渡辺千明
渡辺 千明 | |
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プロフィール | |
本名 | 山内 千明(やまのうち ちあき)[1] |
誕生日 | 1950年4月19日[2] |
出身地 | 日本 兵庫県[1] |
死没日 | 2021年3月31日[1] |
死没地 | 長野県茅野市[1] |
出身校 | 横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学) |
主な作品 | |
テレビドラマ | 『乱歩賞作家サスペンス・罠の中の七面鳥』(1988年、関西テレビ) |
映画 | 『ジャイブ 海風に吹かれて』(2008年) |
舞台 | 作・演出『贋作蘆花傳(がんさくろかでん)』(2014年) |
受賞 | |
第2回日本シナリオ大賞準入選 |
渡辺 千明(わたなべ ちあき、男性、本名・山内 千明(やまのうち ちあき)[1]、1950年4月19日[2] - 2021年3月31日[1][3])は、日本の脚本家[1]、劇作家、演出家。野田高梧記念蓼科シナリオ研究所理事。
兵庫県出身[1]。横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)卒業[1]。1999年『ニーセーター(若者たち)』で第2回日本シナリオ大賞準入選。
来歴・人物
[編集]父は国文学の大学教授[2]。2人の兄は共に東京大学を卒業し、それぞれ弁護士と公務員になったという一家であるが、本人曰く「25歳になるまでぶらぶらしていた」とのこと[2]。都立立川高校を卒業[2]後、1976年横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)に進学[2]。
1978年同校卒業。講師だった田村孟、馬場当、富田義朗の助手を経て[2]、テレビドラマ『からっ風と涙』、映画『夜叉が池』などを手伝う。
1979年、田村と共作で映画『十八歳、海へ』でデビュー[1][2]。以後、多数の映画・テレビドラマの脚本を担当。1981年からフリー助監督を兼ね、主として工藤栄一監督に付く。
1989年、日本映画学校専任講師。2000年、日本シナリオ作家協会理事。2002年、駒澤大学文学部非常勤講師。2011年、日本映画学校大学化に伴い同校退職。大学化に反対したためだと言われる。
2016年、長野県蓼科に『野田高梧記念蓼科シナリオ研究所』設立、理事に就任。2017年には同研究所のホームページ上で宮本明子と協働で『野田高梧の手帳』連載開始。2019年、富士ゼロックス京都と協働で『蓼科日記』全巻完全複製を開始。2020年9月、「蓼科日記」全巻複製完成。
本人は「自分は遅筆で、テレビのスピードもひどく早く感じる」と話していたことがある[2]。
2021年3月31日1時24分、癌性心膜炎のため長野県茅野市内の病院で死去。70歳没[1][3]。
主な作品
[編集]映画
[編集]- 『十八歳、海へ』(1979年)[1]
- 『無力の王』(1981年)
- 『名門!多古西応援団』(1987年)
- 『難波金融伝・ミナミの帝王 劇場版PARTV』(1995年)[4]
- 『かまち』(2004年)
- 『ジャイブ 海風に吹かれて』(2008年)[5]
テレビドラマ
[編集]- 『木曜ゴールデンドラマ・女の哀しみが聞こえる』(1982年、読売テレビ)
- 『私鉄沿線97分署』(1984年、テレビ朝日)
- 『ニュードキュメンタリードラマ昭和 松本清張事件にせまる』第24回「連合赤軍の崩壊」(1984年、テレビ朝日・東映)
- 『スケバン刑事』(1985年、フジテレビ)
- 『中村敦夫の地球発22時・40年目の突撃』(1985年、毎日放送)
- 『木曜ドラマストリート・あいつと私』(1986年、フジテレビ)
- 『あまえないでョ!』(1987年、フジテレビ)[1]
- 『乱歩賞作家サスペンス・罠の中の七面鳥』(1988年、関西テレビ)[6]
演劇
[編集]- 作『庄内ママコのテッテ的な日々』(1980年)
- 作・演出『笑劇 玉虫マリヤ』(1982年)
- 作・演出『贋作蘆花傳(がんさくろかでん)』(2014年)
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m “脚本家の渡辺千明氏死去、70歳 映画「十八歳、海へ」など”. サンケイスポーツ. 産経デジタル. (2021年4月5日) 2021年4月5日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 週刊テレビ番組(東京ポスト)1988年8月12日号「脚本家の横顔」63頁
- ^ a b “渡辺千明さん死去 脚本家”. 東京新聞. 2023年2月7日閲覧。
- ^ “難波金融伝 ミナミの帝王 劇場版PARTV”. 映画.COM. 2023年2月7日閲覧。
- ^ “ジャイブ 海風に吹かれて”. 映画.COM. 2023年2月7日閲覧。
- ^ TOKYO NEWS MOOK「テレビドラマ全史1953 - 1994」p.519、東京ニュース通信社、1994年