギリス軍将官が、モントゴメリーを説得してこの書簡を取り下げさせている[153]

しかし対立はこれで収まることはなく、モントゴメリーは1月3日になってようやく反攻を開始したが、1月7日に行われた記者会見においてモントゴメリーの発言が物議を醸した。モントゴメリーは今までとは異なりアメリカ軍に対するリップサービスを行い、アイゼンハワーやブラッドレーの指揮に批判的であったイギリス各紙に対して両名の擁護まで行ってみせ、アメリカ軍とイギリス軍の対立を煽るのは利敵行為に他ならないとまで言い放ったが、一方で今回の戦いは自分がすべてを取り仕切り、イギリス軍の貢献は絶大であったというアピールも忘れなかった。それを聞いたブラッドレーがイギリス首相のウィンストン・チャーチルに対し「本職としてはまたか・・・との想いであり疲れ果てております」と申し出ている[154]。ブラッドレーからすれば、自分の指揮下の部隊の多くをモントゴメリーに取られて、実質的に指揮しているのがパットンの第3軍だけという屈辱を味わっていたうえ、ドイツ軍の侵攻を許したという負い目からアイゼンハワーの信頼を失ったと懸念しており[155]、モントゴメリーの自慢話に気分を害したものであった。それを聞いたチャーチルは慌てて、帝国参謀本部総長英語版アラン・ブルック元帥と対応を協議し、イギリス議会で声明を発表して、これはアメリカ軍の戦いであったことと、イギリス軍の貢献度は最小限であったと表明したが、アメリカ軍とイギリス軍内に生じた亀裂を埋めるまでには至らなかった[156]

ドイツ軍の撤退[編集]

アメリカ軍に鹵獲されたティーガーⅡ戦車

ヒトラーは戦況を挽回するため、戦力を集結しバストーニュへの総攻撃を命じた。北部で完全に行き詰っていた第6SS装甲軍の「ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」および「ヒトラーユーゲント」両師団を含む4個師団の残存兵力をマントイフェルの指揮下に入れ、まずは第3軍の突進で破られた包囲網を修復し、その後に一気にバストーニュを攻略する計画であった。一方で第3軍もドイツ軍の進出部(バルジ)の北方から進攻してくるモントゴメリー率いる第21軍集団と連結しドイツ軍を包囲殲滅するため、バストーニュの北東のウーファリズ英語版に向けて進撃を開始した[157]。奇しくも攻撃のため進撃していた両軍は12月30日に接触してそのまま戦闘に突入した。1月3日から1月4日にかけて、アメリカ軍の第3軍と第101空挺師団、ドイツ軍の第5装甲軍、第6SS装甲軍8個師団との間で最大の激戦となったが、ついにドイツ軍はバストーニュを攻略することはできず、1月5日には北方から進撃してきたモントゴメリーの第21軍集団に備えるためにバストーニュ地域からの撤退を開始した[158]

同日、東部戦線でソ連軍が大兵力を集結しつつあるという情報を入手したB軍集団司令官モーデルが、西方総軍司令官のルントシュテットにアルデンヌからの撤退と東部戦線への戦力移動を要請、ルントシュテットにも異存はなく、1月7日にヴォルフスシャンツェにヒトラーを訪ねて、戦車戦力のみでも東部戦線への移動を進言した。前回の撤退要請は拒否したヒトラーであったが、さすがに今回については「これは西部戦線の縮小ではなく“戦略的後退”である」として、戦車だけではなく第5装甲軍と第6SS装甲軍全軍の撤退を許可し、翌1月8日にヒトラーが全軍に向けて下令した[159]

撤退を開始したドイツ軍は防御態勢に入ったが、この頃から天候が悪化して、東部戦線で冬季戦の経験を積んでいたドイツ兵の頑強な抵抗に第3軍の進撃は停滞した。今まで強気であったパットンも捗らない進撃に弱気となって「ドイツ軍は我々より、確かにひもじく、寒く、弱いはずなのに、連中はいぜん、素晴らしい戦いぶりを見せている」と嘆いている。弱気となっていたパットンは、1月8日にブラッドレーが提案してきたドイツ軍の撤退の拠点フーファリゼを攻撃する「粉砕作戦」を受け入れて実行したが、わずか3㎞しか進撃できずその間にもドイツ軍の撤退は進んだ[160]。その後パットンはブラッドレーの作戦干渉を跳ね除けながら進撃を続けて、1月16日にはドイツ軍の進出部(バルジ)を北から攻撃していたモントゴメリーとウーファリズで連結したが、ドイツ軍の残存部隊の大半はこの包囲網が完成する前にその東側(ドイツ本土側)に撤退を成功させていた[161]。1月23日 にはアメリカ軍がザンクト・フィートを奪還し[162]、この日、ドイツ軍司令部により、作戦の停止が決定された。戦闘は公式には1945年1月28日に終了した。

両軍の損害[編集]

撃破されたティーガーⅠ戦車とアメリカ軍第90歩兵師団の兵士。

この戦いにおけるアメリカ軍の戦死者・負傷者・行方不明・捕虜は合わせて76,000人[163]から87,559人[要出典]にも及ぶ大損害であり、一説には第二次世界大戦における最大級のアメリカ軍の人的損失とも言われる。しかし、そのうちの約20,000人は捕虜であり、シェーンベルグ英語版では包囲された第106歩兵師団の兵士など約9,000人が一度に降伏して捕虜となっているが、これは第二次世界大戦においては、フィリピンの戦いバターンの戦い英語版での76,000人の降伏に次ぐアメリカ軍史上最大級の降伏の1つとなっている[164]

一方、ドイツ軍の損失は更に甚大であり、戦死者・負傷者・行方不明・捕虜の人的損失は81,834人[165]もしくは10万人[166]から12万人[167]と諸説あるが、人的損失に加えて物資的な損失も甚大で、装甲車両の損失は800輌[168]、なかでも主力戦車であったV号戦車パンターの損失は壊滅的で、バルジの戦いでは415輌のパンターが投入されたが、2週間で180輌が撃破、135輌が損傷や故障で使用不可で、まともに生き残っていたのはわずか約100輌となっていた。これらの損失を補充するのは不可能であり、ドイツ軍の崩壊を早める引き金ともなった[169]

ベルギー国民の受けた損害も大きく、「バルジの戦い」の期間内に約3,000人が死亡したとも言われている[170]。ドイツ軍は作戦目標となったアントワープやリエージュにV1飛行爆弾V2ロケットを大量に撃ち込んでいるが、侵攻初日の12月16日には映画館のシネマレックスにV2ロケットが命中、映画鑑賞中の連合軍兵士296人を含む567人が死亡した。死亡したベルギーの民間人の多くが子供であった[171]。ほかにもパイパー戦闘団など侵攻してきたドイツ兵により虐殺されたベルギー国民も多数に上った[172]。連合軍の砲爆撃に巻き込まれて死亡したベルギー国民も多く、少なくともラ・ロッシュで120人、サン・ヴィトで250人、マルメディで300人、ウーファリズで200人の民間人が死亡している[173]

戦局への影響[編集]

バストーニュに展示されているM4中戦車。

ドイツの初期の攻勢は連合国を驚かせ、いくつかは成功したが西部戦線での主導権を奪還するに至らなかった。当初予定していたドイツの目標は達成出来ず、アルデンヌ攻勢は多くの損害を生み出し、連合国の反撃により、押し戻される結果になった。

しかし、アルデンヌ攻勢によって西部戦線は完全に歪められ、結果的にドイツは東西から同時にベルリンを攻撃されることを阻止した。1月12日に予定を早めてヴィスワ=オーデル攻勢を開始したソ連軍に対して、同じ時期のアメリカ・イギリス軍はアルデンヌ戦線内に残存しているドイツ軍と苦闘を重ねながら、「バルジ」の一歩一歩奪還を余儀なくされていた。また、ドイツ軍の西部戦線への戦力集中は一時的にソ連軍の進撃を容易にし、戦後の東西冷戦のパワーバランスにも少なからず影響を与えた。イギリス首相のウィンストン・チャーチルが1月6日にヨシフ・スターリンに東部戦線からドイツに圧力をかけてほしいと要請したこともあって[174]、ソ連軍が西側連合軍を救ったとのプロパガンダにも利用されて、ソ連軍によるベルリン攻略を後押しすることにもなった[175]。戦後にはアメリカが大戦中に行った莫大なソ連へのレンドリースの返済について、「1945年1月のソ連軍の攻勢によってアメリカ軍イギリス軍の危機は取り除かれた」ため、ソ連のアメリカに対する債務は全て消滅したとの主張の論拠にもなった[176]

この作戦がドイツ軍として公式に完了した1月28日、ヒトラーは「アメリカ軍に甚大な損害を与えた」ことと「この攻勢が切迫していた戦局を極めて大幅に緩和した」と主張した。たしかに連合軍はザール地方への攻勢を諦めざるを得ず、ライン川に向けての最終攻勢英語版を2ヶ月延期することとなったが、アルデンヌ攻勢による甚大な損害によってライン川地域の防衛は弱体化しており、のちの連合軍の進撃に利することとなった[177]チャーチルは回想録で「これが戦争最後のドイツ軍の攻撃だった。それは少なからぬ不安を我々に抱かせ、我々の前進を遅らせることにはなったが、結局我々が得をした」「ドイツ軍は損害を補うことができず、これに続くライン川の戦闘は激烈なものではあったが、疑いもなく我々に楽なものとなった」「ドイツ最高司令部、そしてヒトラーでさえ失望したに違いない」と評している[178]

また、アルデンヌ攻勢の意外な効果としては、ドイツ軍の攻勢で歩兵師団が大損害を受けたこともあり、アイゼンハワーはアメリカ本国に増援の派遣を要請し、国内で訓練中の6個師団がヨーロッパ戦線に送られたが、そのうち2個師団は太平洋戦線に送られる予定であった師団であり、また、作戦での武器・弾薬の大量消費から、太平洋戦域への補給も一時的に停滞した。太平洋戦域での戦力不足が解消されるには時間を要し、1945年3月に開始された沖縄戦でアメリカ軍は死傷者最大75,753人とアルデンヌ攻勢に匹敵する大損害を被ったこともあって、日本本土侵攻作戦であるダウンフォール作戦の作戦計画を遅らせることとなった[179]。また、この増援によってアメリカ国内には、アメリカ陸軍の師団は1個もなくなり、戦力不足を補うため、これまでは、人種差別で認めていなかった黒人兵士の戦闘任務への投入が決定され、2,000人以上の黒人兵が戦闘任務を志願している[180]

脚注[編集]

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  26. ^ うち先鋒となったパンターとIV号戦車は35輌ずつ、ティーガーIIは20輌。
  27. ^ 山崎雅弘 2013, p. 234
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参考文献[編集]

  • ウィリアム・K・グールリック/オグデン・タナー 共著、明石信夫 翻訳、『ライフ 第二次世界大戦史 「バルジの戦い」』、タイム ライフ ブックス
  • Sandler, Stanley (2002), Ground Warfare: An International Encyclopedia, ABC-CLIO, ISBN 1-57607-344-0
  • ウィンストン・チャーチル『第二次世界大戦〈4〉勝利と悲劇』佐藤亮一 (訳)、河出書房新社、1975年。ASIN B000J9EIUA
  • ハンソン・ボールドウィン『勝利と敗北 第二次世界大戦の記録』木村忠雄(訳)、朝日新聞社、1967年。ASIN B000JA83Y6
  • フリードリヒ・フォン・メレンティン『ドイツ戦車軍団全史―フォン・メレンティン回想録』矢嶋由哉(訳)、朝日ソノラマ、1980年。ISBN 4257031190
  • スティーヴン・J. ザロガ『パンターvsシャーマン バルジの戦い1944』大日本絵画、2010年。ISBN 978-4499230162
  • アントニー・ビーヴァー『第二次世界大戦1939-45(下)』平賀秀明(訳)、白水社、2015年。ISBN 978-4560084373
  • ピーター・エルストブ『バルジ大作戦―ドイツ軍最後の反撃』堀江芳孝(訳)、サンケイ新聞社出版局、1972年。ASIN B000J9H07S
  • チャールズ・ホワイティング『ヨーロッパで最も危険な男―SS中佐スコルツェニー』芳地 昌三(訳)、サンケイ新聞社出版局、1972年。ISBN 978-4383012782
  • チャールズ・ホワイティング『猛将パットン―ガソリンある限り前進せよ』田辺一雄(訳)、サンケイ新聞社出版局、1972年。ASIN B000J9FK4I
  • アルフレッド・プライス『ドイツ空軍 ヨーロッパ上空に敵機なし』北畠卓(訳)、サンケイ新聞社出版局、1971年。ASIN B000J9GS12
  • リチャード・ベッセル 『ナチスの戦争1918-1949 - 民族と人種の戦い』大山晶(訳)、中公新書、2015年。ISBN 978-4121023292
  • 山崎雅弘『米軍から見た「バルジの戦い」』六角堂出版、2013年。ASIN B00E0MR372
  • トーマス・アレン、ノーマン・ボーマー『日本殲滅 日本本土侵攻作戦の全貌』栗山洋児(訳)、光人社、1995年。ISBN 4769807236
  • 児島襄『第二次世界大戦―ヒトラーの戦い〈12〉アルデンヌ・最後の反撃』小学館、1984年。ISBN 978-4093610124
  • Parker, Danny S. (2014). Hitler's Warrior: The Life and Wars of SS Colonel Jochen Peiper. Da Capo Press. ISBN 978-0306821547 

この戦いを題材とした映像作品[編集]

  • 前線命令』(原題:The last blitzkrieg)
    1959年製作のアメリカの戦争映画 (Colombia Pictures)。米兵の軍服を着用して偽装した英語を話すオットー・スコルツェニーの謀略部隊の活躍を描く。米語のスラングを理解出来ないことから正体が発覚する。
  • バルジ大作戦』(原題:Battle of the Bulge)
    1965年製作のアメリカの戦争映画。「バルジの戦い」を題材としているが、細部はかなりフィクションが入っており、またスペインロケであるが途中から雪が消えてしまい、どこの戦場だかわからなくなってしまっている。ヨアヒム・パイパー親衛隊中佐をモデルとしたドイツ軍の戦車隊指揮官ヘスラー大佐をロバート・ショウが演じている。
  • アルデンヌの戦い(1968)
  • 大反撃』(原題:Castle Keep)
    1969年製作のアメリカの戦争映画。アルデンヌの古城を舞台にした米軍部隊とドイツ軍との壮絶な戦いを描いた作品。
  • スローターハウス5
    1972年に製作されたアメリカのSF映画(原作は1969年に発表)。主人公が若き頃に従軍し、参加した。作者も同じくバルジの戦いに参加しており、その際の戦闘・捕虜経験を参考にしている。
  • 真夜中の戦場』(原題:A Midnight Clear)
    1992年製作のアメリカの戦争映画 (Colombia Pictures)。1944年12月アルデンヌの前線に送られた米軍の斥候隊と投降を願うドイツ兵の物語。戦場のクリスマス・ソングとクリスマス・ツリー。
  • バンド・オブ・ブラザース
    2001年に製作された第101空挺師団第506パラシュート歩兵連隊第2大隊E中隊の訓練から対ドイツ軍戦勝利・終戦までを描いたスティーヴン・アンブローズのノンフィクション作品を基にしたテレビドラマ。その中の一話は「バストーニュ」のエピソード名からも分かるように(ただし日本語版では『衛生兵』)バルジの戦いのエピソードである。第101空挺師団の包囲されたバストーニュにおける苦闘を描いた回。
  • ジャスティス』(原題:Hart's War)
    2002年に製作されたアメリカの戦争映画。冒頭で主人公のアメリカ兵がスコルツェニー・コマンドのドイツ兵に捕らえられ、ドイツ軍の捕虜収容所へ送られる。
  • 極寒激戦地アルデンヌ 〜西部戦線1944〜』(原題:SAINTS AND SOLDIERS)
    2003年製作のアメリカの戦争映画。バルジの戦いのなか発生した「マルメディの虐殺事件」を題材にした作品。虐殺から生き残った連合軍兵士が友軍にたどり着くまでを描いている。

この戦いを題材としたゲーム[編集]

ウォーシミュレーションゲームボードゲーム[編集]

  • Battle of the Bulge(1965年度版), アバロンヒル, 1965
  • Wacht am Rhein, SPI, 1977
  • Battles for the Ardennes, SPI, 1978
    • バトル・フォー・ジ・アルデンヌ(上記の日本語版), サンセットゲームズ, 2006
  • The Bulge, SPI, 1979
    • バルジ大作戦(上記の日本語版),『ベーシック3』版, ホビージャパン, 1983
    • バルジの戦い(上記のリメイクバージョン), ウォーゲームハンドブック2016版, 国際通信社, 2016
  • Dark December, Operational Studies Group(OSG), 1979
    • バルジの戦い(上記の日本語版), 『シックス・アングルズ別冊第2号版』, シックス・アングルズ, 2005
  • Battle of the Bulge(1981年度版), アバロンヒル, 1981
  • バルジ大作戦, エポック社, 1981
    • コマンドマガジン日本版第23号』付録版, 国際通信社, 1998
    • 『ジャパン・ウォーゲーム・クラシックス版』, 国際通信社, 2014
  • アルデンヌの霧, アドテクノス, 1983
  • バルジ大作戦,『ウォーゲームエレクトロニクス』バージョン, エポック社, 1983
  • バルジ大作戦,『シミュレーション入門1』バージョン, エポック社,1985
    • 『コマンドマガジン日本版第120号』付録版, 国際通信社,2014
  • バルジの戦い (Battle of the Bulge), 翔企画, 1988
    • 『コマンドマガジン日本版第46号』付録版, 国際通信社, 2002
  • The Last Gamble, ホビージャパン, 1986
    • Hitler's Last Gamble: The Battle of the Bulge(上記のリメイクバージョン), World Wide Wargames(3W), 1989
    • ヒトラーズ・ラスト・ギャンブル(上記の日本語版), ヨシカワデザイン, 2003
  • Battle of the Bulge(1991年度版), アバロンヒル, 1991
  • Ardennes(Standard Combat Series), The Gamers, 1994
  • ウェイブ・オブ・テラー:バルジの戦い(Wave of Terror), XTR, 1997
    • 『コマンドマガジン別冊第8号版』, 国際通信社, 1997
    • 『コマンド・ザ・ベスト第12号版』, 国際通信社, 2011
  • Bitter Woods, アバロンヒル, 1998
  • Tigers in the Mist, GMT Games, 1999
  • Panzer Grenadier: Battle of the Bulge, Avalanche Press, 2002
  • America Triumphant: The Battle Of The Bulge, Avalanche Press, 2003
  • Ardennes'44, GMT Games, 2003
  • Autumn Mist-The Battle of the Bulge, Fiery Dragon Productions, 2004
  • Darkest December: Battle of the Bulge 1944, Critical Hit, 2004
  • Axis & Allies: Battle of the Bulge, アバロンヒル, 2006
  • Fast Action Battle: The Bulge, GMT Games, 2008
  • 激突!バルジ突破作戦, 『ゲームジャーナル第29号』付録, シミュレーションジャーナル, 2008
  • Bastogne: Screaming Eagles under Siege(Standard Combat Series), Multi-Man Publishing, 2009
  • セルの死闘(Battles of the Bulge: Celles), Revolution Games, 2012
    • 『コマンドマガジン日本版第126号』付録版, 国際通信社, 2015
  • Enemy Action: Ardennes, Compass Games, 2015
  • バルジの戦い(ソリティア),『歴史群像第150号』付録, 学研プラス, 2018

リアルタイムストラテジーコンピュータゲーム[編集]

  • クロースコンバット4 ~バルジの戦い~, メディアクエスト, 2000 - Windows95/98/Me/2000
  • 1944 ~バルジの戦い~, ズー, 2005 - Windows98/Me/2000/XP

外部リンク[編集]