源自明
表示
時代 | 平安時代中期 |
---|---|
生誕 | 延喜18年(918年)[1] |
死没 | 天徳2年4月17日(958年5月8日) |
官位 | 正四位下、参議 |
主君 | 朱雀天皇→村上天皇 |
氏族 | 醍醐源氏 |
父母 | 父:醍醐天皇、母:淑姫(藤原菅根の娘) |
兄弟 | 勧子内親王、宣子内親王、恭子内親王、克明親王、保明親王、慶子内親王、代明親王、勤子内親王、婉子内親王、都子内親王、重明親王、常明親王、修子内親王、敏子内親王、式明親王、雅子内親王、有明親王、普子内親王、時明親王、長明親王、兼明親王、高明、兼子、靖子内親王、厳子、韶子内親王、自明、康子内親王、允明、斉子内親王、英子内親王、寛明親王、章明親王、成明親王、為明、盛明親王 |
子 | 元忠 |
源 自明(みなもと の よりあきら)は、平安時代中期の公卿。醍醐天皇の皇子(醍醐第三源氏)。官位は正四位下・参議。
経歴
[編集]延喜20年(920年)醍醐天皇の他の諸皇子とともに源朝臣姓を与えられ臣籍降下する(醍醐源氏)。
朱雀朝の承平4年(934年)无位から従四位上に直叙され、翌承平5年(935年)伊予守に任官する。越前守を経て、天慶2年(939年)侍従に補せられる。天慶8年(945年)右兵衛督に遷ると、朱雀朝末から村上朝前半にかけてこれを10年以上に亘って務め、この間の天暦4年(950年)正四位下に昇叙されている。
天徳2年(958年)正月に参議に任ぜられ公卿に列すが、同年4月17日に卒去。最終官位は参議正四位下。
官歴
[編集]注記のないものは『公卿補任』による。
- 延喜20年(920年) 12月28日:臣籍降下(源朝臣)[2]
- 承平4年(934年) 正月7日:従四位上(直叙)
- 承平5年(935年) 2月23日:伊予守
- 承平6年(936年) 5月22日:越前守
- 天慶2年(939年) 12月27日:侍従
- 天慶3年(940年) 12月22日:昇殿
- 天慶8年(945年) 12月25日:右兵衛督
- 天暦2年(948年) 5月25日:播磨守 8月:服喪 12月:復任
- 天暦4年(950年) 正月7日:正四位下
- 天暦8年(954年) 3月14日:近江権守
- 天徳2年(958年) 正月30日:参議(元右兵衛督)。4月17日:卒去(参議正四位下)
系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
- 『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年