徳大寺公継
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徳大寺公継像(『天子摂関御影』より) | |
| 時代 | 平安時代末期-鎌倉時代前期 |
| 生誕 | 安元元年(1175年) |
| 死没 | 嘉禄3年1月30日(1227年2月17日) |
| 改名 | 公嗣(初名)→公継 |
| 別名 | 野宮左大臣 |
| 官位 | 従一位、左大臣 |
| 主君 | 後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇 |
| 氏族 | 徳大寺家 |
| 父母 | 父:徳大寺実定、母:上西門院備後 |
| 兄弟 | 公綱、公守、公継、道雲、公広、公厳、(異父妹)藤原憲子 |
| 妻 |
五条夜叉 三条実房の娘 |
| 子 | 実基、実助、女子、実嗣、実真、実縁 |
徳大寺 公継(とくだいじ きんつぐ、安元元年〈1175年〉- 嘉禄3年〈1227年〉)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて公卿。左大臣・徳大寺実定の三男。官位は従一位・左大臣。徳大寺家4代。初名は公嗣(きんつぐ)。通称は野宮左大臣(ののみやさだいじん)。日記に『宮槐記』がある。
経歴
[編集]寿永2年(1183年)12月に叙爵[1]して以降累進して、侍従・備前介・右近衛少将・右近衛中将などをへて、建久元年(1190年)参議となり、公卿に列する。公継の兄二人は早世し、自身も病気がちとなった父の実定が自身の左大臣辞任と引き換えに残された公継の参議任官を後白河法皇や九条兼実らに乞うて認められたものという[2](後述のように、母親はこの頃には藤原範光と関係を持っていたとみられ、実定とは別れていた可能性が高い)。建久6年(1195年)後鳥羽天皇の中宮九条任子の中宮大夫となる。伊予権守・権中納言・左衛門督・検別当などをへて、建仁2年(1202年)には皇太子守成親王(のちの順徳天皇)の春宮権大夫となる。同年、正式な中納言となる。元久元年(1204年)に権大納言、さらに建永元年(1206年)大納言となった。さらに正式な春宮大夫となる。承元元年(1207年)右近衛大将に任じられる。承元3年(1209年)、正二位内大臣となる。承元4年(1210年)に右近衛大将を辞し、建暦元年(1211年)右大臣となり、建保3年(1215年)に辞職した。承久3年(1221年)に更任、貞応3年(1224年)、一上となし、ついで左大臣に任じた。嘉禄元年(1225年)、従一位に叙され、同3年(1227年)薨去、享年53。
『泉涌寺不可棄法師伝』によれば、死去する前日の夕方に自宅である三条西洞院第にて西に向かい端坐合掌をしながら薨じたと伝えている。ところが、『明月記』によれば、息子の死に動転した母の備後の元に娘の憲子(岡前別当三位:藤原範光の娘・源有雅の妻、順徳天皇の乳母)が強盗に襲われて全裸にされているとの知らせが届けられ、慌てて彼女の宅に向かったものの、娘の有様を見た衝撃でそのまま亡くなったと記されている。当主とその母親が同日に亡くなるという事態に「喪家混合珍事」の有様であったという[3]。
官歴
[編集]『公卿補任』による
- 寿永2年(1183年) 12月13日:叙爵(従五位下、上西門院令爵)。12月19日:侍従
- 寿永3年(1184年) 正月6日:従五位上(上西門院治承四年御給)
- 文治2年(1186年) 正月5日:正五位下(皇后宮当年御給)
- 文治3年(1187年) 正月23日:兼備前介(侍従兼国)、右近衛権少将
- 文治4年(1188年) 3月22日:従四位下(臨時)
- 文治5年(1189年) 7月10日:従四位上。12月13日:右近衛中将
- 建久元年(1190年) 7月17日:参議。7月18日:右中将如元。10月26日:正四位下
- 建久2年(1191年) 2月1日:兼備中権守。12月20日:従三位
- 建久6年(1195年) 4月7日:正三位(東大寺供養行事賞)。11月11日:兼中宮権大夫
- 建久7年(1196年) 正月22日:兼伊予権守
- 建久9年(1198年) 正月30日:権中納言(権大夫如元)
- 正治元年(1199年) 正月5日:従二位(去建長七年石清水賀茂両社行幸賞)
- 正治2年(1200年) 正月22日:兼左衛門督、検非違使別当。6月25日:辞両職(止衆徒訴)
- 建仁2年(1202年) 正月7日:正二位(承明門院初入内)。10月29日:兼春宮権大夫。閏10月20日:転中納言
- 建仁3年(1203年) 8月21日:更兼右衛門督、検非違使別当。10月24日:転左衛門督。11月23日:辞三職
- 元久元年(1204年) 正月13日:権大納言(権大夫如元)
- 建永元年(1206年) 3月28日:転大納言。4月3日:兼春宮大夫
- 承元元年(1207年) 4月10日:兼右近衛大将
- 承元3年(1209年) 4月10日:内大臣(右大将如元)
- 承元4年(1210年) 正月12日:辞右大将
- 建暦元年(1211年) 10月4日:転右大臣
- 建保3年(1215年) 10月9日:辞右大臣(上表)
- 承久3年(1221年) 閏10月10日:還右大臣
- 元仁元年(1224年) 12月25日:転左大臣
- 嘉禄元年(1225年) 正月5日:従一位
- 安貞元年(1227年) 正月23日:辞左大臣。正月30日:薨去(享年53)
系譜
[編集]脚注
[編集]- ↑ 公継の両親はともに上西門院に仕え(実定はかつて上西門院の皇后宮権大夫を務めた)、叙爵はその御給による。更に同月に侍従に任ぜられ、翌月(同3年1月)には再び女院の御給によって従五位上に叙せられている(中村文『後白河院時代歌人伝の研究』笠間書院、2005年 ISBN 4-305-70296-7、70頁)。
- ↑ 中村文『後白河院時代歌人伝の研究』笠間書院、2005年 ISBN 4-305-70296-7、53-54頁
- ↑ 角田文衞「岡前別当三位」『王朝の明暗 平安時代史の研究 第二冊』東京堂出版、1977年、599ー604頁。
- ↑ 東アジア恠異学会『かいいがくのぎほう』臨川書店、2003年11月。ISBN 978-4-653-03846-7。
- ↑ 『尊卑分脈』