「大臣 (古代日本)」の版間の差分

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2011年4月26日 (火) 22:55時点における版

大臣(おおおみ)とは、古墳時代におけるヤマト王権に置かれた役職の1つ。王権に従う大夫を率いて大王天皇)の補佐として執政を行った。(かばね)の一つである(おみ)の有力者が就任した。

概要

先代旧事本紀によれば、最初の大臣は懿徳天皇の申食国政大夫であった出雲醜とされ、その後も一族が大臣の地位を継いだとされている。(ただし先代旧事本紀に関しては、史実として扱わない意見も多く、人物に関しても実在が疑問視されている。)

先代旧事本紀にある懿徳天皇から成務天皇までの大臣の名は、日本書紀では皇后の父兄として登場するが、大臣とは見なされていない。正史で最初の大臣と見なされているのは成務天皇の時代の武内宿禰である。その後は、武内宿禰の後裔(葛城氏平群氏巨勢氏蘇我氏など)が大臣の地位を継いだ。

日本書紀では、武内宿禰一人が成務天皇仲哀天皇応神天皇仁徳天皇の四代に大臣として仕えたとされている。あまりに長寿とされたため、架空の人物と見なされる原因となっている。一方で、諸氏系図や諸神社の伝承では、この四代の時代には、武内宿禰以外にも、物部胆咋仲臣雷大臣日本大臣米餅搗大使主尻綱根意乎已など複数の人物が大臣として名を連ねている。

大臣は、各大王の治世ごとに親任され、反正天皇から安康天皇までの治世に当たる5世紀中期には葛城円が、雄略天皇から仁賢天皇までの治世に当たる5世紀後期には平群真鳥が、継体天皇の治世に当たる6世紀前期には巨勢男人が、敏達天皇から推古天皇までの治世に当たる6世紀後期から7世紀初期には蘇我馬子が、それぞれ大臣に任命された。蘇我馬子が大連である物部守屋を討った後は大連制が事実上廃されたために馬子が単独の執政官となり、以降は蘇我氏が政権の中枢を担うようになり、大臣は蘇我蝦夷(馬子の子)が跡を継いだ。皇極天皇の治世に当たる645年、いわゆる乙巳の変により、蘇我蝦夷は自死し蘇我氏の隆盛は終わった。この事変の直後に即位した孝徳天皇は、大臣に代って左大臣右大臣を置き、権力集中の防止を図った。

大臣の一覧

主に先代旧事本紀新撰姓氏録、諸氏系図や神社の伝承などにあらわれる大臣

上のほか、日本書紀古事記で大臣とされる人物

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 先代旧事本紀の天皇本紀の任官記事
  2. ^ a b c d e f 先代旧事本紀の天孫本紀による
  3. ^ a b 新撰姓氏録より
  4. ^ 小野神社の伝承
  5. ^ 応神記。宮主矢河枝比売の父。系図・伝承では米餅搗大使主の弟、または同一人物。