宍戸元秀
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 天文16年(1547年) |
死没 | 慶長2年6月11日(1597年7月25日) |
改名 | 海賊(幼名)[1]→元秀 |
別名 |
宍戸元孝 通称:弥三郎 |
戒名 | 安養院殿祖雲玄翁 |
官位 | 従五位下、左衛門尉、雅楽頭 |
主君 | 毛利隆元→輝元 |
氏族 | 藤原北家道兼流八田氏族宍戸氏 |
父母 | 父:宍戸隆家、母:五龍局 |
兄弟 |
元秀、天遊永寿(河野通宣室)、 春木大方(吉川元長室)、 南の大方(毛利輝元正室) |
妻 | 内藤興盛の娘 |
子 |
元続、女(三沢為虎室)、内藤元盛、 粟屋孝春、元真、景好、元可、 古満姫(小早川秀秋室、のち興正寺准尊室)、河野通軌? |
宍戸 元秀(ししど もとひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利氏の家臣。父は宍戸隆家。母は毛利元就の娘・五龍局。
子に宍戸元続、内藤元盛(佐野道可)、粟屋孝春、宍戸元真、宍戸景好、宍戸元可、三沢為虎室、古満姫(毛利輝元養女、小早川秀秋・興正寺准尊正室)がいる。官位は従五位下・左衛門尉、雅楽頭。別名は宍戸元孝。通称は弥三郎。
生涯
[編集]天文16年(1547年)、宍戸隆家の嫡男として生まれる[2]。
天正20年(1592年)2月5日に父・隆家が死去するが、元秀は病弱等を理由に既に廃嫡されていたため、元秀の子・元続が家督を継ぎ、宍戸家の当主となった[2]。天正年間末の毛利家の分限帳によると、元秀には隠居領として周防国の玖珂郡に190石9斗7升5合、吉敷郡に500石5斗5升3合、熊毛郡に178石6斗2升7合の合計870石1斗5升5合が与えられている[3]。
慶長2年(1597年)6月11日に安芸国井原村[注釈 1]において死去[2]。享年51。
系譜
[編集]- 父:宍戸隆家(1518-1592)
- 母:五龍局(1529-1574) - 毛利元就の次女。
- 正室:貴山妙遵(?-1616) - 内藤興盛の娘。元和2年10月16日(1616年11月24日)に死去[2]。法名は貴山妙遵[2]、または、妙見[4]。
- 母の氏不詳の子
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。国立国会図書館デジタルコレクション
- 岸浩『毛利氏八箇国御時代分限帳』マツノ書店、1987年6月。
- 五條小枝子『戦国大名毛利家の英才教育―元就・隆元・輝元と妻たち―』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2020年1月。