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'''有川 貞昌'''('''ありかわ さだまさ'''、[[1925年]][[6月17日]] - [[2005年]][[9月22日]])は、[[東京都]]出身の[[特撮監督]]。[[日本大学]]工学部機械科卒業。[[日本映画撮影監督協会]]会員。
'''有川 貞昌'''('''ありかわ さだまさ'''、[[1925年]][[6月17日]] - [[2005年]][[9月22日]])は、[[東京都]]出身の[[特撮監督]]。[[日本大学]]工学部機械科卒業。[[日本映画撮影監督協会]]会員。


[[1954年]]の怪獣映画『[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]』で特撮パートの[[撮影技師|カメラマン]]を務めた。以後、数多くの映画、テレビの特撮作品を手がけた、昭和期における特殊撮影技術を代表する一人。
[[1953年]]東宝入社。[[1954年]]の怪獣映画『[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]』で特撮パートの[[撮影技師|カメラマン]]を務めた。以後、数多くの映画、テレビの特撮作品を手がけた、昭和期における特殊撮影技術を代表する一人。


[[1967年]]、『[[怪獣島の決戦 ゴジラの息子]]』で、ゴジラ映画2代目の[[特技監督]]となる。
[[1967年]]、『[[怪獣島の決戦 ゴジラの息子]]』で、ゴジラ映画2代目の[[特技監督]]となる。
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『[[西遊記シリーズ#西遊記II|西遊記II]]』(1979年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])では、[[プロデューサー]]を務めている。
『[[西遊記シリーズ#西遊記II|西遊記II]]』(1979年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])では、[[プロデューサー]]を務めている。

晩年は映像関係の専門学校の講師として、特撮技術の指導に当たった。


==エピソード==
==エピソード==
*日本初の総天然色フィルムによる特撮映画「[[空の大怪獣ラドン]]」では、特撮・本編合わせてスタッフ全員が未経験のカラー撮影にあたり、どの会社のカラーフィルムを使うかが論議となった。結局、[[イーストマン・カラー]]が用いられたが、これは特撮班カメラマンである有川の強い推薦によるものだった。
*前年の「[[白夫人の妖恋]]」に次いで、日本初の総天然色フィルムによる特撮怪獣映画となる「[[空の大怪獣ラドン]]」では、特撮・本編合わせてスタッフ全員が未経験のカラー撮影にあたり、どの会社のカラーフィルムを使うかが論議となった。結局、[[イーストマン・カラー]]が用いられたが、これは特撮班カメラマンである有川の強い推薦によるものだった。
*師・[[円谷英二]]と同じく、元は飛行機乗り志望だった。円谷組に入るきっかけも、飛行機の話で盛り上がってのことだった。「[[空の大怪獣ラドン]]」では特撮用の空中撮影のために、円谷と二人で操縦桿を握っている。
*師・[[円谷英二]]と同じく、元は飛行機乗り志望だった。円谷組に入るきっかけも、飛行機の話で盛り上がってのことだった。「[[空の大怪獣ラドン]]」では特撮用の空中撮影のために、円谷と二人で操縦桿を握っている。
*東宝を1971年に退社。「[[ゴジラ対ヘドラ]]」から「[[竹取物語]]」まで[[中野昭慶]]その座を譲った。このことについて、「'''オヤジ'''(円谷の敬称)がいなくなっちゃったんじゃ、もう東宝にいる意味が無くなった」との趣旨のコメントを残している。
*東宝を1971年に退社。後任の特技監督は「[[ゴジラ対ヘドラ]]」から「[[竹取物語]]」まで[[中野昭慶]]その座を継いだ。このことについて、「'''オヤジ'''(円谷の敬称)がいなくなっちゃったんじゃ、もう東宝にいる意味が無くなった」との趣旨のコメントを残している。


==映画作品==
==映画作品==

2008年6月19日 (木) 14:19時点における版

有川 貞昌ありかわ さだまさ1925年6月17日 - 2005年9月22日)は、東京都出身の特撮監督日本大学工学部機械科卒業。日本映画撮影監督協会会員。

1953年東宝入社。1954年の怪獣映画『ゴジラ』で特撮パートのカメラマンを務めた。以後、数多くの映画、テレビの特撮作品を手がけた、昭和期における特殊撮影技術を代表する一人。

1967年、『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』で、ゴジラ映画2代目の特技監督となる。

1971年より国際放映に請われ、テレビ界でその腕を振るう。

西遊記II』(1979年、日本テレビ)では、プロデューサーを務めている。

晩年は映像関係の専門学校の講師として、特撮技術の指導に当たった。

エピソード

  • 前年の「白夫人の妖恋」に次いで、日本初の総天然色フィルムによる特撮怪獣映画となる「空の大怪獣ラドン」では、特撮・本編合わせてスタッフ全員が未経験のカラー撮影にあたり、どの会社のカラーフィルムを使うかが論議となった。結局、イーストマン・カラーが用いられたが、これは特撮班カメラマンである有川の強い推薦によるものだった。
  • 師・円谷英二と同じく、元は飛行機乗り志望だった。円谷組に入るきっかけも、飛行機の話で盛り上がってのことだった。「空の大怪獣ラドン」では特撮用の空中撮影のために、円谷と二人で操縦桿を握っている。
  • 東宝を1971年に退社。後任の特技監督は「ゴジラ対ヘドラ」から「竹取物語」まで中野昭慶がその座を継いだ。このことについて、「オヤジ(円谷の敬称)がいなくなっちゃったんじゃ、もう東宝にいる意味が無くなった」との趣旨のコメントを残している。

映画作品

テレビ作品