松倉城 (越中国)

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松倉城
富山県
城内にある『松倉城主の碑』
城内にある『松倉城主の碑』
別名 金山城、鹿熊城
城郭構造 山城
築城年 1335年
主な城主 桃井氏椎名氏上杉氏
廃城年 慶長年間
指定文化財 県指定史跡
位置 富山県魚津市鹿熊字城山
北緯36度45分43.9秒 東経137度26分27.1秒 / 北緯36.762194度 東経137.440861度 / 36.762194; 137.440861
地図
松倉城の位置(富山県内)
松倉城
松倉城
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松倉城(まつくらじょう)は、越中新川郡松倉村(現在の富山県魚津市)にあった日本の城山城)。別名「金山城」または「鹿熊城」。富山県史跡[1]越中三大山城の一つ。とやま城郭カードNo.3[2][3]

構造[編集]

松倉城址からの眺め

松倉山(鹿熊山)の山頂(標高430.9メートル)に位置する。本丸には数百本のが植えられていて(富山さくらの名所50選にも指定されている)、展望も良く、新川平野一帯を一望できる。三方は断崖で、5郭を構成している。城の規模としては越中最大級である[4]

1995年平成7年)には、入城の門広場が整備された[5]

歴史[編集]

1335年(建武2年)頃の築城と言われている。城主は普門利清桃井直常と移り、南北朝時代のあとは椎名氏の居城として、越中東部の政治・軍事の中心として栄えた。豊富な産出量を誇った松倉金山を擁していた。 椎名氏は最盛期には富山県呉東地域にまで勢力を広げていたが、1570年(永禄13年/元亀元年)、城主の椎名康胤が、宗主の上杉氏から対立する武田氏に寝返ったために上杉謙信に攻められたが百日間に渡り攻撃を防ぎ、上杉謙信越後に引き上げた(尻垂坂の戦い参照) 。元亀3年(1572年)5月、武田信玄西上作戦に呼応して、椎名康胤上杉氏に対立したが、攻防戦の末に松倉城は開城した(松倉城の戦い)。

この結果、上杉氏方の拠点として河田長親が城将を務め、天正8年(1580年)10月には神保長住による攻撃を撃退している。天正10年(1582年)6月、魚津城落城直後に松倉城織田信長方の手に落ちたが、本能寺の変後の混乱によってすぐに上杉氏方に復帰した。

その後、天正11年(1583年)に城将須田満親佐々成政に開城し信濃の海津城に転出した。また成政も富山の役で前田・上杉軍に挟撃されたうえ秀吉の大軍の前に降伏、天正15年(1587年)に肥後移封されたが一揆が発生し没落した[6]

文禄4年(1595年)には前田利長新川郡が加増され、土肥氏・舟見氏らの上杉家の越中衆から郡内の諸城を受け取る[7]前田氏は麓の鹿熊にあった城下町を魚津へ移す。松倉城は慶長年間に廃城となったと言われている。

遺構・復元施設[編集]

  • 城址碑と案内板 - 巨石に「松倉城址」石板を填めた址碑。隣に場内案内。
  • 「松倉城主之碑」 - 天守入口付近にあり、桃井氏から須田満親まで歴代城主の顕彰碑。
  • 本丸跡 - 「松倉城本丸跡より富山方面を望む」写真パネル台。富山市方面が遠望できる。
  • 「松倉城跡地形模型」 - 水平に置かれた立体図に松倉城跡の全景が配置。1/1000の縮尺。
  • 「松倉城跡の構造」絵図 - 発掘調査の様子を写した写真も掲載[8]
  • 平ノ峰(のろし台) - 丸太を等間隔に敷いた山道が狼煙台へ続いている。
  • 水飲場跡
  • 八幡堂社殿 - 本丸跡南の曲輪にある祠。
  • 古道 - 旧城下町と本丸を結ぶ古道。2020年に0.6kmを遊歩道として整備した[9]

近隣施設など[編集]

  • 石の門砦 - 城下町があったとされる鹿熊集落の入口にある門。魚津市指定史跡。松倉支城群の中で唯一現存する石垣
  • 「松倉城とその支城群」案内 - 角川ダム側の登城口にある。魚津市イメージキャラクター「ミラたん」により写真とイラストで紹介。
  • 松倉金山 - 椎名氏の資金源として採掘された金山。椎名氏は謙信に助勢を求め、1570~1595年頃まで上杉家が支配、運上金を春日山へ送る[10]。江戸時代初期には加賀藩が経営した越中七金山の一つとされ、坑道跡などを残しているが、危険な状態であるため、立ち入りが禁止されている[11]

支城[編集]

松倉城はいくつかの支城をもっていて、魚津市山間部一帯に山城群を形成していた。尚、支城名は以下に記述する。近くに松倉金山があった。

イベント[編集]

5月下旬には、この地及び升方城跡、北山城跡で「戦国のろし祭り」というイベントが開催される。

交通[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 「種類別指定文化財一覧」富山県公式HP
  2. ^ 「とやま城郭カードが完成しました!」砺波市公式HP
  3. ^ 「とやま城郭カード一覧」砺波市公式HP
  4. ^ 『富山県市町村地図』(1994年7月25日、北日本新聞社発行)98頁。
  5. ^ 『広報うおづ 平成7年6月号 No.595』10頁『入城の門広場が完成』より。
  6. ^ 佐々家は養子や兄の一族が細川氏・水戸徳川氏・上杉氏などで存続。
  7. ^ 同年の蒲生騒動に伴う上杉家の東蒲原と新川の交換による。「加賀藩文書」(前田育徳会など)に加増や城の受け取りを記した記録(ただし、豊臣家からの新川郡宛行状がなく江戸期に問題にされる)。
  8. ^ 富山県教育委員会・魚津市教育委員会(平成17年3月)
  9. ^ 北日本新聞』2020年11月22日付22面『先人の知恵と自然体験 踏破ルポ 魚津 松倉城跡の古道復活 急峻地形 巧みに利用』より。
  10. ^ 上杉家文書(『上杉年譜』、『大日本史料』、『越佐史料』)
  11. ^ 『富山県の歴史散歩』(山川出版社、2013年3月31日1版3刷発行)42頁。
  12. ^ 『日本城郭大係 第7巻 新潟・富山・石川』(1980年12月10日、新人物往来社発行)271頁。
  13. ^ 魚津市商工観光課web「魚津城の戦い」ほか

関連項目[編集]

外部リンク[編集]