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「ポーランド民主化運動」の版間の差分

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2010年7月3日 (土) 12:50時点における版

ポーランドの歴史
ピャスト朝
10世紀 - 1370年
 
プシェミスル朝 1300年 - 1306年
 
ポーランド・アンジュー朝 1370年 - 1399年
ヤギェウォ朝 1399年 - 1572年
ポーランド・リトアニア共和国(第1共和制) 1569年 - 1795年
ポーランド分割 1772年、1793年、1795年
ワルシャワ大公国 1807年 - 1813年
ポーランド立憲王国
1815年 - 1867年
クラクフ共和国
1815年 - 1846年
ポズナン大公国
1815年 - 1848年
第一次世界大戦 1914年 - 1918年
ポーランド摂政王国 1916年 - 1918年
ポーランド共和国(第2共和制) 1918年 - 1939年
第二次世界大戦 1939年 - 1945年 ポーランド亡命政府
ポーランド総督府 1939年 - 1945年
ポーランド人民共和国 1952年 - 1989年
ポーランド共和国(第3共和制) 1989年 - 現在
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ポーランド民主化運動 - みんしゅかうんどう)は、ポーランドの政治改革運動。最終的に従来のポーランド統一労働者党による政権下野し、レフ・ワレサ率いる独立自主管理労働組合「連帯」が政権を握った。

民主化の背景

ポーランドは1919年まで、ロシア帝国の領域下に組み込まれており、元々反ロシア的感情が強い地域であった。

ソ連衛星国に組み込まれてからも1956年1970年と反ロシア(ソ連)的、反体制的、反共産党的な勢力が、国内の改革と民主化を求めて暴動を繰り返していた。ポーランド政府はソ連による全面的な介入を防ぎつつ、ある程度彼らの要求を聞き入れる、という事を繰り返してきた。

1980年からはレフ・ワレサ率いる独立自主管理労働組合「連帯」が活動を活発化しており、翌1981年「連帯」を非合法化。1983年戒厳令が解除されたばかりであった。しかし非合法とされながらも「連帯」は以降も活動を続け、彼らを中心とした勢力は依然として国内改革と民主化を要求し、ポーランド共産党による政権を揺るがし続けた。

1978年ポーランド人として初めてのローマ教皇となるヨハネ・パウロ2世が誕生すると、これはポーランド人の西欧自由主義回帰の渇望を大きく鼓舞し、反ソ連・ロシア感情を一層大きくする結果となった。ポーランド人は自分たちがカトリックすなわち自由主義の西欧文化の一員であり正教会をはじめとする東方文化を持つ専制的で権威主義的なロシア(ソ連)とは違うという意識があったからである。

こうした状況下でのソ連の外交方針の転換は、半信半疑でありながらも、ポーランド共産党政権にとっては渡りに船であり、時の為政者であったヴォイチェフ・ヤルゼルスキによる政権は、「連帯」を含めた民主化勢力との妥協を目指した。

民主化の推移

ポーランドでの民主化を模索する動きは先ず1981年に非合法化された「連帯」を合法化する所から始まった。さらに1989年の2月からはポーランド統一労働者党政権と「連帯」をはじめとする民主化勢力との間で話し合いが行われ(円卓会議)、両者の間で自由選挙[1]の実施をすることで合意がなされた。この合意は6月に実行に移された。東欧では先頭を切って自由選挙が実施され、ワレサ率いる「連帯」が圧勝した[2]。新政権として民主化を求める非労働党勢力が主導権を握りつつも、労働党勢力を政権に取り入れる連立政権が発足し、ヤルゼルスキが暫定的な大統領に就任。首相以下閣僚に「連帯」などの非労働党勢力出身の人物を任命して、新生ポーランドがスタートした。

新政権は、ポーランド統一労働者党に極めて有利であった憲法の改正、ポーランド人民共和国からポーランド共和国へ国名の改正、国民の直接選挙による大統領選挙の導入などを決定。この結果を受けた1990年、国民の直接選挙によって選ばれた初めての大統領で「連帯」のワレサが当選。政権の完全委譲が果たされた。

ポーランド民主化運動の影響

ポーランドは旧東欧諸国の中で初めて「複数政党制」による自由選挙を実施した。のちのベルリンの壁崩壊のような劇的で大衆にわかりやすい報道映像の影に隠れてしまったが、当時としては極めて画期的な出来事であり、東欧が変わり始めた兆しとして世界中の耳目を集めた。当然ではあるが、こうした兆候が近隣の東ドイツハンガリーなど、旧東欧諸国全体へ波及していったことを否定することは出来ない。

年譜

脚注

  1. ^ 従来からの議会(セイム)については、460議席の内、65%(299議席)を統一労働者党とその衛星政党に事前配分、残る35%(161議席)を自由選挙枠とした。そして新設されたセナト上院)については100議席全てを自由選挙枠とした。
  2. ^ セイムでは自由選挙枠の161議席全て、セナトでも100議席中99議席を「連帯」系が獲得した(残りの1議席は無所属)。「連帯」系当選者は選挙後、上下両院合同で「市民議会クラブ」(OKP)を結成した。