八代俊二

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八代俊二
生年月日 (1960-08-26) 1960年8月26日(63歳)
レースでの経歴
ロードレース世界選手権
活動期間1986年 - 1989年
初レース1986年オーストリアグランプリ 500cc
最終レース1989年日本グランプリ 500cc
チームホンダ
出走回数 勝利数 表彰台 PP FL 総ポイント
34 0 0 0 0 107

八代 俊二: Shunji Yatsushiro, やつしろ しゅんじ、1960年8月26日[1] - )は、鹿児島県鹿屋市生まれの元WGPライダー。現在、モーターサイクルジャーナリスト、テレビでのレース中継解説者として活躍。レースパドック内のコシップニュース取材力に定評がある。愛称「突っ込みハッチ」「居酒屋ハッチ」(彼の解説がしばしば居酒屋中継になるため)など。腕を直角に曲げてタンク上でホールディングする程に前傾した独特のコーナリングスタイルが特徴であった。

経歴[編集]

1984年にタイトルを獲得した時のモリワキZERO X-7
  • 1979年 - 名古屋株式会社サンゲツ入社
  • 1979年 - 株式会社サンゲツ 目指すこと有りと同年退社
  • 1981年 - ロードレース参戦開始
  • 1983年 - 国際B級に昇格するとともに、モリワキエンジニアリングに所属。
  • 1984年 - 全日本ロードレース選手権TT-F1クラス初代チャンピオン(モリワキレーシング) - 国際A級に昇格した1年目にして、この年から全日本格式のカテゴリーとなったTT-F1クラスの初代チャンピオン獲得。
  • 1985年 - 全日本ロードレース選手権TT-F1クラス、ランキング3位(モリワキレーシング)
  • 1986年 - 全日本ロードレース選手権500ccクラス、ランキング2位。 - ロードレース最高峰の500ccクラスに転向(マシンはホンダ・NSR500、エントリーはモリワキから)し、スポーツランドSUGOにて500ccクラス初優勝。この年、ホンダ世界GPチームのエース、フレディ・スペンサーが怪我・欠場続きだった為、スペンサーの代役としてシーズン途中から世界選手権(WGP)の500ccクラスに急遽参戦、ランキング13位。
  • 1987年 - ロードレース世界選手権500ccクラス、ランキング9位。 - ホンダワークス・チームであるロスマンズ・ホンダ(HRC)から初の世界GPフルエントリー。同年の世界チャンピオンになったワイン・ガードナーを補佐する役割を担う。序盤数戦は今まで通りの、コーナー入口でブレーキングを目いっぱい遅らせて突っ込んでいく全日本時代からの「突っ込みハッチ」の異名通りの走りを見せるが、ドイツGP(ホッケンハイムリンク)で表彰台獲得も狙える好位置で走行中、最終コーナーで頭を強く打つ転倒を喫する。このあたりを契機に走行スタイルを徐々に変えて行く事を試みる。終盤戦アルゼンチンGP第4位で入賞を果たす。
  • 1988年 - ロードレース世界選手権500ccクラス、ランキング13位。 - 引き続きロスマンズ・ホンダからガードナーのチームメイトとして参戦。この年用に開発されたNSR500は序盤、フレームへのエンジン搭載位置が前過ぎる設計であった事を主な原因として、コンスタントに速く走る事が難しいマシンとなっていて、前年チャンピオンであるガードナーを以てしても勝てず苦戦。ガードナーは中盤戦イタリアGPあたりまでの間、セッティングで解決できる問題だと思っていたが、八代は開幕戦の鈴鹿の時点で既に「このマシンは基本がおかしい」と訴えていた。しかしその時点でチーム首脳はこの意見を聞き入れず、ガードナーからは「もっと高い次元で走ってくれればそんな問題は起らないよ」という厳しい意見を言われてしまうが、後に八代の訴えていた指摘は正しかった事が明らかになり(すでに3ヶ月程経ち手遅れの感が強かったが)、これ以降ガードナーは八代のマシン開発の能力を高く評価していたと言われる。
  • 1989年 - 全日本ロードレース選手権500ccクラス参戦 - 主戦場を日本に戻し、ホンダNSR500を開発する事を目的とした全日本へのエントリーとなる。チームは新たにペンタックス・ホンダというHRC直系のチームが組織された。あくまで開発がメインであり、勝つ事のみを考えてレースをするという訳にはいかなくなったが奮闘、最終戦・筑波ではウイリー・ゴールを決めようとした所、ウイリーの角度が大きくなり過ぎてしまいひっくり返るのでは?と思わせるハプニングで観客をどよめかせながら優勝を飾る。(87年のMFJグランプリでも同様のヒヤッとするウイリーを見せている。)
  • 1994年 - 鈴鹿8時間耐久レースにスポット参戦、プライベートチーム最上位の第6位入賞。

主な戦績[編集]

ロードレース世界選手権[編集]

1969年から1987年のポイントシステム:

順位 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
ポイント 15 12 10 8 6 5 4 3 2 1

1988年から1992年:

順位 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15
ポイント 20 17 15 13 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1

(key) (太字ポールポジション斜体ファステストラップ

クラス チーム 車両 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 ポイント 順位 勝利数
1986年 500cc HRC-モリワキ ホンダ NSR500 ESP
-
NAT
-
GER
-
AUT
7
YUG
8
NED
NC
BEL
-
FRA
NC
GBR
NC
SWE
14
RSM
11
7 13位 0
1987年 500cc ロスマンズ-ホンダ NSR500 JPN
NC
ESP
8
GER
NC
NAT
NC
AUT
7
YUG
8
NED
14
FRA
8
GBR
11
SWE
NC
CZE
6
RSM
5
POR
8
BRA
6
ARG
4
40 9位 0
1988年 500cc ロスマンズ-ホンダ NSR500 JPN
10
USA
NC
ESP
9
EXP
NC
NAT
8
GER
10
AUT
7
NED
11
BEL
9
YUG
7
FRA
NC
GBR
-
SWE
-
CZE
-
BRA
-
57 13位 0
1989年 500cc HRC-ホンダ NSR500 JPN
13
AUS
-
USA
-
ESP
-
NAT
-
GER
-
AUT
-
YUG
-
NED
-
BEL
-
FRA
-
GBR
-
SWE
-
CZE
-
BRA
-
3 41位 0

鈴鹿8時間耐久オートバイレース[編集]

チーム ペアライダー 車番 マシン タイヤ 予選順位 予選タイム 決勝順位 周回数
1983 モリワキエンジニアリング 日本の旗 三上訓弘 33 カワサキ・Z1000J D 11 2'29”52 6位 185
1984 日本の旗 宮城光 29 ホンダ・CBX750F D 2 2'22”16 Ret 18
1985 日本の旗 宮城光 26 ホンダ・CBX750F D 3 2'22”113 41位 133
1986 日本の旗 宮城光 40 ホンダ・CBX750F D 10 2'23”572 5位 190
1987 味の素ホンダ・レーシング 日本の旗 木下恵司 35 ホンダ・RVF750 M 5 2'18”995 11位 189
1989 Team HRC 日本の旗 三浦昇 47 ホンダ・RVF750 M 7 2'17”705 24位 188
1992 グリコKissMint モリワキレーシング オーストラリアの旗 マルコム・キャンベル 30 モリワキ・Zero-VX7 D 19 2'15”603 12位 201
1994 NTT モリワキレーシング 日本の旗 新井秀也 19 ホンダ・RVF RC45 D 10 2'14”935 6位 180

参照[編集]

  1. ^ 500ccライダー紹介 Rothmans Honda Racing Team 16.八代俊二 87世界選手権第1戦日本グランプリ公式プログラム 63頁 ホンダランド 鈴鹿サーキット販売課 1987年3月発行
タイトル
先代
―――
全日本選手権TT-F1 チャンピオン
1984
次代
辻本聡