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{{Infobox プロレスラー
'''バロン・フォン・ラシク'''(''Baron Von Raschke''、[[1940年]][[10月17日]] - )は[[アメリカ合衆国|米国]][[ネブラスカ州]][[オマハ]]出身の[[プロレスラー]]。本名は'''ジェームズ・ドナルド・ラシク'''(''James Donald Raschke'')。日本での[[ニックネーム|愛称]]は'''妖獣'''。
| 名前 = バロン・フォン・ラシク
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| リングネーム = バロン・フォン・ラシク<br />ザ・バロン<br />ジム・ラシク
| 本名 = ジェームズ・ドナルド・ラシク
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| 身長 = 191cm
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'''バロン・フォン・ラシク'''('''Baron Von Raschke'''、[[1940年]][[10月17日]] - )は[[アメリカ合衆国|米国]][[ネブラスカ州]][[オマハ]]出身の[[プロレスラー]]。本名は'''ジェームズ・ドナルド・ラシク'''('''James Donald Raschke''')。日本での[[ニックネーム|異名]]は'''妖獣'''。
== 歴 ==


== 歴 ==
[[コロラド大学]]などで[[アマレス]]の名選手として活躍、数々のタイトルを獲得して[[1964年]]には[[東京オリンピック]]にも出場した。自らもアマレスの名選手だった[[アメリカン・レスリング・アソシエーション|AWA]]の総帥[[バーン・ガニア]]にスカウトされて[[1966年]]に[[プロレス]]入り。プロレスでは[[スキンヘッド]]で「[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ]]の妖獣」の[[ギミック (プロレス)|キャラクター]]を売り物にした。

[[コロラド大学]]などで[[アマチュアレスリング|レスリング]]の名選手として活躍、数々のタイトルを獲得して[[1964年]]には[[東京オリンピック]]にも出場した。自らもアマレスの名選手だった[[アメリカン・レスリング・アソシエーション|AWA]]の総帥[[バーン・ガニア]]にスカウトされて[[1966年]]に[[プロレス]]入り。プロレスでは[[スキンヘッド]]で「[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ]]の妖獣」の[[ギミック (プロレス)|キャラクター]]を売り物にした。


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アメリカではトップクラスの[[ヒール (プロレス)|ヒール]]として、AWAやWWWFの他、[[NWA (プロレス)|NWA]]の主要テリトリーでも活躍。南部エリアでは[[ダスティ・ローデス]]と抗争し、[[アンドレ・ザ・ジャイアント]]とのシングルマッチも各地で組まれた。タッグ・プレイヤーとしても才能を発揮し、AWAではパワーファイターの[[スーパースター・ビリー・グラハム]]、ラフファイターの[[マッドドッグ・バション]]、技巧派のホースト・ホフマンなど、それぞれタイプの異なるパートナーとのチームで実績を残している。[[WCW]]の前身であるNWAミッドアトランティック地区では[[ポール・ジョーンズ (プロレスラー)|ポール・ジョーンズ]]や[[グレッグ・バレンタイン]]とのコンビでNWA世界タッグ王座も獲得した。
アメリカではトップクラスの[[ヒール (プロレス)|ヒール]]として、AWAやWWWFの他、[[NWA (プロレス)|NWA]]の主要テリトリーでも活躍。南部エリアでは[[ダスティ・ローデス]]と抗争し、[[アンドレ・ザ・ジャイアント]]とのシングルマッチも各地で組まれた。タッグ・プレイヤーとしても才能を発揮し、AWAではパワーファイターの[[スーパースター・ビリー・グラハム]]、ラフファイターの[[マッドドッグ・バション]]、技巧派のホースト・ホフマンなど、それぞれタイプの異なるパートナーとのチームで実績を残している。[[WCW]]の前身であるNWAミッドアトランティック地区では[[ポール・ジョーンズ (プロレスラー)|ポール・ジョーンズ]]や[[グレッグ・バレンタイン]]とのコンビでNWA世界タッグ王座も獲得した。
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== 得意技 ==
== 得意技 ==
*ブレーンクロー
*[[アイアンクロー|ブレーンクロー]]


== タイトル履歴 ==
== タイトル履歴 ==

2009年3月29日 (日) 12:24時点における版

バロン・フォン・ラシク
プロフィール
リングネーム バロン・フォン・ラシク
ザ・バロン
ジム・ラシク
本名 ジェームズ・ドナルド・ラシク
ニックネーム ザ・クローマスター
妖獣
身長 191cm
体重 122kg(全盛時)
誕生日 (1940-10-17) 1940年10月17日(83歳)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ネブラスカ州オマハ
スポーツ歴 レスリング
トレーナー バーン・ガニア
マッドドッグ・バション
デビュー 1966年
引退 1994年
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バロン・フォン・ラシクBaron Von Raschke1940年10月17日 - )は米国ネブラスカ州オマハ出身のプロレスラー。本名はジェームズ・ドナルド・ラシクJames Donald Raschke)。日本での異名妖獣

来歴

コロラド大学などでレスリングの名選手として活躍、数々のタイトルを獲得して1964年には東京オリンピックにも出場した。自らもアマレスの名選手だったAWAの総帥バーン・ガニアにスカウトされて1966年プロレス入り。プロレスではスキンヘッドで「ナチの妖獣」のキャラクターを売り物にした。

1968年WWWF世界王者のブルーノ・サンマルチノに挑戦して脚光を浴びる。1970年にはディック・ザ・ブルーザーからインディアナポリス版のWWA世界ヘビー級王座を獲得。1971年11月、AWAと提携していた国際プロレスに初来日。ストロング小林IWA世界ヘビー級王座に挑戦している。小林のIWA王座には1972年5月にも挑戦したほか、1972年のIWAワールド・シリーズにも参加している。

1975年12月、全日本プロレスジャイアント馬場が「アントニオ猪木新日本プロレスをも含めた他団体に広く門戸を開く」として開催したオープン選手権に国際プロレスが協力した関係でラシクも参戦する。この大会でラシクは馬場の開幕戦の相手に起用され、得意のブレーンクローで健闘するも、馬場の十六文キックと三十二文ドロップキックの前に敗退(なお、馬場の最終戦の相手には同じく国際の常連外国人でオープン選手権に参加していたホースト・ホフマンが起用された)。これ以降ラシクは全日本プロレスに参戦することとなった。1977年3月にはノースカロライナ州グリーンズボロで馬場のPWFヘビー級王座に、また同年5月には札幌ジャンボ鶴田UNヘビー級王座に挑戦している。1981年世界最強タッグ決定リーグ戦には「青銅の爪」キラー・カール・クラップとの「クロー・コンビ」で参戦したが、二人とも明らかに全盛期を過ぎており、馬場&鶴田組、ザ・ファンクスブルーザー・ブロディジミー・スヌーカハーリー・レイスラリー・ヘニングタイガー・ジェット・シン&上田馬之助ザ・シークマーク・ルーインといった強豪の中に入っては下位に甘んじるほかなかった。現役での来日はこれが最後となったが、ジャンボ鶴田がAWA世界ヘビー級王者としてアメリカで防衛戦を行った時にラシクも挑戦している。

アメリカではトップクラスのヒールとして、AWAやWWWFの他、NWAの主要テリトリーでも活躍。南部エリアではダスティ・ローデスと抗争し、アンドレ・ザ・ジャイアントとのシングルマッチも各地で組まれた。タッグ・プレイヤーとしても才能を発揮し、AWAではパワーファイターのスーパースター・ビリー・グラハム、ラフファイターのマッドドッグ・バション、技巧派のホースト・ホフマンなど、それぞれタイプの異なるパートナーとのチームで実績を残している。WCWの前身であるNWAミッドアトランティック地区ではポール・ジョーンズグレッグ・バレンタインとのコンビでNWA世界タッグ王座も獲得した。

1982年頃に古巣のAWAでベビーフェイスに転向し、クラッシャー・リソワスキーとベテラン・コンビを結成。なお、ロード・ウォリアーズ1984年8月にAWA世界タッグ王座を奪取した時の王者チームがクラッシャーとラシクのチームである。ウォリアーズとはその後、ミッドアトランティック地区でも抗争。1988年にはザ・バロンの名前でWWFと短期間契約し、パワーズ・オブ・ペイン(バーバリアン&ウォーロード)のマネージャーを務めた。

以降はAWAに戻り、1991年にAWAの活動が終了するまで単発的にリングに上がっていたが1994年に引退。

得意技

タイトル履歴