福博電気軌道

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福博電気軌道(ふくはくでんききどう)は、かつて福岡県福岡市において路面電車を運営していた事業者である。

沿革[編集]

創業[編集]

1909年(明治42年)8月31日福澤諭吉養子で実業家であった福澤桃介が、大阪市において発起集会を開いたのがこの会社の始まりである。福澤桃介が社長、松永安左エ門が専務となり設立される。

元々、福岡における配電事業を行っていた博多電燈が、明治30年代に余剰電力を活用して電車の運行を計画していたことはあったが、この当時は市の人口が8万人程度となっていたものの、乗客需要についての予測が不透明であることと、予算の問題で見送られていた。

また福岡市においても、既に1895年(明治28年)の京都電気鉄道(→京都市電)をはじめとして、大都市においては路面電車が普及し始めていたことから、発展を図るために導入を計画していた。しかし市も財政難に苦しんでおり、自ら敷設を行うことは不可能と考え、博多電燈の相談役も務めていた福澤桃介に設立を依頼したのである。

福澤は、自らの調査で福岡市においても電車事業は採算が取れると考え、50年後に事業を市に無償で譲渡する条件をつける代わりに、市の収得していた敷設免許を撤回するという条件をつけ、会社の設立に至った。

開業・延伸[編集]

1910年(明治43年)3月9日、予定されていた九州沖縄八県連合勧業共進会の始まる2日前に、大学前(→九大病院) - 西公園間と呉服町 - 博多駅前間の単線で営業を開始する。区域制運賃制度をとり、1区1銭(通行税が追加で1銭)としたほか、定期乗車券回数乗車券の制度も定めた。出だしは上々で、2か月間で925,000人の乗客があったという。

同年3月26日、県庁前 - 西公園間を早速複線化すると、8月11日大学前 - 箱崎間、1911年(明治44年)3月10日には西公園 - 今川橋間を延伸した。

社名変更と競合[編集]

1911年(明治44年)11月2日、路線規模の拡大に伴い自前だけでは電力の調達が不可能になったことから、前述した博多電燈との合併を決定し、社名を博多電燈軌道とする。

しかし、翌1912年(明治45年)6月25日には九州電気と合併したため、早々と社名を九州電燈鉄道に改めた。1913年(大正2年)には、軽便鉄道唐津軌道を合併している。

なおこの頃、博多電気軌道と呼ばれる会社が独自に別の路面電車の敷設を開始しており、競合が起こるようになった。同社は1914年(大正3年)に福岡市街の環状線を完成させており、西新と市街との間では路線が並行していた。

1922年(大正11年)6月5日、箱崎 - 工科前(→九大前)間を開業させると、6月25日にはさらなる事業拡大のため、福澤桃介が兼営していた関西電気と合併し、東邦電力を設立する。資本力の強化により、給電と軌道営業の安定化を図ることも目的となった。

福博電車への統合[編集]

昭和の時代に入ると、東邦電力では博多電気軌道の敷設免許を譲り受け、両社の路線を接続すべく1932年(昭和7年)に今川橋 - 西新町(→西新)間を開業させる。しかし、会社が異なるため直通は行われなかった。

当時、福岡における市内電車(市電)の営業会社が2つ存在することは、乗り継ぐ場合にそれぞれの初乗り運賃が別途必要になるなど、乗客から見れば不都合以外のなにものでもなかった。そんな中、全国的に電力事業と鉄道・軌道事業の分離の動きがあり、東邦電力でも九州の電車事業が分離することとなったため、これを機に博多電気軌道との統合を図ることにした。1934年(昭和9年)10月26日に合併は成立し、11月1日から市内電車は新設会社の福博電車の運営になった。

その後、1942年(昭和17年)9月22日には北九州・福岡地域の鉄道事業者が統合されて西日本鉄道(西鉄)となり、福博電車の路線は同社の福岡市内線となった。これが全廃されたのは、1979年(昭和54年)2月11日のことである。

保有路線[編集]

博多電気軌道と合併する直前の、1933年当時

接続路線[編集]

同上

未成線(唐津軌道からの引き継ぎ)[編集]

浜崎駅(唐津軌道) - 玉島村[1]

脚注[編集]

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  1. ^ 森口誠之著『鉄道未成線を歩く 私鉄編』 p.172