手宮駅

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手宮駅
てみや
Temiya
南小樽 (2.8 km)
所在地 北海道小樽市手宮町
北緯43度12分34.2秒 東経140度59分55秒 / 北緯43.209500度 東経140.99861度 / 43.209500; 140.99861座標: 北緯43度12分34.2秒 東経140度59分55秒 / 北緯43.209500度 東経140.99861度 / 43.209500; 140.99861
所属事業者 日本国有鉄道(国鉄)
所属路線 手宮線貨物線
キロ程 2.8 km(南小樽起点)
電報略号 テミ
駅構造 地上駅
開業年月日 1880年明治13年)11月28日
廃止年月日 1985年昭和60年)11月5日
備考 廃止時:貨物駅。専用線発着車扱貨物のみ取扱い。
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手宮駅
てみや
Temiya
(0.7 km) 桟橋
所属事業者 北海道炭礦鉄道
所属路線 北海道炭礦鉄道(貨物線)
キロ程 0.0 km(手宮起点)
開業年月日 1893年(明治26年)3月26日
廃止年月日 1901年(明治34年)11月6日
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手宮駅(てみやえき)は、かつて北海道小樽市にあった日本国有鉄道(国鉄)手宮線貨物駅廃駅)である。事務管理コードは▲131702[1]

歴史[編集]

1976年の手宮駅、周囲約1.2km範囲。下が南小樽方面。客扱い用の駅舎やホームは左下近くの駅前広場(昭和42年に小樽市へ売却)が残されている場所にあったが、既に貨物駅になってから14年が経過して、全ての設備が撤去されている。貨物駅としての駅舎は、一番上の踏切(手宮川踏切)左上側に設けられた。さらにその上側に転車台の残る2つの機関庫が見える。最初の桟橋(所謂手宮さん橋)は、機関庫とこの写真の右下角を結ぶ直線上に近い位置に設置されていた。その後に室蘭と規模を競った高架桟橋は、右側の石油基地から伸びる桟橋と同じ位置に設置されていた。石炭船積設備は、この時点で小樽築港の方は廃止されているが、当駅の北海道炭礦汽船の管理する石炭ヤードは往年の1/3近くに狭まっているものの、同社の新夕張や清水沢炭鉱等からの受入があり、まだ稼動している。専用線が右上厩地区方面に長く延びている。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
  • 1880年明治13年)
    • 9月28日:米国貨物船ジェラルド・C・トベイ号手宮入港、鉄道機材荷揚げ。幌内鉄道のレール敷設が開始される[2][3]
    • 10月:転車台設置[2]
    • 10月10日:手宮工場設置[3]
    • 10月24日:手宮 - 熊碓第4隧道間4.8kmレール敷設完了。弁慶号にて試運転[2]。道内での初の鉄道運転。
    • 11月11日官営幌内鉄道の駅として仮営業開始。貨物のみ取扱い。
    • 11月28日:手宮 - 札幌間開通、正式開業[2]
    • 12月:石炭船積用海上桟橋450m(手宮さん橋)設置および積込線敷設完了[3]
  • 1881年(明治14年)
    • 2月:仮停車場竣工[2]。客扱い開始[注釈 1]
    • 12月:手宮工場に機関室設置[2]。(後の手宮機関庫)
  • 1882年(明治15年)11月14日幌内駅から当駅へ幌内炭砿の運炭が開始[2]
  • 1884年(明治17年)11月:木造平屋建停車場竣工[3]
  • 1885年(明治18年)12月:レンガ石造の機関庫(現在は鉄道記念館内に保存)竣工[2]
  • 1889年(明治22年)12月11日北海道炭礦鉄道に譲渡。旅客・荷物取扱い開始[2]。一般駅。
  • 1893年(明治26年)
    • 2月1日:当駅の起点を、手宮さん橋末端から停車場の位置へ変更。これに伴い-0M34C(約-0.68km)のマイル改程[2]
    • 3月26日:手宮さん橋延長工事竣工(680m)[2]。当駅 - 桟橋間の貨物線再開。
  • 1898年(明治31年)
    • 上期:跨線橋設置[2]
    • 下期:駅舎増築及び模様替え[4]
    • 9月:手宮工場が手宮製作所に改称[2]
    • 12月4日:手宮製作所が火災。蒸気機関車5両焼失[2]
  • 1901年(明治34年)11月6日:手宮さん橋老朽化により、当駅 - 桟橋間の貨物線停止。後に高架桟橋が完成するまで石炭船積みは艀を利用した。
  • 1903年(明治36年)1月:手宮工場が岩見沢工場手宮分工場となる[2]
  • 1906年(明治39年)10月1日:北海道炭礦鉄道の鉄道路線国有化により、国有鉄道に移管[2]
  • 1907年(明治40年)
    • 一等駅に指定される[5]
    • 7月1日:旅客取扱い休止[3]
  • 1909年(明治42年)10月12日国有鉄道線路名称設定により、小樽駅(初代、現在の南小樽駅) - 当駅間が手宮線となる[6]
  • 1910年(明治43年)10月11日:荷物取扱い休止。貨物駅。
  • 1911年(明治44年)12月:高架桟橋(長さ391m、満潮海面からの高さ18.6m)竣工。手宮さん橋を廃止(正確な廃止日は不明)[2]
  • 1912年
    • (明治45年)6月:高架桟橋使用開始に伴い、当駅 - 桟橋間の貨物線再開[3]
    • 大正元年)8月11日:旅客・荷物取扱い再開[3]。一般駅[注釈 2]
  • 1914年(大正3年)12月15日:手宮工場が苗穂に移転[3]
  • 1921年(大正10年)8月:北海製罐小樽工場開設、専用線敷設。
  • 1924年(大正13年)12月27日:当駅構内岸壁で荷役中の火薬10tが大爆発。死者行方不明者94名、負傷者300余名、構内施設及び船舶、港湾損壊[7]
  • 1925年(大正14年)9月:日本製粉小樽工場開設、専用線(厩専用線)敷設[注釈 3]
  • 1927年昭和2年)7月1日:手宮機関庫が小樽築港機関庫手宮分庫となる[2]
  • 1936年(昭和11年)頃:厩専用線が高島漁港北端まで延伸。[8]
  • 1943年(昭和18年)10月1日:旅客・荷物取扱い休止[2]。貨物駅。
  • 1944年(昭和19年)9月:攻撃目標になるのを避けるために高架桟橋撤去[3]
  • 1948年(昭和23年)11月10日:旅客・荷物取扱い再開[6]。一般駅。
  • 1949年(昭和24年)
  • 1953年(昭和28年)3月:小野田セメント小樽SS開設、専用線敷設。
  • 1962年(昭和37年)5月15日:旅客・荷物取扱い廃止[3]。貨物駅。
  • 1966年(昭和41年)
  • 1967年(昭和42年)
    • 1月16日:ニップン飼料専用線敷設[3]
    • 5月19日:日清製粉小樽飼料工場専用線敷設[3]
  • 1969年(昭和44年)12月:ホクレン小樽倉庫設置、専用線敷設。
  • 1979年(昭和54年)4月:小野田セメント専用線撤去[3]
  • 1985年(昭和60年)11月5日:手宮線廃線に伴い、廃駅[6]

駅名の由来[編集]

当地域の地区名から。波浪が高い日に当地の海岸に菅藻(スガモアマモの近縁種)が丘のように沢山打ち揚げられたため、アイヌ語でテムムンヤ(菅藻の丘)と言われ、それが転訛したテミヤに当て字をしたものが地区名となった[9]

利用状況[編集]

  • 1921年(大正10年)度 乗客 94,861、 降客 84,983 [10]
  • 1958年(昭和33年)度 乗客 248,870、 降客 191,086 [11]

旧手宮鉄道施設[編集]

遺構は小樽市総合博物館の構内及び周辺にあり「旧手宮鉄道施設」として整備されている[12]

機関車庫三号
鉄道技師の平井晴二郎(農商務省北海道事業管理局炭礦鉄道事務所鉄道科長)の設計で1885年(明治18年)に竣工した日本最古の機関車庫(創建時は「煉化石造機関車室」)[12][13]。レンガ造りで長手と小口を交互に並べるフランス積み[12][13]。国指定重要文化財[13]
機関車庫一号
1908年(明治41年)に竣工した機関車庫[12]。レンガ造りで長手だけの段、小口だけの段を一段おきに積むイギリス積み[12][13]。国指定重要文化財[13]
転車台
1919(大正8年)に東京の横河橋梁製作所製造された転車台[12]。1974年まで稼働[12]。当初は手動・電動だったが圧縮空気を用いる「大友式牽引装置」に変更されており、動態展示されているアイアンホース号の運行に使用されている[12]。国指定重要文化財[13]
貯水槽・危険品庫
貯水槽は明治末期から大正初期に作られたと考えられる蒸気機関車への給水を行うための鋼鉄製の設備(1974年3月まで使用)[12][13]。危険品庫は1898年(明治31年)頃に建造された引火性の物品を保管するための石造の倉庫[12]。国指定重要文化財[13]
擁壁(高架桟橋取付線擁壁)
1911年(明治44年)に造られた高架桟橋の支線の路盤を支えていた構造物(高架桟橋線は1944年廃止)[12][13]。国指定重要文化財[13]

備考[編集]

  • 明治43年頃の貯炭場拡張に伴うホーム及び駅舎移転後の旅客駅としてのキロ程は、南小樽起点で2.1km、色内から1.0km。南小樽起点2.8kmは貨物駅としてのキロ程。
  • 昭和8年 北海道海運通信社発行の「小樽港 港勢のあと」の付図「小樽港平面圖」国立国会図書館デジタルアーカイブによれば、 旅客駅としての手宮駅(現・色内3丁目)とは別に「手宮貨物駅」の記述が高架桟橋付近に書かれている。

隣の駅[編集]

日本国有鉄道(国鉄)
手宮線(貨物線)
南小樽駅 - 色内仮乗降場 - (貨)手宮駅
北海道炭礦鉄道
北海道炭礦鉄道(貨物線)
(貨)手宮駅 - (貨)桟橋駅

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 北海道鉄道百年史 上巻 P45によると、明治14年6月11日改正時刻表では「並列車」編成は、上等客車1両、並等客車2両、函車1両、台車2両の計6両編成。また「荷物列車」編成は、並等客車1両、函車4両、台車8両の計13両であった。
  2. ^ 現・色内町3丁目4番地に旅客駅を分離したのがこの時期からとみられるが詳細不明。1916年(大正5年)の市街地図(北海道立図書館北方資料デジタルライブラリー)では既に分離しているのが確認できる。これ以降従来の手宮駅は手宮貨物駅と書かれることがしばしば見られる。
  3. ^ 1923年(大正12年)6月6日付けで厩町住民により、同町までの線路延長と停車場設置の請願が政府に提出されている。停車場が設けられることはなかったが、最終的に厩専用線は高島漁港の北端まで敷かれた。

出典[編集]

  1. ^ 日本国有鉄道営業局総務課 編『停車場一覧 昭和41年3月現在』日本国有鉄道、1966年、223頁。doi:10.11501/1873236https://doi.org/10.11501/18732362022年12月10日閲覧 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 北海道鉄道百年史 上・中・下巻 昭和51年-56年 日本国有鉄道北海道総局発行
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 手宮駅駅史100年のあゆみ 昭和55年10月 手宮駅発行
  4. ^ 北海道炭礦鉄道会社 第十九回営業報告。
  5. ^ 平野, 勝也、加藤, 優平「戦前の鉄道における駅等級制度とその運用」『土木学会論文集d2(土木史)』第75巻第1号、土木学会、2019年、1–12頁、doi:10.2208/jscejhsce.75.1 
  6. ^ a b c 今尾恵介(監修)『日本鉄道旅行地図帳』 1 北海道、新潮社、2008年、35頁。ISBN 978-4-10-790019-7 
  7. ^ 小樽港内火薬爆発災害の件”. 国立公文書館 アジア歴史資料センター. 2019年9月9日閲覧。
  8. ^ 昭和10年度「小樽港港湾統計」小樽商工会議所編 1936年(昭和11年)出版 附図、及び昭和12年版「小樽港」小樽港湾事務所編 1937年(昭和12年)出版 附図より。
    また、1958年(昭和33年)から1963年(昭和38年)までの間に、同漁港南端の日本製粉工場までに短縮(小樽港湾要覧 小樽市港湾部発行より)。1956年(昭和31年)「直轄港湾工事年報. 昭和31年度 附図」運輸省港湾局出版(国立国会図書館デジタルコレクション)で高島漁港北端までの延伸状況が確認できる。
  9. ^ 「駅名の起源」 札幌鉄道局 昭和14年発行。
  10. ^ 『大正十年度 鉄道省鉄道統計資料』復刻版 日本経済評論社 1984年(昭和59年)発行
  11. ^ 『小樽市勢概要』 左文字書店 1960年(昭和35年)発行
  12. ^ a b c d e f g h i j k 旧手宮鉄道施設 小樽市、2022年1月24日閲覧。
  13. ^ a b c d e f g h i j 基礎資料 歴史遺産の概要 北海道空知総合振興局、2022年1月24日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

  • 函館市中央図書館デジタル資料館より
    • 手宮さん橋 明治15年頃
    • 手宮構内改築中 明治43年頃 手宮駅俯瞰 左高架桟橋建築中、中央手宮さん橋(この頃は埠頭状になっている)撤去前 構内は改築中で混雑している。
    • 高架桟橋
  • 鉄道国有始末一斑 逓信省 明治42年発行、明治39年の国有化にあたっての調査報告書。P118-121に構内配線図、P140-143に小樽港湾を中心とした市街略図。ただし構内配線図は手宮さん橋(P120の「第弐貯炭塲」の海側で線路が3本収束している先に突き出していた。さん橋はP141に位置が描かれている。)や機関庫や転車台(P120の「工塲」の右側にあった)などは省略されている。国有化後に構内大改装が行われたが、その直前の状況で、構内の「停車塲」旅客ホームは単式1面と島式1面の複合2面3線であったことがわかる。P141-142からはこの「停車塲」へは、海岸側の通りの末端の細道から構内線路1本を渡って駅舎に向かう状況が読み取れる。また、かつてはこの通りに接して陸側に旧線路が敷かれていたが、末端の細道は旧道の名残で、道路が途中から太くなっているのは旧線路部分を道路に拡幅したという状況も見て取れる。(後に旅客駅が置かれる石山(現・稲穂公園)前は、旧線路もやはりくの字に曲がっていた。)国立国会図書館 近代デジタルライブラリー。
  • 明治末-大正の旅客駅の手宮駅(1ページ目写真中央下端)。北海道立図書館・北方資料デジタルライブラリー 小樽港大観 小樽新聞出版。島式ホーム1面2線と木造の駅舎(姿形より旧位置からの移転流用と見られるが、詳細不明)。ホーム右端には現・稲穂公園の崖に少し隠れて跨線橋の姿も見える。1943年の旅客扱い中止後に、一旦駅舎や跨線橋など家屋が撤去された(国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス 1948年4月米軍撮影航空写真 USA-R246-154)。その後1948年の旅客扱い再開後に駅舎は再建されたが、すでに単線区間となったため島状の単式ホーム1面1線で、駅舎側には複線時代の本線に代わって貨物駅側から並走してきた貨物線が引きこまれていたが、跨線橋は無かった(国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス 1961年5月撮影航空写真 MHO613C-C1-7981)。