徳大寺公維
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時代 | 室町時代後期-安土桃山時代 |
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生誕 | 天文6年(1537年) |
死没 | 天正16年5月19日(1588年6月12日) |
官位 | 正二位、内大臣 |
主君 | 後奈良天皇→正親町天皇 |
氏族 | 近衛家→久我家→徳大寺家 |
父母 |
父:近衛尚通、母:徳大寺維子 養父:久我通言→徳大寺実通 |
兄弟 | 花屋理春、近衛殿、近衛稙家、義俊、覚誉、道増、慶寿院、久我晴通、徳大寺公維 |
子 | 花山院定熙室、実久 |
徳大寺 公維(とくだいじ きんふさ)は、室町時代後期から安土桃山時代の公卿。官位は正二位・内大臣。
経歴
[編集]公式には久我通言の二男とされたが、実際には近衛尚通が正室徳大寺維子との間にもうけた末子である[1]。久我通言の養子となり、越中国で横死した徳大寺実通の養子となって徳大寺家を相続した。天文15年(1546年)叙爵して以降累進し、侍従・相模介・左近衛中将を経て、天文21年(1552年)に従三位となり、公卿に列する。権中納言を経て、永禄3年(1560年)に権大納言となる。天正3年(1575年)に辞したが、天正4年(1576年)に再任した。天正5年(1577年)には左近衛大将となるも辞職。天正6年(1578年)には神宮伝奏に就任。天正8年(1580年)内大臣となるも辞す。和歌と尊鎭流の書をよくした。