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| 名前 = バロン・フォン・ラシク |
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| リングネーム = バロン・フォン・ラシク<br />ザ・バロン<br />ジム・ラシク |
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| 本名 = ジェームズ・ドナルド・ラシク |
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| ニックネーム = ザ・クローマスター<br />妖獣 |
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| 身長 = 191cm |
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| 体重 = 122kg(全盛時) |
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[[1968年]]に[[WWE|WWWF]]世界王者の[[ブルーノ・サンマルチノ]]に挑戦して脚光を浴びる。[[1970年]]には[[ウィリアム・アフィルス|ディック・ザ・ブルーザー]]から[[インディアナポリス]]版の[[WWA世界ヘビー級王座]]を獲得。[[1971年]]11月、AWAと提携していた[[国際プロレス]]に初来日。[[ストロング小林]]の[[IWA世界ヘビー級王座]]に挑戦している。小林のIWA王座には[[1972年]]5月にも挑戦したほか、1972年の[[IWAワールド・シリーズ]]にも参加している。 |
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[[1975年]]12月、[[全日本プロレス]]の[[ジャイアント馬場]]が「[[アントニオ猪木]]の[[新日本プロレス]]をも含めた他団体に広く門戸を開く」として開催した[[オープン選手権]]に国際プロレスが協力した関係でラシクも参戦する。この大会でラシクは馬場の開幕戦の相手に起用され、得意の[[ブレーンクロー]]で健闘するも、馬場の[[十六文キック]]と三十二文[[ドロップキック]]の前に敗退(なお、馬場の最終戦の相手には同じく国際の常連外国人でオープン選手権に参加していた[[ホースト・ホフマン]]が起用された)。これ以降ラシクは[[全日本プロレス]]に参戦することとなった。[[1977年]]3月には[[ノースカロライナ州]][[グリーンズボロ (ノースカロライナ州)|グリーンズボロ]]で馬場の[[PWFヘビー級王座]]に、また同年5月には[[札幌市|札幌]]で[[ジャンボ鶴田]]の[[ユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座|UNヘビー級王座]]に挑戦している。[[1981年]]の[[世界最強タッグ決定リーグ戦]]には「青銅の爪」[[キラー・カール・クラップ]]との「クロー・コンビ」で参戦したが、二人とも明らかに全盛期を過ぎており、馬場&鶴田組、[[ザ・ファンクス]]、[[ブルーザー・ブロディ]]&[[ジミー・スヌーカ]]、[[ハーリー・レイス]]&[[ラリー・ヘニング]]、[[タイガー・ジェット・シン]]&[[上田馬之助 (プロレスラー)|上田馬之助]]、[[ザ・シーク]]&[[マーク・ルーイン]]といった強豪の中に入っては下位に甘んじるほかなかった。現役での来日はこれが最後となったが、ジャンボ鶴田が[[AWA世界ヘビー級王座|AWA世界ヘビー級王者]]としてアメリカで防衛戦を行った時にラシクも挑戦している。 |
[[1975年]]12月、[[全日本プロレス]]の[[ジャイアント馬場]]が「[[アントニオ猪木]]の[[新日本プロレス]]をも含めた他団体に広く門戸を開く」として開催した[[オープン選手権]]に国際プロレスが協力した関係でラシクも参戦する。この大会でラシクは馬場の開幕戦の相手に起用され、得意の[[アイアンクロー|ブレーンクロー]]で健闘するも、馬場の[[十六文キック]]と三十二文[[ドロップキック]]の前に敗退(なお、馬場の最終戦の相手には同じく国際の常連外国人でオープン選手権に参加していた[[ホースト・ホフマン]]が起用された)。これ以降ラシクは[[全日本プロレス]]に参戦することとなった。[[1977年]]3月には[[ノースカロライナ州]][[グリーンズボロ (ノースカロライナ州)|グリーンズボロ]]で馬場の[[PWFヘビー級王座]]に、また同年5月には[[札幌市|札幌]]で[[ジャンボ鶴田]]の[[ユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座|UNヘビー級王座]]に挑戦している。[[1981年]]の[[世界最強タッグ決定リーグ戦]]には「青銅の爪」[[キラー・カール・クラップ]]との「クロー・コンビ」で参戦したが、二人とも明らかに全盛期を過ぎており、馬場&鶴田組、[[ザ・ファンクス]]、[[ブルーザー・ブロディ]]&[[ジミー・スヌーカ]]、[[ハーリー・レイス]]&[[ラリー・ヘニング]]、[[タイガー・ジェット・シン]]&[[上田馬之助 (プロレスラー)|上田馬之助]]、[[ザ・シーク]]&[[マーク・ルーイン]]といった強豪の中に入っては下位に甘んじるほかなかった。現役での来日はこれが最後となったが、ジャンボ鶴田が[[AWA世界ヘビー級王座|AWA世界ヘビー級王者]]としてアメリカで防衛戦を行った時にラシクも挑戦している。 |
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アメリカではトップクラスの[[ヒール (プロレス)|ヒール]]として、AWAやWWWFの他、[[NWA (プロレス)|NWA]]の主要テリトリーでも活躍。南部エリアでは[[ダスティ・ローデス]]と抗争し、[[アンドレ・ザ・ジャイアント]]とのシングルマッチも各地で組まれた。タッグ・プレイヤーとしても才能を発揮し、AWAではパワーファイターの[[スーパースター・ビリー・グラハム]]、ラフファイターの[[マッドドッグ・バション]]、技巧派のホースト・ホフマンなど、それぞれタイプの異なるパートナーとのチームで実績を残している。[[WCW]]の前身であるNWAミッドアトランティック地区では[[ポール・ジョーンズ (プロレスラー)|ポール・ジョーンズ]]や[[グレッグ・バレンタイン]]とのコンビでNWA世界タッグ王座も獲得した。 |
アメリカではトップクラスの[[ヒール (プロレス)|ヒール]]として、AWAやWWWFの他、[[NWA (プロレス)|NWA]]の主要テリトリーでも活躍。南部エリアでは[[ダスティ・ローデス]]と抗争し、[[アンドレ・ザ・ジャイアント]]とのシングルマッチも各地で組まれた。タッグ・プレイヤーとしても才能を発揮し、AWAではパワーファイターの[[スーパースター・ビリー・グラハム]]、ラフファイターの[[マッドドッグ・バション]]、技巧派のホースト・ホフマンなど、それぞれタイプの異なるパートナーとのチームで実績を残している。[[WCW]]の前身であるNWAミッドアトランティック地区では[[ポール・ジョーンズ (プロレスラー)|ポール・ジョーンズ]]や[[グレッグ・バレンタイン]]とのコンビでNWA世界タッグ王座も獲得した。 |
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== 得意技 == |
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*ブレーンクロー |
*[[アイアンクロー|ブレーンクロー]] |
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== タイトル履歴 == |
== タイトル履歴 == |
2009年3月29日 (日) 12:24時点における版
バロン・フォン・ラシク | |
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プロフィール | |
リングネーム |
バロン・フォン・ラシク ザ・バロン ジム・ラシク |
本名 | ジェームズ・ドナルド・ラシク |
ニックネーム |
ザ・クローマスター 妖獣 |
身長 | 191cm |
体重 | 122kg(全盛時) |
誕生日 | 1940年10月17日(83歳) |
出身地 |
アメリカ合衆国 ネブラスカ州オマハ |
スポーツ歴 | レスリング |
トレーナー |
バーン・ガニア マッドドッグ・バション |
デビュー | 1966年 |
引退 | 1994年 |
バロン・フォン・ラシク(Baron Von Raschke、1940年10月17日 - )は米国ネブラスカ州オマハ出身のプロレスラー。本名はジェームズ・ドナルド・ラシク(James Donald Raschke)。日本での異名は妖獣。
来歴
コロラド大学などでレスリングの名選手として活躍、数々のタイトルを獲得して1964年には東京オリンピックにも出場した。自らもアマレスの名選手だったAWAの総帥バーン・ガニアにスカウトされて1966年にプロレス入り。プロレスではスキンヘッドで「ナチの妖獣」のキャラクターを売り物にした。
1968年にWWWF世界王者のブルーノ・サンマルチノに挑戦して脚光を浴びる。1970年にはディック・ザ・ブルーザーからインディアナポリス版のWWA世界ヘビー級王座を獲得。1971年11月、AWAと提携していた国際プロレスに初来日。ストロング小林のIWA世界ヘビー級王座に挑戦している。小林のIWA王座には1972年5月にも挑戦したほか、1972年のIWAワールド・シリーズにも参加している。
1975年12月、全日本プロレスのジャイアント馬場が「アントニオ猪木の新日本プロレスをも含めた他団体に広く門戸を開く」として開催したオープン選手権に国際プロレスが協力した関係でラシクも参戦する。この大会でラシクは馬場の開幕戦の相手に起用され、得意のブレーンクローで健闘するも、馬場の十六文キックと三十二文ドロップキックの前に敗退(なお、馬場の最終戦の相手には同じく国際の常連外国人でオープン選手権に参加していたホースト・ホフマンが起用された)。これ以降ラシクは全日本プロレスに参戦することとなった。1977年3月にはノースカロライナ州グリーンズボロで馬場のPWFヘビー級王座に、また同年5月には札幌でジャンボ鶴田のUNヘビー級王座に挑戦している。1981年の世界最強タッグ決定リーグ戦には「青銅の爪」キラー・カール・クラップとの「クロー・コンビ」で参戦したが、二人とも明らかに全盛期を過ぎており、馬場&鶴田組、ザ・ファンクス、ブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカ、ハーリー・レイス&ラリー・ヘニング、タイガー・ジェット・シン&上田馬之助、ザ・シーク&マーク・ルーインといった強豪の中に入っては下位に甘んじるほかなかった。現役での来日はこれが最後となったが、ジャンボ鶴田がAWA世界ヘビー級王者としてアメリカで防衛戦を行った時にラシクも挑戦している。
アメリカではトップクラスのヒールとして、AWAやWWWFの他、NWAの主要テリトリーでも活躍。南部エリアではダスティ・ローデスと抗争し、アンドレ・ザ・ジャイアントとのシングルマッチも各地で組まれた。タッグ・プレイヤーとしても才能を発揮し、AWAではパワーファイターのスーパースター・ビリー・グラハム、ラフファイターのマッドドッグ・バション、技巧派のホースト・ホフマンなど、それぞれタイプの異なるパートナーとのチームで実績を残している。WCWの前身であるNWAミッドアトランティック地区ではポール・ジョーンズやグレッグ・バレンタインとのコンビでNWA世界タッグ王座も獲得した。
1982年頃に古巣のAWAでベビーフェイスに転向し、クラッシャー・リソワスキーとベテラン・コンビを結成。なお、ロード・ウォリアーズが1984年8月にAWA世界タッグ王座を奪取した時の王者チームがクラッシャーとラシクのチームである。ウォリアーズとはその後、ミッドアトランティック地区でも抗争。1988年にはザ・バロンの名前でWWFと短期間契約し、パワーズ・オブ・ペイン(バーバリアン&ウォーロード)のマネージャーを務めた。
以降はAWAに戻り、1991年にAWAの活動が終了するまで単発的にリングに上がっていたが1994年に引退。
得意技
タイトル履歴
- AWA世界タッグ王座(パートナーはクラッシャー・リソワスキー)
- NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版・計3度獲得、パートナーはポール・ジョーンズ、グレッグ・バレンタイン)
- NWA世界タッグ王座(セントラルステーツ版、パートナーはマッドドッグ・バション)
- WWA世界ヘビー級王座(インディアナポリス版・計3度獲得)
- WWA世界タッグ王座(インディアナポリス版・パートナーはアーニー・ラッド)
- NWAジョージア・ヘビー級王座
- NWAフロリダTV王座