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宍戸元秀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
宍戸元秀
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文16年(1547年
死没 慶長2年6月11日1597年7月25日
改名 海賊(幼名[1]→元秀
別名 宍戸元孝
通称:弥三郎
戒名 安養院殿祖雲玄翁
官位 従五位下、左衛門尉、雅楽頭
主君 毛利隆元輝元
氏族 藤原北家道兼流八田氏族宍戸氏
父母 父:宍戸隆家、母:五龍局
兄弟 元秀天遊永寿河野通宣室)、
春木大方吉川元長室)、
南の大方毛利輝元正室)
内藤興盛の娘
元続、女(三沢為虎室)、内藤元盛
粟屋孝春元真景好元可
古満姫小早川秀秋室、のち興正寺准尊室)、河野通軌
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宍戸 元秀(ししど もとひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将毛利氏の家臣。父は宍戸隆家。母は毛利元就の娘・五龍局

子に宍戸元続内藤元盛(佐野道可)、粟屋孝春宍戸元真宍戸景好宍戸元可三沢為虎室、古満姫毛利輝元養女、小早川秀秋興正寺准尊正室)がいる。官位は従五位下・左衛門尉、雅楽頭。別名は宍戸元孝通称は弥三郎。

生涯

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天文16年(1547年)、宍戸隆家の嫡男として生まれる[2]

天正20年(1592年2月5日に父・隆家が死去するが、元秀は病弱等を理由に既に廃嫡されていたため、元秀の子・元続が家督を継ぎ、宍戸家の当主となった[2]。天正年間末の毛利家の分限帳によると、元秀には隠居領として周防国玖珂郡に190石9斗7升5合、吉敷郡に500石5斗5升3合、熊毛郡に178石6斗2升7合の合計870石1斗5升5合が与えられている[3]

慶長2年(1597年6月11日安芸国井原村[注釈 1]において死去[2]。享年51。

系譜

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脚注

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注釈

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出典

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参考文献

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  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 岸浩『毛利氏八箇国御時代分限帳』マツノ書店、1987年6月。 
  • 五條小枝子『戦国大名毛利家の英才教育―元就・隆元・輝元と妻たち―』吉川弘文館歴史文化ライブラリー〉、2020年1月。