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井関三神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
井関三神社
所在地 兵庫県たつの市揖西町中垣内甲799-1
位置

本宮:北緯34度52分33.1秒 東経134度31分12.9秒 / 北緯34.875861度 東経134.520250度 / 34.875861; 134.520250 (井関三神社本宮)座標: 北緯34度52分33.1秒 東経134度31分12.9秒 / 北緯34.875861度 東経134.520250度 / 34.875861; 134.520250 (井関三神社本宮)

奥宮:北緯34度54分11.0秒 東経134度31分7.9秒 / 北緯34.903056度 東経134.518861度 / 34.903056; 134.518861 (奥宮)
主祭神 天照国照彦火明櫛玉饒速日命
瀬織津姫命
建御名方命
社格 旧郷社
旧神饌幣帛料供進指定神社
創建 伝崇神天皇2年(BC96年)
本殿の様式 流造
別名 井関三社大明神
式内天照神社
例祭 10月10日
主な神事 10年祭開帳式
さいれん坊主
地図
井関三神社の位置(兵庫県内)
本宮
本宮
奥宮
奥宮
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井関三神社 奥宮
所在地 兵庫県たつの市揖西町中垣内甲
位置 北緯34度54分11.0秒 東経134度31分7.9秒 / 北緯34.903056度 東経134.518861度 / 34.903056; 134.518861
主祭神 武甕槌命
創建 伝崇神天皇2年(BC96年)
別名 井関奥宮神社
奥宮太神社
奥宮大明神
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井関三神社(いせきさんじんじゃ)は兵庫県たつの市揖西町中垣内に鎮座する神社旧郷社、旧神饌幣帛料供進指定神社。大庄屋八瀬氏の氏神・瀬織津姫命と龍野藩主脇坂氏の氏神・建御名方命を合祀する。

祭神

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本殿三柱

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三社大明神

五穀豊穣(治水、天候気象)、病気治癒(健康増進)、国家鎮護(鎮魂、地鎮、安全)、家運長久(子孫繁栄、安産守護、結縁)、航空宇宙、交通安全、製鉄
災厄祓除(清祓、開運、厄除、方除、災難除、悪運退散、罪穢除、疾病除)、河川治水(自然保護)、女性守護(安産、育児)
農耕、狩猟、武運長久(勝利)、開発(新規開拓、殖産興業)、国土安穏(盛業繁栄、交通安全、開運長寿)

境外摂社 奥宮神社

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心願成就、武道守護(必勝)、往来安全、国土守護(治山、環境保全)、危除

境内末社

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荒神社

開発、農業守護、火伏(火難除け)

稲荷神社

五穀豊穣、商売繁盛、家内安全

天満神社

学業成就、書道・学芸奨励、雷除け

金刀比羅宮

五穀豊穣、交通安全、水難守護、家内安全、病気平癒、縁切り、怨霊鎮魂

由緒

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社伝によれば、崇神天皇2年[2]播磨国揖保郡亀山(きのやま)に天照国照彦火明櫛玉饒早日命が勅命により鎮座し、天照神社(あまてる - じんじゃ)として創祀する。
社伝には
「崇神天皇2年内待所の上に玉光あり、播磨国にも玉光照す所あり、之に天照国照彦火明奇魂饒早日命を祀れとの神教の随々に時の四道将軍道主命[3]に勅して其の境[4]に社を立て給う」

と言う。
また、奥宮大明神・武甕槌命は

「日本國御巡見の時、当國木山(きのやま)の峯に、「我が心神留まりおかん(その場に留まり鎮まっておこう)」と思し召し、峯に大石を立て置き賜う
神跡なる事を四道将軍道主命がお聞き及びに達し、此の石を御神體[5]に御社を御建立成られる」

とある。

その当時より祀られる奥宮大明神・武甕槌命は奥宮太神社と称して、古代山城城ノ山城[6]の守護神とされて、また中世・城山(木ノ山・きのやま)城主、龍野鶏籠山城主の赤松氏歴代の崇敬を受ける。
亀山の現奥宮より真南に位置する現社地の井関へ遷座した年代と経緯は諸説あって判然としない。井関の地は城山城の裏鬼門にあたり、鬼門除けとして建立された城禅寺、宮内天満神社とは城山城を挟み対角の立地にある。

年表

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  • 崇神天皇2年 播磨国揖保郡亀山(現在の奥宮の地)に天照国照彦火明櫛玉饒速日命が勅命により鎮座して天照神社(あまてる - じんじゃ)が創祀。創祀当時より武甕槌命が祀られる。
  • 天武天皇の頃、四道将軍牛頭天王を祀り、これを飛鳥時代後期に神宮寺とした。
  • 延元2年(1336年)までに南北朝の戦乱によって神社、神宮寺が焼失する。
  • 貞和5年(1349年) 井関の社殿が再興。
  • 永享12年(1440年) 井関の社殿を改築。
  • 嘉吉元年(1441年) 嘉吉の乱によって井関、奥宮ともに社殿を焼失するも、後に再興される。
  • 弘治元年(1555年)[7] 中垣内村の大庄屋・八瀬氏によって、その氏神・瀬織津姫命が山城国八瀬郷[8]より勧請合祀される。
  • 寛文12年(1672年) 龍野城主脇坂安政が入部の際、家運永久子孫繁昌を願い龍野城の乾(戌亥・北西)の天門を鎮めとして、前任地の信濃国飯田に鎮座する氏神の諏訪神社[9]より、その祭神の建御名方命が勧請合祀され、天照国照彦火明櫛玉饒速日命、瀬織津姫命、建御名方命の三柱をもって井関三神社(いせき-さん-じんじゃ)と称する。
  • 江戸時代を通じて、龍野藩主京極氏[10]脇坂氏歴代、龍野藩士、平井郷(中垣内、清水、清水新、佐江、前地)・桑原荘(小田、菖蒲谷、新宮、構、田井、竹万、北山、龍子)の中垣内川・古子川流域13ヶ村の氏子の崇敬篤く、数々の寄進がなされている。
  • 明治15年(1882年) 郷社列格。
  • 明治45年(1912年) 神饌幣帛料供進社指定。

境内

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  • 神社扁額
天照神社 (裏)式内井関神社
  • 社殿
本殿・拝殿・幣殿・絵馬殿・手水舎・社務所
荒神社・稲荷神社・天満神社・金刀比羅宮
  • 境外社
奥宮神社
御旅所

祭礼

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  • 10年祭開帳式

10年毎に執行される式年祭で開帳式とも云う。神仏習合期の習俗を現在に伝えたもので神宮寺創建当時、白鳳時代(670年頃)の三尊仏を開帳する。

  • 播磨の奇祭 さいれん坊主

 毎年8月14日に神社境内で、翌15日に中垣内恩徳寺境内で執行される。嘉吉の乱により城山城落城の際に討ち死にした赤松一族の霊を弔う盆供養。たつの市無形文化財

水争いの伝説

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社伝に

『在る年の夏、天下大いに旱魃す
万民、水に苦しむ時に、本國越部荘市野保村の里民、此の山上に上り、神池の堤を切り開きて水を唐猫谷に落し、市野保村に引入れ、其の水を呑みし人民牛馬忽ち病て臥す
里民怪みて、陰陽家に卜せしむ
卜者云ひけらく、神水を盗みて呑みし神罰なりと
村民大いに恐怖し、堤を本の如く堰留め、神前に大祓を執行し、その罪を免れんとせんとす
平井郷桑原荘に住みし人民は、神威によりて池水を堰留賜へりと、神徳の著明せることを畏尊し奉り、是より井関大明神[11]と称し奉るなり』

とある。


播磨国風土記ではこれを、伊和大神(大己貴神)[12]の子・石龍比古命とその妹で妻の石龍比売命の二柱の揖保郡出水里の美奈志川(中垣内川)での水争いとして伝えている。

交通

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井関本社

駐車場40台

奥宮

  • 中垣内教育キャンプ場入口より約4km、徒歩で60分程度

周辺

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脚注

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  1. ^ 播磨国風土記』では、大汝命(オホナムチ・大国主命(オオクニヌシノミコト))の子とする。
  2. ^ 兵庫県神社庁の説明などでは崇神天皇2年をBC96年とするが、これは『日本書紀』に記述される天皇歴代在位を機械的に西暦に置き換えた年代である。崇神天皇が即位したのは、歴史的には2世紀末頃と考えられる。上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧を参照のこと。
  3. ^ 丹波道主命
  4. ^ 磐境。
  5. ^ 磐座
  6. ^ 663年天智天皇2年)の白村江の戦い倭国が敗れた後、新羅の侵攻に備え築城した。
  7. ^ 『中垣内沿革誌』では、徳治元年(1306年)としている。
  8. ^ 京都市左京区八瀬では現在、八瀬天満宮の境内社・六所神社において瀬織津姫命を祀る。
  9. ^ 脇坂氏飯田城主時代は、脇坂安元慶安3年(1650年)に社殿を再興した飯田市宮の前に鎮座する 大宮諏訪神社を氏神としていた。
  10. ^ 讃岐国丸亀藩へ転封後もなお、揖東郡6ヶ村・揖西郡22ヶ村に1万3,000石余りを領し、揖東郡網干興浜に陣屋を置き、井関社への寄進を重ねた。
  11. ^ 天照国照彦火明櫛玉饒速日命とされる堰塞明神が播磨国総社総神殿・揖西郡9座の内の1座として祀られる。
  12. ^ 『播磨国風土記』の記載では、伊和大神と葦原志許乎命(大己貴神の別称・葦原醜男)は同神とみなせる。

参考文献

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  • 兵庫県揖保郡役所編『兵庫県揖保郡地誌』兵庫県揖保郡役所 1903年
  • 兵庫県神職会編『兵庫県神社誌 中巻』兵庫県神職会 1938年
  • 中垣内自治会編 『中垣内沿革誌』中垣内自治会 1985年

外部リンク

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関連項目

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