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松平直純

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平直純
時代 江戸時代中期
生誕 享保12年11月8日1727年12月30日
死没 明和元年3月22日1764年5月12日
改名 千勝、處次郎(幼名)、直純
戒名 徳本院殿願誉慧満黙雄大居士
墓所 東京都台東区浅草幡随院
官位 従五位下左兵衛佐従四位下左兵衛督
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重家治
播磨明石藩
氏族 越前松平家支流明石松平家
父母 松平直常松田友成の養女・幾代子
正室牧野貞通の娘・千姫
直泰直瑗直喬、満
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松平 直純(まつだいら なおすみ)は、江戸時代中期の大名播磨国明石藩の第3代藩主官位従四位下左兵衛督。直良系越前松平家4代。

生涯

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享保12年(1727年)、第2代主・松平直常の長男として明石城にて誕生。母は側室で松田友成の養女・幾代子。直常より處次郎の名を与えられる。元文2年(1737年)に元服し、直常より直純のを与えられる。この年、生母の幾代子が死去する。翌元文3年(1738年)、初めて8代将軍徳川吉宗御目見する。元文5年(1740年)、左兵衛を名乗る。従五位下を叙任し、左兵衛佐と改称する。

寛保3年(1743年)、直常の隠居に伴い家督を相続する。藩財政窮乏のため半知借り上げ、上米を実施する。延享2年(1745年)、牧野貞通の娘・千姫と婚姻する。寛延元年(1748年)、朝鮮通信使が来日し、幕府より接待を命じられる。この年、千姫との間に長男・處次郎が誕生する。従四位下に昇進する。寛延3年(1750年)、財政窮乏対策として銀札を発行する。宝暦2年(1752年)、左兵衛督と改称する。宝暦12年(1762年)、再び朝鮮通信使の接待を行う。明和元年(1764年)3月20日(公式な没日は3月22日)に病没、享年38。長男の直泰が家督を継いだ。

系譜

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参考文献

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  • 黒田義隆編著『明石藩略史』明石葵会、1981年