「松永安左エ門」の版間の差分

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** 茶室白雲洞が移築され、公開されている
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== 注釈 ==
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2011年9月20日 (火) 23:48時点における版

1929年5月、出淵勝次(左)とともに

松永 安左エ門(まつなが やすざえもん、1875年明治8年)12月1日-1971年昭和46年)6月16日)は、「電力王」「電力の鬼」と言われた日本財界人。美術コレクター、茶人としても知られ、耳庵(じあん)の号を持つ近代小田原三茶人の一人。氏名は「松永安左ヱ門」と表記されることもある。

生涯

1875年明治8年)、長崎県壱岐で生まれた。幼名は亀之助。壱岐中学時代、福澤諭吉の『学問のすすめ』に感激し、1889年(明治22年)に東京へ出て慶應義塾に入学。在学中に福澤桃介と知り合う。1893年(明治26年)、父(二代目松永安左エ門)の死で帰郷、家督を継ぐとともに三代目松永安左エ門を襲名。

1895年(明治28年)に慶應義塾に再入学するも、1898年(明治31年)に中退。慶應義塾中退後、福澤桃介の紹介で日本銀行に入行した。当時山本達雄総裁の下、日銀幹部ストライキ事件が起こり、東大出身幹部らが一掃され、慶應出身者が一般職員から幹部までを占めた時期にあたるが1年で辞職。その後は福澤と共同で神戸大阪等で材木商や石炭業を営むなどした後、1909年(明治42年)、福岡の市電を運営する福博電気軌道株式会社の設立に参加、翌年には九州電気を設立(後に他数社と合併し、九州電灯鉄道)。

1913年大正2年)には九州の西部合同ガス(現西部ガス)社長に就任。1917年(大正6年)衆議院選挙に立候補し、当選した(次の選挙で中野正剛に敗れて落選した)。

1922年(大正11年)に九州電灯鉄道と関西電気が合併して東邦電力になると副社長になった(後に社長)。東邦電力は九州、近畿、中部に及ぶ勢力を持った。さらに東京進出を図り設立された、同社の子会社・東京電力は、東京電燈と覇権を争った(当時は同じ地域に複数の電力会社が供給し、激しい競争をすることがあった。鶴見騒擾事件もこの電力戦が大きな要因)。

1927年昭和2年)、東京電燈と東京電力は合併し、東京電燈株の交付を受けた大株主という立場の松永は同社の取締役に就任した[1]。その影響力はもとより、この頃「電力統制私見」を発表し、民間主導の電力会社再編を主張したことなどもあって、「電力王」といわれた。

戦争に訴えなくとも、日本が生きていけるということに成算があり、国家による管理に反対した松永は、その道筋を説き続けた。官僚嫌いでもあった松永は、講演会の席上で軍閥に追随する官僚達を「人間のクズ」と発言した(1937年)。これらの言動は「天皇の勅命をいただいているものへの最大な侮辱」と大問題になり、新聞に謝罪広告を掲載する事態に追い込まれる。当時の企画院総裁だった鈴木貞一から「あなたは重大なリストに載っているから、手を引かないと危ない」という忠告も受けた。

戦争の激化に伴い、国家総動員法と合わせて電気事業を国家管理下に置く政策が取られ、特殊法人の日本発送電会社が設立され、9の会社が配電事業を行うことになった(一発電九配電体制)。これに伴う東邦電力の解散(1942年)を期に松永は引退し、以後は所沢柳瀬荘で茶道三昧の日を過ごした。

第二次世界大戦後、所沢から小田原に移り、所蔵していた美術品と柳瀬荘を東京国立博物館に寄贈した。占領政策上、日本発送電会社の民営化が課題になると、電気事業再編成審議会会長に選出された。日本発送電側は独占体制を守ろうと画策したが、反対の声を押し切り9電力会社への事業再編(九電力体制)を実現した。さらに電力事業の今後の発展を予測して電気料金の値上げを実施したため、消費者からも多くの非難を浴びた。こうした強引さから「電力の鬼」と呼ばれるようになった。

1951年(昭和26年)、電力技術の研究開発を効率的かつ外圧に影響されることなく実施するため、9電力会社の合同出資でありながら、完全中立を堅持する公益法人として、民間初のシンクタンク電力中央研究所を設立し、晩年は自ら理事長に就任した。産業計画会議を主宰し、東名高速道路名神高速道路の計画や、国会でも物議を醸した日本最大の多目的ダムである沼田ダム計画を発表した。

また、欧米視察の際に知遇を得たアーノルド・J・トインビーの『歴史の研究』の翻訳・刊行に尽力した。

人物

ピンチをくぐり抜けるたびに成功のヒントを掴んだ。明るい性格で美男だったことから女性関係も派手であったとされる。作家の梶山季之が財界人たちに「小説にしたら面白い人物は誰か」と尋ねたところ、多くは松永の名を挙げたという。

松永は耳庵(じあん)と号する茶人・古美術収集家としても知られる。松永は第二次大戦後、前記のとおり収集品の一部を東京国立博物館に寄贈した。

同館に寄贈した以外の美術品は小田原市にあった財団法人松永記念館に保管されていたが、同財団の解散により、大部分が福岡市美術館、一部が京都国立博物館愛知県陶磁資料館などの所蔵に帰している。代表的な収集品としては、平安仏画の代表作である「釈迦金棺出現図」(国宝、京都国立博物館蔵)などがある。

産業計画会議での松永の現場視察は、大臣や高級官僚のものは違い、自動車が入れないような場所にある粗末な小屋に泊まり、ドラム缶の風呂に入り、第一線で働く工事現場の人たちの苦労を自らの体で味わうという、徹底した現場主義であった。

米寿の祝いは、池田勇人内閣総理大臣だけを呼び、何もない、電力中央研究所本部の屋上で行った。

親類縁者

  • 熊本利平(妹婿)

麦焼酎・松永安左エ門翁

松永の出身地である壱岐酒造を営む玄海酒造株式会社は、自社生産の麦焼酎に松永の名を据えて販売している。

役職

栄典

松永は、戦後、生存者叙勲制度が復活した際の、最初の勲一等瑞宝章叙勲者である。その際、池田勇人内閣総理大臣が、松永を候補者に挙げ、誰からも異論はなかった。しかし、料亭で池田から打診された松永は「人間の値打ちを人間が決めるとは何ごとか」と激高し、帰ってしまった。

池田から松永の説得を要請された永野重雄は、『(あなたが叙勲を)受けないと生存者叙勲制度の発足が遅れて、勲章をもらいたい人たちに、迷惑がかかる。あなたは死ねばいやでも勲章を贈られる。ならば生きているうちに貰った方が人助けにもなる』と松永を説得した為、松永は不本意ながら叙勲を受けることにした[2]

それでも松永は抗議の意志を示すため、叙勲式典を欠席した。その後、栄典の類は反吐が出るほど嫌いだとして、死後を含め全ての栄典を辞退すると公言する。このため、松永の訃報を受けた佐藤栄作内閣が政府叙勲を即日決定したものの、遺族は松永の遺志を尊重して辞退した。

関連項目

注釈

  1. ^ したがって、この東京電力は、現在の東京電力とは直接にはつながっていない。
  2. ^ 栗原俊雄『勲章 知られざる素顔』(岩波新書、2011年)

参考文献

日本経済新聞出版社、2000年/日経ビジネス人文庫 2004年
  • 小島直記 『晩節の光景 松永安左ェ門の生涯』 経済人叢書・図書出版社、1990年
  • 小島直記 『まかり通る 電力の鬼・松永安左ェ門』-小説
新潮文庫上下、1982年/新版東洋経済新報社、2003年 ISBN 9784492061329

外部リンク