水野忠周
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛文13年1月25日(1673年3月13日) |
死没 | 享保3年10月28日(1718年11月20日) |
改名 | 惣兵衛(幼名)→忠周 |
戒名 | 智徳院殿本蓮社清誉浄祐光阿 |
墓所 |
東京都文京区小石川の伝通院 長野県松本市の玄向寺 |
官位 | 従五位下、中務少輔、出羽守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 信濃国松本藩主 |
氏族 | 水野氏 |
父母 | 父:水野忠直、母:鍋島光茂の娘 |
兄弟 |
忠周、忠富、忠房、水野忠照、内藤種春、 忠英、鍋島直泰、元陳、忠穀、鍋島副忠 |
妻 | 正室:前田利明の娘 |
子 |
忠幹、忠恒、類子(土屋陳直正室)、 近子(亀井茲長正室のち土屋陳直継室) |
水野 忠周(みずの ただちか)は、信濃松本藩の第4代藩主。沼津藩水野家4代。
生涯
[編集]寛文13年(1673年)1月25日、第3代藩主・水野忠直の長男として江戸神田橋邸で生まれる。貞享4年(1687年)12月、従五位下・出羽守・中務少輔に叙位・任官し、江戸幕府の第5代将軍・徳川綱吉の小姓となる。正徳3年(1713年)、父の死去により家督を継いで第4代藩主となる。このとき、弟の水野忠照に蔵米2000俵を与えて分家を創設した。この分家は水野家改易後の享保10年8月に、幕府から佐久郡2000石(根々井知行所)の旗本に取り立てられた。
忠周は松本城の本丸に仏堂を築くほど信仰心が厚く、寺社政策に尽力している。ところが寺社政策以外においての藩政を顧みることなく、さらにその政策のために御用金を何度も課して領民を苦しめ、藩財政を悪化させるなどしている。享保3年(1718年)10月28日に江戸田安邸で死去。享年46。
跡を長男・忠幹が継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
- 前田利明の娘
子女