「小林多喜二」の版間の差分
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* [http://www.suiyokai.org/probun/takiji/index.shtml プロレタリア文学芸術研究連盟小林多喜二特集] |
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* [http://www.otaru-uc.ac.jp/htosyo1/siryo/takijikitaku.html 小林多喜二蔵書寄託図書(小樽商科大学附属図書館)] |
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* [http://www.meisakulive.com/books/index/author:%E5%B0%8F%E6%9E%97%E5%A4%9A%E5%96%9C%E4%BA%8C 小林 多喜二:作家別作品リスト]([[名作ライブ]]) |
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2009年6月11日 (木) 10:47時点における版
文学 |
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小林 多喜二(こばやし たきじ、1903年10月13日 - 1933年2月20日)は、日本のプロレタリア文学の代表的な作家・小説家である。秋田県北秋田郡下川沿村(現大館市)生まれ。
来歴・人物
4歳の時に北海道・小樽に移住。生活は豊かではなかったが、伯父からの学資を受け小樽商業学校から小樽高等商業学校へ進学。在学中から創作に親しみ、文芸誌への投稿や、校友会誌の編集委員となってみずからも作品を発表するなど、文学活動に積極的に取り組んだ。小樽高商の下級生に伊藤整がおり、また同校教授であった大熊信行の教えを受ける。この前後から、自家の窮迫した境遇や、当時の深刻な不況から来る社会不安などの影響で労働運動への参加を始めている。
卒業後、北海道拓殖銀行(拓銀)小樽支店に勤務(この頃、悲惨な境遇にあった恋人田口タキを救う)。1928年の総選挙のときに、北海道1区から立候補した山本懸蔵の選挙運動を手伝い、羊蹄山麓の村に応援演説に行く。この経験がのちの作品『東倶知安行』に生かされている。同年に起きた三・一五事件を題材に『一九二八年三月十五日』を『戦旗』に発表。作品中の特別高等警察による拷問の描写が、特高警察の憤激を買い、後に拷問死させられる引き金となった。
翌1929年に『蟹工船』を「戦旗」に発表し、一躍プロレタリア文学の旗手として注目を集め同年7月には土方与志らの新築地劇団(築地小劇場より分裂)によって『北緯五十度以北』という題で帝国劇場にて上演された。だが同時に警察(特に当時の特高警察)からも要注意人物としてマークされ始める。同年「中央公論」に発表した『不在地主』がもとで拓銀を解雇[1]され、翌年春に東京へ転居。日本プロレタリア作家同盟書記長となる。1930年5月中旬、『戦旗』誌を発売禁止から防衛するため江口渙、貴司山治、片岡鉄兵らと京都、大阪、山田、松阪を巡回講演。23日に大阪で日本共産党へ財政援助の嫌疑で逮捕され、6月7日、一旦釈放された。
24日に帰京後、作家の立野信之方で再び逮捕され、7月、『蟹工船』の件で不敬罪の追起訴を受ける。8月、治安維持法で起訴、豊多摩刑務所に収容された。1931年1月22日、保釈出獄。その後神奈川県・七沢温泉に篭る。1931年10月、非合法の日本共産党に入党し、11月上旬、奈良の志賀直哉邸を訪ねる。1932年春の危険思想取締りを機に、地下活動に入る。8月下旬、自らの地下生活の体験を元に『党生活者』を執筆した。
1933年2月20日、共産党に潜入していた特高警察のスパイ三船留吉からの提案により、赤坂の連絡場所で三船と落ち合う予定にしていた。しかし、今村恒夫とともに訪れたその待ち合わせ場所には、三船からの連絡により張り込んでいた特高警察が待機していて、多喜二はそこから逃走を図ったが、逮捕されてしまった。同日築地警察署内においての取調べについては、今村から話を聞いた江口渙が戦後発表した「作家小林多喜二の死」という文章を、手塚英孝が『小林多喜二』で紹介している。それによると、警視庁特高係長中川成夫の指揮の下に、小林を寒中まる裸にして、先ず須田と山口が握り太のステッキで打ってかかった[2]とある。その後警察署から築地署裏の前田病院に搬送され、19時45分に死去した。
なお、警察当局は、翌21日に「心臓麻痺」による死と発表したが、翌日遺族に返された多喜二の遺体は、全身が拷問によって異常に腫れ上がり、特に下半身は内出血によりどす黒く腫れ上がっていた。しかし、どこの病院も特高警察を恐れて遺体の解剖を断った。死顔は日本共産党の機関紙『赤旗』(せっき)が掲載した他、同い歳で同志の岡本唐貴により油絵で描き残されている。中央公論編集部は、多喜二から預かったまま掲載をためらっていた『党生活者』の原稿を『転換時代』という仮題で『中央公論』(1933年4-5月号)に、遺作として発表した。3月15日には築地小劇場で多喜二の労農葬が執り行われた。弾圧、拷問により死亡した強い印象からか、強面ともイメージされるが生前の多喜二は大変明るく話し好きな人物で、彼の周りでは笑い声が絶えなかった。
なお、小林多喜二死亡時の責任者は特高警察部長だった安倍源基であり、その部下であった特高課長毛利基、警部中川成夫、警部山県為三の三人が直接に手を下している。
近年の再評価
小林多喜二シンポジウム
生誕100周年を迎えた2003年以来、白樺文学館多喜二ライブラリー主催「小林多喜二国際シンポジウム」が2年連続で開催され、2005年秋には、中国河北省の河北大学で「第1回多喜二国際シンポジウム」が、中国各地および日本をはじめ中国国外から研究者約200名を集め開催された。その記録は、白樺文学館多喜二ライブラリー編 / 張如意監修『いま中国によみがえる小林多喜二の文学-中国小林多喜二国際シンポジウム論文集』(東銀座出版社、2006年2月。ISBN 4-89469-095-0)に収められている。
ドキュメンタリー作品
- 映画「時代(とき)を撃て・多喜二」 - 生誕100年・死後70年を記念して、記録映画が「時代を撃て・多喜二」製作委員会によって製作され、日本各地で巡回上映がおこなわれた。
- TV番組「小樽商科大学創立100周年記念 ヒューマンドキュメンタリーいのちの記憶 -小林多喜二・二十九年の人生」(HBCテレビ製作) - 2008年5月31日放送、同年11月17日再放送。
『蟹工船』ブーム
若い世代における非正規雇用の増大と働く貧困層の拡大、低賃金長時間労働の蔓延などの社会経済的背景のもとに、2008年には『蟹工船』が再評価され、新潮文庫の『蟹工船・党生活者』が50万部以上のベストセラーになっている。
注
関連項目
文献
- ノーマ・フィールド『小林多喜二 21世紀にどう読むか』(岩波新書)、岩波書店、2009年1月、ISBN 4004311691