ユースフ1世 (ナスル朝)
ユースフ1世 أبو الحجاج يوسف بن إسماعيل | |
---|---|
グラナダのスルターン | |
ユースフ1世の名が刻まれたディナール金貨 | |
在位 | 1333年8月26日 - 1354年10月19日 |
全名 | アブル=ハッジャージュ・ユースフ・ブン・イスマーイール |
出生 |
1318年6月29日(ヒジュラ暦718年ラビー・アッ=サーニー月28日) アルハンブラ宮殿(グラナダ) |
死去 |
1354年10月19日(ヒジュラ暦755年シャウワール月1日) アルハンブラ宮殿 |
埋葬 | アルハンブラ宮殿 |
配偶者 | ブサイナ |
マルヤムまたはビ=リム | |
子女 |
息子 ムハンマド5世 イスマーイール2世 カイス アフマド 娘 アーイシャ ファーティマ ムウミナ ハディージャ シャムス ザイナブ |
王朝 | ナスル朝 |
父親 | イスマーイール1世 |
母親 | バハール |
宗教 | イスラーム教 |
ユースフ1世(アブル=ハッジャージュ・ユースフ・ブン・イスマーイール, アラビア語: أبو الحجاج يوسف بن إسماعيل, ラテン文字転写: Abuʿl-Ḥajjāj Yūsuf b. Ismāʿīl, 1318年6月29日 - 1354年10月19日)、またはラカブでアル=ムアイヤド・ビッ=ラーフ(アラビア語: المؤيد بالله, ラテン文字転写: al-Muʾayyad bi-llāh,「神の救済を得る者」の意)[1]は、第7代のナスル朝グラナダ王国の君主である(在位:1333年8月26日 - 1354年10月19日)。
兄のムハンマド4世の暗殺後に15歳でスルターンに即位したユースフ1世は、当初は年少者として扱われ、大臣たちと祖母のファーティマから限られた権限しか与えられなかった。ナスル朝は1334年2月に隣国であるカスティーリャ王国とマリーン朝との間で4年間の平和条約を締結し、5月にはアラゴン王国とも条約を締結した。その後、より強い権力を得ると1338年か1340年に兄のムハンマド4世殺害の黒幕であったアル=グザート・アル=ムジャーヒディーン(ナスル朝のために戦う北アフリカ出身者から構成された軍事組織)の指導者の一族であるアビー・アル=ウラー家を追放した。
平和条約の期限が切れた後、ユースフ1世はカスティーリャ王アルフォンソ11世に対抗するためにマリーン朝のスルターンのアブル=ハサン・アリーと同盟を結んだ。1340年4月にはアルヘシラス沖でナスル朝とマリーン朝の艦隊がカスティーリャ艦隊に圧倒的な勝利を収めたものの、最終的にナスル朝とマリーン朝の連合軍は同年10月30日にサラード川の戦いで決定的な敗北を喫した。ナスル朝はこの戦いの余波でアルカラ・デ・ベンサイデを含むいくつかの城塞や都市をカスティーリャに奪われた。1342年にはアルフォンソ11世が戦略的に重要な港湾都市であるアルヘシラスを包囲した。ユースフ1世はカスティーリャ領内に陽動攻撃を加えながら部隊をアルヘシラスへ向かわせ、包囲軍と交戦したものの、アルヘシラスは1344年3月に10年間の和平と引き換えに降伏を余儀なくされた。
1349年にアルフォンソ11世は条約を破って再び侵攻し、マリーン朝が統治していたジブラルタルを包囲した。ユースフ1世は援軍を送れなかったマリーン朝に代わりカスティーリャへの反撃を指揮したが、1350年3月にアルフォンソ11世が黒死病で死去したことで包囲は解除された。ユースフ1世はアルフォンソ11世に敬意を表し、王の遺体とともにナスル朝の領内から退却するカスティーリャ軍に攻撃を加えないように命じた。包囲戦後にはアルフォンソ11世の息子で後継者のペドロ1世と条約を結び、条約に従ってカスティーリャ王に対する国内の反乱の鎮圧のために軍隊を派遣した。その後、マリーン朝のスルターンのアブー・イナーン・ファーリスと対立したスルターンの兄弟を受け入れたことでマリーン朝との関係が悪化した。そしてイード・アル=フィトルにあたる1354年10月19日にグラナダの大モスクで祈りを捧げている中、一人の狂人の手によって暗殺された。
ユースフ1世の治世中に被った領土の喪失とは対照的に、ナスル朝は建築や文化面において繁栄期を迎えた。グラナダの市内には高等教育機関であるマドラサ・ユースフィーヤが設立され、アルハンブラ宮殿ではコマレス宮の増築を含む多くの建造物が建てられた。また、ハージブ(侍従)のアブー・ヌアイム・リドワーンをはじめ、ワズィール(宰相)を務めたイブン・アル=ジャイヤーブやイブン・アル=ハティーブなどの著名な文化人が政権を支えた。現代の多くの歴史家は、ユースフ1世とその息子で後継者のムハンマド5世の治世をナスル朝の全盛期であったとみなしている。
出自と初期の経歴
[編集]ユースフ1世として知られるアブル=ハッジャージュ・ユースフ・ブン・イスマーイールは、1318年6月29日(ヒジュラ暦718年ラビー・アッ=サーニー月28日)にナスル朝がグラナダに築いた要塞と王宮の複合施設であるアルハンブラ宮殿で生まれた。スルターンのイスマーイール1世(在位:1314年 - 1325年)の三男であり、イスマーイール1世の死後に後継者となったムハンマド4世(在位:1325年 - 1333年)の弟にあたる[2]。イスマーイール1世には4人の息子と2人の娘がいたが、ユースフは母親のバハールが生んだ唯一の子供であった。バハールはキリスト教国出身のウンム・ワラド(女奴隷の内妻)であり、後にユースフ1世の下でワズィール(宰相)を務めた歴史家のイブン・アル=ハティーブは、「善行を積み、貞潔で平静を保つ高潔な性格の人物」と評している[2][3]。1325年にイスマーイール1世が暗殺されると10歳の息子のムハンマド4世が後継者となり、1333年8月25日に暗殺されるまでナスル朝を統治した。ムハンマド4世の暗殺はジブラルタルを包囲したカスティーリャ軍をモロッコのマリーン朝と協力して退け、グラナダへ戻る途中で起こった[4]。イブン・アル=ハティーブは、若き日のユースフを「肌が白く、生まれながらの才能があり、性格も優れていた」と記し、黒い瞳と真っすぐな黒い髪を持ち、濃いあご髭を蓄えていたと説明している。さらに、ユースフは「優雅な衣装」を好み、芸術や建築に関心を抱き、「武器の収集家」であり、「多くの機械や道具を扱う能力があった」と述べている[5]。また、即位する以前は母親の家で暮らしていた[6]。
背景
[編集]1230年代にムハンマド1世によって建国されたナスル朝はイベリア半島における最後のイスラーム国家であった[7]。外交と軍事的な戦略を組み合わせることによって、王朝は北方のキリスト教国であるカスティーリャ王国と海を隔てたモロッコのイスラーム王朝であるマリーン朝という二つの大きな隣国に挟まれていたにもかかわらず、独立を維持し続けることに成功した。ナスル朝はいずれかの勢力に支配されることを避けるために、両者と断続的に同盟関係を結ぶか、時には武力に訴え、さもなければ両者が互いに戦うように仕向けていた[8]。ナスル朝のスルターンはしばしばカスティーリャ王に忠誠を誓い、カスティーリャとって重要な収入源となっていた貢納金を支払った[9]。カスティーリャの視点ではナスル朝の君主は国王の臣下であったが、その一方でイスラーム教徒は史料の中で決してそのような関係にあるとは説明しなかった。実際にはムハンマド1世は時と場合に応じて他の異なるイスラーム教徒の君主に対しても忠誠を宣言していた[10]。
ユースフ1世の前任者であるムハンマド4世は、内戦においてスルターンの僭称者を支持し、ナスル朝で強い影響力を振るっていた軍司令官のウスマーン・ブン・アビー・アル=ウラーとカスティーリャの同盟へ対抗するためにマリーン朝のスルターンに支援を求めた。しかし、同盟と引き換えにロンダ、マルベーリャ、およびアルヘシラスをマリーン朝へ割譲することを余儀なくされた。その後、マリーン朝とナスル朝の連合軍はジブラルタルを占領し、カスティーリャによる奪還の試みを退けたものの、ムハンマド4世はカスティーリャ王アルフォンソ11世(在位:1312年 - 1350年)とマリーン朝のスルターンのアブル=ハサン・アリー(在位:1331年 - 1348年)との間で平和条約を結んだ翌日に暗殺された[11]。
ムハンマド4世を実際に殺害したのはザイヤーンという名の奴隷であったが、殺害を指示していたのはムハンマド4世の軍司令官であるアブー・サービト・ブン・ウスマーンとイブラーヒーム・ブン・ウスマーンである。両者は1330年に死去したウスマーン・ブン・アビー・アル=ウラーの息子たちであり、その後継者として、イベリア半島でナスル朝のために戦う北アフリカ出身者からなる軍事集団であるアル=グザート・アル=ムジャーヒディーンの司令官となっていた[4][11][12]。当時と近い時代に生きた歴史家であるイブン・ハルドゥーンによれば、兄弟の一族はかつてマリーン朝によって政敵としてナスル朝へ追放されていたためにマリーン朝を一族の敵と見なしていた。さらに、マリーン朝のイベリア半島への軍事的な関与によって、アル=グザート・アル=ムジャーヒディーンがナスル朝のために戦う有力な軍事集団として保持していた以前のような影響力を失っていた。そして敵とみなしていたマリーン朝との同盟や、同盟に伴う影響力の喪失が暗殺の原因になったと説明している[11]。一方でカスティーリャの年代記によれば、ムハンマド4世がジブラルタルの包囲戦の終結時にアルフォンソ11世に対して友好的な態度を示したことが暗殺の原因になったとしている[13]。
マリーン朝はジブラルタルの支配を手に入れ、ムハンマド4世から領土の割譲を受けたことで、アル=アンダルス(イベリア半島におけるイスラーム教徒の支配地域)でナスル朝が伝統的に保持していた土地に領土と大規模な守備隊を有するようになった。また、ジブラルタル海峡の港湾都市であるアルヘシラスとジブラルタルを支配することによって、北アフリカとイベリア半島の間で軍隊を容易に移動させることができるようになった。これらの港とその周辺海域の支配は、北アフリカの勢力によるイベリア半島への介入を阻止したいアルフォンソ11世にとっても重要な目標であった[2]。
即位
[編集]ナスル朝には君主の地位の継承に関する具体的な規則はなかったものの、なぜイスマーイール1世の次男で1歳年上のファラジュではなくユースフが後継者に選ばれたのかについては記録に残されていない[2][4][注 1]。その一方で、ユースフがどこでスルターンとして宣言されたのか、また、誰がユースフを選んだのかについては複数の記録が残されている[2]。歴史家のレオナード・パトリック・ハーヴェイとブライアン・カトロスはカスティーリャの年代記の記録を取り上げているが、その記録によれば、ムハンマド4世暗殺の現場に居合わせていたハージブ(侍従)のアブー・ヌアイム・リドワーンが首都のグラナダへ急行し、その日のうちに到着するとファーティマ・ビント・アル=アフマル(イスマーイール1世の母であり、ムハンマド4世とユースフ1世の祖母にあたる)と協議を行い、ユースフを新しいスルターンとして宣言する手筈を整えたとされている[14][15]。その一方で歴史家のフランシスコ・ビダル・カストロはアラビア語による史料を取り上げ、即位の宣言と忠誠の誓いは首都ではなくジブラルタル近郊のイスラーム教徒の野営地で行われ、ムハンマド4世の暗殺を主導したアビー・アル=ウラー家の兄弟がユースフを擁立して暗殺翌日の8月26日(ヒジュラ暦733年ズルヒッジャ月14日)にスルターンと宣言したとする別の説明を支持している[2]。
15歳で即位したユースフは当初は未成年者として扱われ、イブン・アル=ハティーブによれば、ユースフの権限は「自分の食卓から食べるものを選ぶ」ことに限られていた[16]。祖母のファーティマとハージブのリドワーンがユースフの家庭教師となり、両者は他の大臣とともに統治権の一部を行使した。また、即位の際にユースフはアル=ムアイヤド・ビッ=ラーフ(「神の救済を得る者」の意)というラカブ(尊称)を名乗った。王朝の創設者であるムハンマド1世はアル=ガーリブ・ビッ=ラーフ(「神の恩寵による勝利者」の意)というラカブを名乗っていたが、その後はユースフ1世の代に至るまで歴代のスルターンはこの慣習を採用しなかった。しかし、ユースフ1世以降のナスル朝のスルターンは、ほぼ全員がラカブを名乗った[2]。カスティーリャの年代記によれば、ユースフ1世は即位後直ちに亡き兄の協力者であったマリーン朝のスルターンのアブル=ハサン・アリーに庇護を要請した[17]。
政治および軍事面の動向
[編集]初期の平和
[編集]ジブラルタルの包囲戦後にムハンマド4世が確保した和平は、当時の原則ではその死によって効力が消滅したため、ユースフ1世の代表者がアルフォンソ11世とアブル=ハサン・アリーの代表者との会合の機会を設けた[2][18]。そして三者は1334年2月26日にマリーン朝の首都のフェズで4年間の期限を設けた新しい条約に調印した。前回の条約と同様に新しい条約では三国間の自由な貿易が認められていたが、異例なことにナスル朝からカスティーリャへの貢納金の支払いは条約の内容に含まれていなかった。マリーン朝の船舶はカスティーリャの港に出入りできるようになり、スルターンのアブル=ハサン・アリーはイベリア半島の守備隊を増強しないことに同意したが、部隊を交代させることは依然として可能であった[19]。マリーン朝がイベリア半島の守備隊を増強しないという条項は、カスティーリャだけではなく、自国より大きな国であるマリーン朝がイベリア半島へ進出してくる可能性を警戒していたナスル朝にとっても好都合なものであった[2]。さらに、アラゴン王アルフォンス4世(在位:1327年 - 1336年)が1334年5月にこの条約への加盟に同意し、1335年6月3日にはユースフ1世との間で協定を結んだ。1336年1月にアルフォンス4世が死去すると、息子のペーラ4世(在位:1336年 - 1387年)はナスル朝とアラゴンの二国間条約を5年間更新し、ナスル朝とすべての周辺諸国の間に平和な時期が訪れた[20]。
これらの条約が締結されたことで、条約に加わった国の君主たちは関心を別のところへ向けた。カスティーリャのアルフォンソ11世は反抗的な貴族たちに対する厳しい措置に乗り出し、一方でマリーン朝のアブル=ハサン・アリーは北アフリカのトレムセンを首都とするザイヤーン朝と戦争を繰り広げた[20]。これらの出来事が起きている数年間にユースフ1世はムハンマド4世暗殺の首謀者であるアビー・アル=ウラーの一族に対する行動を起こした。1340年9月(もしくは1338年)にアブー・サービト・ブン・ウスマーンはアル=グザート・アル=ムジャーヒディーンの総司令官の地位を解任され、ラッフ家のヤフヤー・ブン・ウマルが後任となった。アブー・サービトは3人の兄弟とその一族全員とともにチュニスを首都とするハフス朝へ追放された[2][21]。ハーヴェイは、「当時の報復行為の基準から考えると… これはかなり控えめな措置だった」と述べ、この措置はユースフ1世が北アフリカ出身の志願兵たちと不必要な緊張関係を作りたくなかったためであろうと推測している[21]。
カスティーリャに対するナスル朝とマリーン朝の戦争
[編集]条約が失効した後の1339年の春にマリーン朝がカスティーリャの田園地方を襲撃したことで戦争行為が再開され、その結果としてカスティーリャと二つのイスラーム教国の間で対立が始まった。ナスル朝はアルカンタラ騎士団の総長であるゴンサロ・マルティネスが率いるカスティーリャ軍による侵攻を受け、ロクビン、アルカラ・デ・ベンサイデ、およびプリエゴが襲撃された。これに対してユースフ1世は8,000人の軍勢を率いてシレスを包囲したが、サンティアゴ騎士団総長のアルフォンソ・メンデス・デ・グスマンが率いる軍勢によって包囲の解除を余儀なくされた[22][注 2]。その後、キリスト教徒側ではマルティネスとデ・グスマンの間で個人的な対立が起こり、マルティネスはユースフ1世の下へ逃亡を試みたと考えられているものの、すぐにカスティーリャ軍に捕らえられ、裏切り者として絞首刑に処された上に遺体は焼却された。その一方でマリーン朝はスルターンのアブル=ハサン・アリーの息子でイベリア半島の軍司令官であるアブー・マーリク・アブドゥルワーヒドがカスティーリャの辺境地帯を荒らし回ったが、マリーン朝の軍隊はヘレスでカスティーリャ軍に打ち破られ、アブドゥルワーヒドは1339年10月20日にカスティーリャ軍との戦いの中で死亡した[24]。同じ頃にナスル朝の軍隊はカルカブエイを征服するなど軍事的な成功を収めていた[2]。
1339年の秋にホフレ・ヒジャベルトの率いるアラゴン艦隊がアルヘシラス付近で上陸を試みたものの、艦隊は撃退され、ヒジャベルトは戦死した[25]。1340年4月8日にはアルヘシラス沖でアルフォンソ・ホフレ・テノーリオが率いるカスティーリャ艦隊と、カスティーリャ側より大規模であったムハンマド・アル=アザフィーが率いるマリーン朝とナスル朝の艦隊の間で大規模な戦闘が発生し、イスラーム教徒側が勝利するとともにテノーリオが戦死するという結果に終わった[26][27]。イスラーム教徒の艦隊は44隻のカスティーリャ艦隊のうち28隻のガレー船と7隻のキャラック船を捕獲した[26]。
アブル=ハサン・アリーはこの海戦の勝利をカスティーリャ征服の前兆とみなした[26]。そして妻たちを含むすべての廷臣と包囲攻撃用の兵器とともに軍隊を率いてジブラルタル海峡を渡った。8月4日にアルヘシラスに上陸したアブル=ハサン・アリーはユースフ1世と合流し、9月23日に海峡沿いのカスティーリャの港湾都市であるタリファを包囲した[28]。アルフォンソ11世は同盟者のポルトガル王アフォンソ4世(在位:1325年 - 1357年)が率いるポルトガル軍と合流し、タリファの救援に向かった[29]。アルフォンソ11世とアフォンソ4世は10月29日にタリファから8キロメートルの地点に到着し、ユースフ1世とアブル=ハサン・アリーは両者を迎え撃つために移動した[30]。アルフォンソ11世は8,000人の騎兵、12,000人の歩兵、そして規模が不明な都市の民兵組織を指揮し、アフォンソ4世は1,000人の軍勢を率いていた[29]。一方のイスラーム教徒側の軍勢の規模ははっきりとしていない。同時代のキリスト教徒による史料は騎兵53,000人、歩兵600,000人と誇張された数字を残しているが[31]、現代の歴史家であるアンブロシオ・ウイシ・ミランダは、ナスル朝軍が7,000人、マリーン朝軍が60,000人であったと1956年に推定している。しかし、戦いの結果を大きく左右したのは、キリスト教徒の騎士がより軽装備であったイスラーム教徒の騎兵よりもはるかに優れた鎧を装着していた点である[29]。
サラード川の戦い
[編集]翌日の1340年10月30日に起こったサラード川の戦い(タリファの戦いとも呼ばれている)ではキリスト教徒側が決定的な勝利を収めた。この戦いで黄金の兜を被っていたユースフ1世はポルトガル軍の攻撃を受けて戦場から逃亡した。ナスル朝の部隊は当初は防御に成功し、反撃してアフォンソ4世を破りかけていたが、キリスト教徒側の援軍が到着すると味方のマリーン朝の部隊を後方に残して敗走した。マリーン朝軍も午前9時から正午まで続いたカスティーリャ軍との主戦闘の末に敗走した[32]。ハーヴェイは、数的不利にもかかわらずキリスト教徒側が勝利した要因はその騎馬戦術と優れた鎧にあったと考えている。軽装備で高い機動力を有する騎兵を中心としたイスラーム教徒側の戦術は開けた場所での戦いにはよく適していたものの、比較的狭隘なサラード川の戦場では整然と戦列を組んだ鎧をまとった騎士による攻撃がキリスト教徒側に決定的な優位をもたらしていた[29]。
戦闘の後にキリスト教徒の部隊がイスラーム教徒の陣地を略奪し、アブル=ハサン・アリーの妃であるファーティマ(ハフス朝のアブー・バクル2世の娘)を含む女性や子供たちを殺戮したが、ファーティマの身代金を得ることを望んでいた指揮官たちはこの行為に落胆した[32]。また、アブル=ハサン・アリーの息子であるアブー・ウマル・ターシュフィーンを含む多くの王族や貴族が捕えられた[33]。殺害された者の中にはナスル朝の知識人や公職者も多く含まれていた[2]。ユースフ1世はマルベーリャを経由して首都のグラナダへ撤退した。一方のアブル=ハサン・アリーはジブラルタルへ向かい、不在時の反乱を防ぐために本国へ勝利の知らせを送るとともに同じ日の夜に海峡を渡ってセウタに逃れた[33]。
何人かのイスラーム教徒の作家がマリーン朝のスルターンに敗戦の責任を負わせた。ザイヤーン朝のウマル2世は、「イスラーム世界の長を辱め、偶像崇拝者を歓喜させた」と語り[32]、トレムセン出身の歴史家であるマッカリーは、軍隊が「風の前の塵のように」追い散らされるがままであったと批評した[33]。一方でユースフ1世が非難に晒されることはなかったとみられ、ナスル朝では引き続き評判を保った[21]。アルフォンソ11世は勝利を得てセビーリャへ引き返し、イスラーム教徒の捕虜と自軍が奪った戦利品を誇示しながら凱旋した[34]。大量の金と銀を獲得したため、遠く離れたパリやアヴィニョンでもこれらの相場が6分の1に下落したといわれている[35]。
サラード川の戦い以降
[編集]マリーン朝の軍隊の大部分が北アフリカへ撤退したため、アルフォンソ11世はナスル朝に対して自由に行動を起こせるようになった[12]。そして1341年4月にマラガへの攻撃を装ってナスル朝へ侵攻した。ユースフ1世が他の地域から多くの兵力を集めて西方の港湾都市であるマラガの軍事力を増強すると、アルフォンソ11世はマラガを救援するために守備隊を削減していたグラナダから北へ50キロメートルに位置する国境の重要な要塞都市であるアルカラ・デ・ベンサイデに兵力を振り向けた[36]。カスティーリャ軍は都市への包囲を開始するとともに周辺の農村地帯を荒らし周り、食糧を奪うだけに止まらず(攻撃側には何も利益をもたらさない)ブドウの木の破壊行為に及び、地域の農業に長期的な被害を与えた[37]。
これに対してユースフ1世はグラナダ周辺の豊かな平野部へのカスティーリャ軍によるさらなる襲撃を阻止するために、ピノス・プエンテに位置する強固な防御力を持つ拠点に移動した。アルフォンソ11世はユースフ1世を拠点から誘き出すためにより多くの地域へ襲撃を拡大したが、カスティーリャ軍がロクビンとイリョラ周辺の地域への破壊に向っている最中もナスル朝軍は拠点に留まり続けた[37]。アルカラへの包囲が進んでいる間にユースフ1世はアルヘシラスからマリーン朝の援軍を受け入れるようになり、その後モクリンから10キロメートルの場所まで移動した。カスティーリャ軍とナスル朝軍はどちらも正面攻撃の危険を冒さず、アルフォンソ11世はユースフ1世を挑発して待ち伏せしようとしたが失敗に終わった[38]。結局、アルカラのイスラーム教徒の守備隊は救援の見込みが立たないために安全な通行の保証と引き換えに要塞の明け渡しを申し出、アルフォンソ11世はこれを受け入れて1341年8月20日に要塞は降伏した。その後、ユースフ1世は停戦を申し入れたが、アルフォンソ11世はマリーン朝との同盟の解消を要求し、これに対してユースフ1世が要求を拒否したために戦争は続いた[2][39]。
アルカラへの包囲と並行してアルフォンソ11世の軍隊は近郊のロクビンも占領した。また、アルカラ陥落後の数週間でカスティーリャ軍はプリエゴ、カルカブエイ、マトレラ、およびベナメヒを攻略した[36]。1342年5月にはジブラルタル海峡を航行していたマリーン朝とナスル朝の艦隊がカスティーリャとジェノヴァの艦隊による迎撃を受けて敗北し、12隻のガレー船が破壊され、その他の船もナスル朝の沿岸地帯へ散っていった[40]。
アルヘシラスの包囲
[編集]その後、アルフォンソ11世は父親のフェルナンド4世(在位:1295年 - 1312年)が1309年から1310年にかけて包囲したものの攻略に失敗したジブラルタル海峡の重要な港湾都市であるアルヘシラスに狙いを定めた。1342年8月上旬に都市に到着したアルフォンソ11世は徐々に陸と海から封鎖を進めていった[41]。これに対してユースフ1世の軍隊はロンダのマリーン朝の軍隊とともに出征して包囲軍を後方から脅かし、注意を逸らそうと試みた。そして1342年11月から1343年2月にかけてエシハ周辺の土地を襲撃するとともにパルマ・デル・リオに侵入して略奪を行い、さらにはベナメヒを奪還してエステパを占領した[2][42]。同年6月にユースフ1世はハージブのリドワーンをアルフォンソ11世のもとへ派遣し、包囲の解除と引き換えに金銭の支払いを申し出た。アルフォンソ11世はこの提案に対し要求額を増額することで対抗した[2][43]。ユースフ1世はアブル=ハサン・アリーと協議するために北アフリカへ渡り、資金を調達したものの、マリーン朝のスルターンから提供された資金は十分なものではなかった。さらにアルフォンソ11世から通行の安全保障を得ていたにもかかわらず、ユースフ1世のガレー船が金塊を盗もうと試みたアルフォンソ11世に仕えるジェノヴァの船に襲われた。ユースフ1世の船は襲撃を撃退し、アルフォンソ11世は謝罪したものの、ジェノヴァの船の船長に対しては何の措置もとらなかった[44][45]。
包囲を受けたアルヘシラスのイスラーム教徒の守備隊は大砲を使用していたが、これはヨーロッパの主要な戦いの中でこの武器が使用された最も早い時期の記録の一つであり、1346年に起こったクレシーの戦いでも使用されていたことでよく知られている[12][46][47]。アルフォンソ11世の軍隊には当時戦争中であったフランスとイングランドを含むヨーロッパの全土から十字軍の部隊が加わっていた。ヨーロッパの王や貴族の中ではナバラ王フェリペ3世、フォワ伯ガストン2世、ソールズベリー伯ウィリアム・モンタキュート、ダービー伯ヘンリー・オブ・グロスモントなどが参加していた[48]。
ユースフ1世は1343年12月12日にパルモネス川を渡り、カスティーリャ軍の分遣隊と交戦した。カスティーリャの史料はイスラーム教徒側がこの交戦で敗北したと記録している。1344年の初頭にアルフォンソ11世は木を鎖でつないだ海上に浮遊する障害物を作り、アルヘシラスに向かう物資を遮断した。勝利への期待が薄れ、都市が飢餓に瀕していたためにユースフ1世は再び交渉を開始した[45][49]。カスティーリャの年代記によれば、ユースフ1世はハサン・アルガラファという名の使者を派遣し、住民が持ち運び可能な資産を持って都市から去ることを認めるならばアルヘシラスを降伏させ、降伏と引き換えにナスル朝、カスティーリャ、およびマリーン朝の間で15年間の和平を結ぶことを提案した。アルフォンソ11世は降伏を受け入れるよりもアルヘシラスを襲撃して住民を皆殺しにすることで都市を手に入れるように助言されたものの、敵対する軍隊が近くにいる状況では襲撃の成果が不確実であることを認識していた。結局、アルフォンソ11世はアルガラファの提案に同意したが、停戦期間を10年に縮めることを要求し、ユースフ1世はこれを受け入れた。この条約にはユースフ1世とアルフォンソ11世の他にアブル=ハサン・アリー、ペーラ4世、およびジェノヴァのドージェが参加した。ユースフ1世とアルフォンソ11世は1344年3月25日にアルヘシラス郊外のカスティーリャの陣営で条約に署名した[50][51]。
ジブラルタルの包囲と関連動向
[編集]北アフリカのマリーン朝では1348年にアブル=ハサン・アリーの息子のアブー・イナーン・ファーリス(在位:1348年 - 1358年)が反乱を起こしてフェズを占領し、イベリア半島のマリーン朝の支配地がアブー・イナーンの支配下に入った。そしてアルフォンソ11世がこれを口実に平和条約の存在はもはやイスラーム教徒の支配地からの攻撃を阻止し得ないと宣言したことで1349年にナスル朝で再び戦争が勃発した。1349年6月もしくは7月にアルフォンソ11世の軍隊がジブラルタルへの包囲を開始した。ジブラルタルは1309年にフェルナンド4世によってカスティーリャに占領された後、1333年にマリーン朝が奪還していた。包囲戦に先立ち、ユースフ1世はジブラルタルの守備隊を強化するために弓兵と歩兵を派遣した。7月にはアルフォンソ11世も自ら包囲軍の陣中に加わり、同じ月にムルシア王国[注 3]に対してナスル朝を攻撃するように命じた[53]。アラゴン王のペーラ4世はユースフ1世の抗議にもかかわらず包囲を支援するためにアラゴンの艦隊を派遣したものの、その一方でユースフ1世との平和条約を尊重してナスル朝のすべての臣民に対して危害を加えないように部下へ指示していた[54]。マリーン朝が救援を送れなかったためにカスティーリャとの戦いにおける主役はユースフ1世が担うことになり、ユースフ1世は軍隊を率いて一連の反撃に出た。1349年の夏にはアルカラスとケサーダの郊外を襲撃し、エシハを包囲した。同年の冬にはリドワーンを派遣してカニェテ・ラ・レアルを包囲し、2日後に降伏させた[2]。
包囲戦が進む中で1348年にイベリア半島の港へ上陸していた黒死病が包囲軍の陣地を襲った。アルフォンソ11世は参謀たちの忠告にもかかわらず包囲に固執した。その結果アルフォンソ11世自身も感染し、1350年の聖金曜日(3月26日)もしくはその前日に死去した。都市の守備隊の一部が見守る中、カスティーリャ軍はジブラルタルから撤退した[55]。ユースフ1世は敬意を表して国王の遺体とともにセビーリャへ向かうカスティーリャ軍の縦隊に対して攻撃を加えないように国境地域の軍と司令官に命じた[56]。アルフォンソ11世の後を継いだのは15歳の息子のペドロ1世(在位:1350年 - 1366年)であった。ユースフ1世、ペドロ1世、そしてマリーン朝のアブー・イナーンは1350年7月17日に1357年1月1日まで有効となる条約を締結した。ナスル朝とカスティーリャの間で交易が再開され(ただし馬、武器類、小麦を除く)、捕虜も交換された。ユースフ1世は和平と引き換えにペドロ1世に貢納金を支払い、要求があれば300騎の軽騎兵を派遣することに同意したが、公的にペドロ1世の臣下となったわけではなかった。また、内心ではペドロ1世を嫌っていたものの、条約上の義務は遵守した。ユースフ1世は — 歴史家のジョゼフ・オキャラハンによれば不本意ながらも — アギラールにおけるアルフォンソ・フェルナンデス・コロネルの反乱の鎮圧を支援するために300騎のヒネーテ(スペイン語で騎兵を意味する)を派遣し、アルヘシラスからペドロ1世に対して反乱を起こそうとした王の異母兄のエンリケを支援することも拒否した[57]。
ユースフ1世とマリーン朝の諸王子
[編集]アブル=ハサン・アリーは1351年に死去するまでマリーン朝の君主の地位を取り戻そうと試みたものの失敗に終わった。アブー・イナーンの兄弟で競合者であったアブル=ファドルとアブー・サーリムはナスル朝へ逃亡した。ユースフ1世は両者の引き渡しを求めるマリーン朝のスルターンからの圧力を撥ね付けた[58]。他の多くのナスル朝のスルターンたちと同様に、ユースフ1世は宮廷にマリーン朝の君主を主張する者たちを抱えておくことでマリーン朝と対立した際に影響力を持つことができると考えていた[5]。ユースフ1世の激励を受けたアブル=ファドルはペドロ1世に支援を求めるためにカスティーリャへ向かった。北アフリカで再び内戦を引き起こそうとしたペドロ1世は、アブー・イナーンを攻撃するためにアブル=ファドルをスース地方に上陸させる船を提供した[58][59]。マリーン朝のスルターンはユースフ1世の態度に激しく憤ったが、アブル=ファドルがカスティーリャの支援を受けていることを知り、行動を起こすことをためらった[60]。その後アブル=ファドルはアブー・イナーンに捕らえられ、1354年か1355年に処刑された[58][61]。最終的にアブー・サーリムがスルターンになったものの、即位したのはユースフ1世の死後からかなり経った1359年のことである[62]。
建築事業
[編集]ユースフ1世は1348年にアルハンブラ宮殿への壮麗な入口を形作っているバーブ・アッ=シャリーア(裁きの門)を建設し、宮殿のアルカサバ(城塞)にはケブラーダの塔、城壁の上には捕虜の塔を建設した。宮殿内におけるナスル朝最大の建築物であるコマレス宮ではハンマーム(浴場)を改修し、大使の間の名でも知られるコマレスの間などを建築した。また、壁の碑文にユースフ1世の名前が繰り返し表れることから、コマレス宮の拡大に合わせてさまざまな新しい城壁や塔を建設し、アルハンブラ宮殿の多くの中庭や広間に装飾を施したと考えられている[63]。さらにパルタル宮の小さな祈りの間(オラトリオ)や、今日では七層の塔と呼ばれる建物を建築した[2]。
1349年にはグラナダの大モスク(現在のグラナダ大聖堂)の近くに宗教学校であるマドラサ・ユースフィーヤを設立し、中世のボローニャ大学、パリ大学、およびオックスフォード大学に匹敵する高等教育を提供したが、今日ではその祈祷室のみが残されている[2][63]。また、グラナダ市内にナスル朝時代のキャラバンサライとして唯一残る、今日ではコラール・デル・カルボン(石炭の中庭)の名で知られるアル=フンドゥク・アル=ジャディーダ(新たなフンドゥク)を建設した[64]。グラナダから離れた場所では、父方の祖父でマラガのかつての総督であるアブー・サイード・ファラジュが先祖代々居所としていたマラガのアルカサバやマラガのヒブラルファロ地区を拡張した[63]。
ユースフ1世は特にサラード川での敗戦以降の時期に領内の全域にわたって新たな塔や城門、外堡などを含む防衛施設を建設した。また、既存の城や城壁、さらには沿岸地帯の防備も強化した。ハージブのリドワーンはナスル朝の南部海岸の全域に40に及ぶ監視塔(タリーア)を建設した[65]。ユースフ1世は同様にグラナダの城壁を強化し、バーブ・イルビラ(今日のエルビラ門)とバーブ・アッ=ラムラ(耳の門)も強化した[2][63]。
政策
[編集]歴史家のアントニオ・フェルナンデス・プエルタスによれば、ユースフ1世の政権は「主要な文化人たちの集い」を含む多くの大臣たちによって支えられていた。その中の一人であるアブー・ヌアイム・リドワーンは、ナスル朝の統治下ではムハンマド4世によって初めて創設され、ワズィール(宰相)や他の大臣よりも高い地位にあったハージブ(侍従)を務めた。ハージブはスルターンの不在時には軍の指揮を執っていた。リドワーンはサラード川での敗戦後に解任された上に投獄され、1年後に解放されたものの、再びワズィールとして任命するというユースフ1世からの申し出を拒否した[66]。続いてハージブとなったアブル=ハサン・ブン・アル=マウルは名家の出身であったが政治的な事案を扱う能力に欠けていた[67][68]。アル=マウルは数ヶ月後に解任され、敵対者による陰謀を避けるために北アフリカへ逃れた[67]。その後、ユースフ1世の後継者であるムハンマド5世(在位:1354年 - 1359年、1362年 - 1391年)の下でリドワーンが復帰するまでハージブは空席となったが、1359年にリドワーンが暗殺されると、ユースフ3世(在位:1408年 - 1417年)によってアブル=スッルール・ムファッリジュが任命されるまでハージブは再び空席となった[69][66]。
1341年に著名な詩人であるイブン・アル=ジャイヤーブが最高位の大臣としてワズィールに任命され、サラード川の戦い以降におけるユースフ1世の慎重な政策の立案者となった[56]。また、王室書記官でもあったため、ズル=ウィザーラタイン(二つの宰相位の保持者)と呼ばれた[56][70]。1348年にはナスル朝の一帯を黒死病が襲い、三大都市(グラナダ、マラガ、アルメリア)で大流行したことが記録されている。1349年に死去したイブン・アル=ジャイヤーブをはじめとする多くの学者や公職者が黒死病の犠牲となった[2][71]。ワズィールと王室書記官の地位はイブン・アル=ジャイヤーブの後見を受けていたイブン・アル=ハティーブがイブン・アル=ジャイヤーブの希望によって後継者となった[67][68]。イブン・アル=ハティーブは、イブン・アル=ジャイヤーブの下でナスル朝に仕え、サラード川の戦いで死亡した父親に代わって1340年に宮廷の書記官(ディーワーン・アル=インシャー)となっていた[71]。そしてワズィールとなって以降は財務長官などの地位も歴任した[56]。ブライアン・カトロスによれば、「14世紀のアル=アンダルスにおける傑出した作家であり知識人」であったイブン・アル=ハティーブは[72]、その生涯を通して歴史、詩、医学、風俗、神秘主義思想、哲学などのさまざまな分野で著作を残した[73]。また、公文書や宮廷文書を入手できる立場にあったことから、イブン・アル=ハティーブの著作はナスル朝に関する重要な歴史的資料の一部となっている[56][74]。
ユースフ1世は毎週月曜日と木曜日の週2回、臣下から懸案事項を聞くために大臣や王家の人々の助けを得ながら公の場で臣下たちを接見した。同時代の歴史家であるイブン・ファドラッラーフ・アル=ウマリーによれば、これらの聴聞会ではクルアーンの10分の1とハディースの一部の朗読も行われていた。また、公式の国家行事が行われる際には木製の折り畳み式の肘掛け椅子に座ってこれらの宮廷活動を取り仕切った。この椅子は今日ではアルハンブラ宮殿の博物館に保管されており、椅子の背もたれにはナスル朝の紋章が刻まれている[75]。1347年4月から5月にかけて、ユースフ1世は領土の一部の防衛施設の視察を主な目的として東部地域を巡行した。廷臣たちを伴って22日間で20か所を訪問したが、その中にはアルメリアの港も含まれており、そこでは民衆から歓迎を受けた[2]。イブン・アル=ハティーブは他にもユースフ1世の人気を物語る逸話として、プルチェナで広く尊敬を集めていた判事による歓迎、1354年の(庶民の女性を含む)グアディクスの民衆からの歓迎、さらには同年の一部のキリスト教徒の商人たちによる歓迎といった出来事を伝えている[76][注 4]。ビダル・カストロによれば、ユースフ1世の名を冠した金貨は特に美しいデザインをしており、今日までその多くが残されている(本稿の冒頭にその一例を掲載)[2]。
外交面ではユースフ1世はナスル朝の歴史上初めてカイロのマムルーク朝に使節を派遣した。今日まで残されているマムルーク朝のスルターンのアッ=サーリフ・サーリフによる手紙の写しによれば、ユースフ1世はキリスト教徒と戦うための軍事的支援を求めていた。アッ=サーリフはユースフ1世の勝利を祈ったが、自国内における紛争のために軍隊が必要であるとして軍隊の派遣は断った[78]。ユースフ1世が北アフリカの支配者、特にマリーン朝のスルターンと交わした多くの外交上の遣り取りは、イブン・アル=ハティーブが編纂した『ライハーナト・アル=クッターブ』の中に記録されている[79]。
司法面ではムハンマド4世が任命したカーディー・アル=ジャマー(カーディーの長官)であるアブー・アブドゥッラー・ムハンマド・アル=アシュアリー・アル=マラキーがサラード川の戦いで死亡するまでユースフ1世に仕えた[80]。アル=マラキーは確固とした意見を持つ人物であったことで知られ、ユースフ1世に詩を書いて税収を浪費する役人を警告したり、スルターンにイスラーム教徒の指導者としての臣民に対する責任を思い起こさせたりした[81]。アル=マラキーの死後、ユースフ1世は順にムハンマド・ブン・アイヤーシュ、イブン・ブルタール、アブル=カースィム・ムハンマド・アッ=サブティーの3人をカーディー・アル=ジャマーに任命した[80]。最後のアッ=サブティーは1347年に辞任し、ユースフ1世は後任として各地で裁判官を務めた経験を持ち、文学を愛好していたことで知られるアブル=バラカート・ブン・アル=ハッジ・アル=バラーフィーキーを任命した[82]。また、ムフティーと呼ばれる著名な法学者たちの役割を強化した。ムフティーはイスラーム法の難解な論点を解釈し、しばしば裁判官を手助けするための法的見解(ファトワー)を発行していた[83]。マーリク学派のイスラーム法を教えるマドラサ・ユースフィーヤが設立されたのもムフティーの影響力を高めることが目的の一つであった[83]。ユースフ1世は法による支配を強調し、著名な人物を裁判官に任命することによって臣民や他のイスラーム諸国の君主の間における評判を高めた[76]。その一方でユースフ1世は神秘主義的な傾向があり、宮廷のイスラーム法学者(ファキーフ)たちの反感を買っていた。また、著名な哲学者であるガザーリー(1111年没)を評価していたが、ガザーリーのスーフィズムの信条は主流の学者たちからは嫌われていた[2]。
家族
[編集]イブン・アル=ハティーブによれば、ユースフ1世は即位後に内妻を持つことを考え始めていた[6]。ユースフ1世には2人の内妻がいたが、2人ともキリスト教国の出身であり、それぞれブサイナとマルヤム(またはビ=リム)の名前が与えられた[注 5]。ユースフ1世がブサイナを迎え入れたのはイブン・アル=ジャイヤーブが2人の婚礼について書いた詩の日付であるヒジュラ暦737年(西暦1337年頃)のことだと考えられている。婚礼は雨の日に執り行われ、これを記念して競馬が行われた[84]。1339年にブサイナはユースフ1世の長男のムハンマド(後のムハンマド5世)を生み、続いてアーイシャと名付けられた娘を産んだ。マルヤム(ビ=リム)は7人の子供を産み、息子は長男のムハンマドの9か月後に生まれたイスマーイール(後のイスマーイール2世、在位:1359年 - 1360年)とカイスの2人、娘はファーティマ、ムウミナ、ハディージャ、シャムス、およびザイナブの5人を産んだ。長女(5人のうちの誰かは不明)は再従兄弟にあたる後のムハンマド6世(在位:1360年 - 1362年)と結婚した。マルヤム(ビ=リム)の影響力はブサイナよりも大きかったと言われており、ユースフ1世は他の子供たちよりも次男のイスマーイールを寵愛した[65]。ユースフ1世にはもう一人アフマドという名前の息子がいたが、母親は不明である[85]。また、同様に王家の親族の娘である妻がいたが、ヒジュラ暦738年(西暦1338年頃)に婚礼が行われた以外、史料上にこの妻に関する言及はなく、歴史家のバルバラ・ボロイクス・ガジャルドは、この妻が早くに死去したのではないかと推測している[86]。当初ユースフ1世はイスマーイールを後継者に指名していたものの、自分の死の数日前により判断力に優れていると考えたムハンマドへ後継者を変更した。ユースフ1世が死去した時点でムハンマドとイスマーイールはともに15歳前後であった[87][88]。
子供たちの教育はハージブのアブー・ヌアイム・リドワーンに委ねられていた[65]。リドワーンはかつてはキリスト教徒であり、若いイスマーイールにいくらかのギリシア語を教えることができた[89]。ユースフ1世の祖母のファーティマはナスル朝の宮廷で複数の世代にわたって強い影響力を保持していたが、1349年に(太陰暦の)90歳で死去し、イブン・アル=ハティーブから哀悼の詩を捧げられた[90]。ユースフ1世の母親であるバハールの活動も記録に残されている。1350年に北アフリカの旅行家のイブン・バットゥータがグラナダを訪れ、王族に謁見を求めたものの、ユースフ1世は病気を患っており、代わりにバハールがイブン・バットゥータに十分な滞在費を提供した[91]。しかし、バハールが実際にイブン・バットゥータに会ったかどうか、また、イブン・バットゥータがアルハンブラ宮殿の内部に迎え入れられたかどうかは不明である[92]。ユースフ1世の内妻であるマルヤム(ビ=リム)はユースフ1世の死後に重要な役割を演じた。1359年には100人が関与したクーデターに資金を提供し、自分の息子のイスマーイールを支持して継子のムハンマド5世を退位させた[93]。
ユースフ1世には先代のムハンマド4世の他にもう一人の異母兄であるファラジュがいたが、ファラジュはユースフ1世の即位後に海外へ移住した。その後ナスル朝へ戻ったものの、恐らく政治的な理由によってヒジュラ暦751年(西暦1350年/1351年)にアルメリアにおいてユースフ1世の命令で投獄され、その後殺害された。同様にユースフ1世は異母弟のイスマーイールも投獄したが、イスマーイールは後にムハンマド5世によって解放され、北アフリカに移住した[注 6]。さらにユースフ1世にはファーティマとマルヤムという名の二人の異母姉妹がおり、ユースフ1世は二人の結婚を取り持った。両者のうちの一人は王家の親族であるアブル=ハサン・アリー(マリーン朝のスルターンとは別人)と結婚した[2]。
暗殺
[編集]ユースフ1世は1354年10月19日(ヒジュラ暦755年シャウワール月1日、イード・アル=フィトル)にグラナダの大モスクで祈りを捧げている最中に暗殺された。イードの祈りの儀式で最後に平伏している間に一人の男が短剣でユースフ1世を突き刺した。イブン・アル=ハティーブは当時宮廷の高官であったことを考慮すると恐らくスルターンから数メートル離れた場所で祈りを捧げていたと考えられ、自身の著作の中でその時の出来事を詳細に記している[94]。襲撃者は信徒の集団の中から離れてスルターンの方へ向かっていった。犯人の動きは本人の状況と身分から誰にも気づかれなかったか警戒されず、スルターンのところにたどり着くと飛びかかってスルターンを刺した。その後、厳粛な祈りの儀式は中断され、ユースフ1世はアルハンブラ宮殿の王家の居室に運び込まれたものの、そこで息を引き取った。暗殺者は尋問に掛けられたが、その受け答えは理解不能なものだった。そしてその後すぐに暴徒によって殺害された[95]。暗殺者の遺体は焼かれたか(イブン・アル=ハティーブの見解では、この説明は犯人が地獄の業火の中で焼かれたはずだという想像を指している可能性がある)、イブン・ハルドゥーンによれば「千個に細切れ」にされた[65][96]。
イブン・アル=ハティーブの説明では、殺人は動機のない狂人(mamrur)の行為とされており[97]、フェルナンデス・プエルタスとハーヴェイにも主要な説明として取り上げられているが、ハーヴェイは動機の記録が欠けていることで「疑惑に満ちている」と付け加えている[65][96]。イブン・ハルドゥーンともう一人の当時と近い時代に生きたアラブ人の歴史家であるイブン・ハジャル・アル=アスカラーニーは、襲撃者が身分も知能も低い狂人であったとしている点で説明が一致している。しかし、その一方でイブン・ハルドゥーンは、犯人は王室の厩舎にいた奴隷であり、一部の人々はムハンマド4世と黒人女性の間に生まれた庶子ではないかと疑っていたと書き加えている。この説明を受け、ビダル・カストロは第三者が扇動した政治的動機による襲撃であるという別の解釈を提示している[98]。ビダル・カストロは、本人の精神状態を考慮すれば襲撃者が自ら政治的な陰謀を企ていたとは考えにくく、ユースフ1世には後継者として自分の息子がいたことから、扇動者が狂った庶子を即位させることを目的としていたとも考えにくいとしている。そしてそのような可能性よりも、襲撃者の特異な状態を利用して造作なくユースフ1世を殺害し、その支配を終わらせることが目的であったと考察している[99]。ユースフ1世の甥とされる襲撃者はスルターンに近づきやすい立場であった可能性があり、その精神状態から実際の目的を知ることなくほとんど自殺同然の襲撃を実行するように容易に操ることも可能であった。さらにはこの襲撃を単なる狂人の行動として片付けることもできた[99]。ビダル・カストロは、ユースフ1世を殺害した真犯人は正体や具体的な動機が不明な宮廷内の一派か、ユースフ1世との関係がその治世の末期に悪化していたマリーン朝のスルターンのアブー・イナーンの工作員だったのではないかと推測している[100]。
遺産
[編集]ユースフ1世の死後にスルターンの地位は長男のムハンマド5世に継承された[63]。ユースフ1世は曾祖父のムハンマド2世と父親のイスマーイール1世に並んでアルハンブラ宮殿の王室墓地(ラウダ)に埋葬された。およそ140年後のグラナダの降伏に伴い、最後のスルターンとなったムハンマド11世(ボアブディルの名でも知られる)が王室墓地の遺体を掘り返し、アルプハラスの自身の領地の一部であるモンドゥハルに改葬した[101]。フェルナンデス・プエルタスは、領内の建築活動や文化活動の成果、さらには医学研究の隆盛といった出来事から、ユースフ1世とその後継者であるムハンマド5世の治世をナスル朝の「絶頂期」であったと評している[102][注 7]。同じように歴史家のブライアン・カトロスは、この二人のスルターンの治世をナスル朝の「最も偉大な栄光の時代」と表現し[90]、ラシェル・アリエも同じ時代を「最盛期」であったと記している[103]。ハーヴェイはユースフ1世の文化的な業績を「相当に」「充実した」ものであるとし、ナスル朝の「黄金時代」の始まりを告げるものであったと述べている。さらに、ユースフ1世の下でナスル朝は「アルフォンソ11世による攻撃の猛威」に耐え、最後にはマリーン朝への依存度を下げたとしている。しかし、一方でハーヴェイは、グラナダ陥落以前のナスル朝の時代における「イスラームの大義が被った唯一にして最大の挫折」となったサラード川での敗北に加え、戦略的に重要であったアルヘシラスとアルカラ・デ・ベンサイデの喪失を招いたことを指摘している[104]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 歴史家のフランシスコ・ビダル・カストロは、ユースフが選ばれた理由について、わずかに年上とはいえ当時16歳か17歳に達していたファラジュが直接権力を行使できる立場にあったのに対し、ユースフは未成年者として後見が必要な立場であったことから、廷臣たちがスルターンの権力を統制したかったためではないかと推測している[2]。
- ^ アルカンタラ騎士団、サンティアゴ騎士団、そして本稿では触れていないがカラトラバ騎士団は、イベリア半島のイスラーム教徒と戦うために12世紀に設立されたキリスト教徒の騎士修道会である。それぞれの騎士団は総長が指揮を執り、国境地帯の城を支配するとともに当時のカスティーリャ軍の重要な構成要素となっていた[23]。
- ^ ムルシア王国はかつてはターイファの一国(ムルシアのターイファ)であり、アルフォンソ11世の領土であるカスティーリャ連合王国を構成する王国の一つであった[52]。
- ^ この逸話においてイブン・アル=ハティーブが言及した商人の出身地は不明であるものの、ナスル朝の主要都市には少なくとも1320年代以来カタルーニャ商人によって外国貿易の出先機関が設けられていた[77]。
- ^ ユースフ1世の二人目の内妻は Fernández-Puertas 1997, p. 13 と Vidal Castro: Yusuf I はマルヤムとしているものの、Boloix Gallardo 2013, p. 74 はアラビア文字ではビ=リム(بريم)がマルヤム(مريم)と非常によく似て見えることからマルヤムを誤読であると主張している。
- ^ フランシスコ・ビダル・カストロは、兄弟を投獄した理由について、自身の即位の経緯から自らの正当性を確保する必要が生じたからであろうと推測している[2]。
- ^ ユースフ1世の治世における著名な医学者には、毒物と解毒薬の専門家でイブン・アル=ハティーブから「アル=アンダルス最後の偉大な魔術師にして賢者」と呼ばれたアル=ハサン・ブン・ムハンマド・アル=カイスィー、宮廷医師のムハンマド・アル=シャクリー、そしてアル=シャクリーやイブン・アル=ハティーブの師であったヤフヤー・ブン・フザイル・アル=トゥジービーがいた[102]。
出典
[編集]- ^ Latham & Fernández-Puertas 1993, p. 1020.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z Vidal Castro: Yusuf I.
- ^ Boloix Gallardo 2013, p. 72.
- ^ a b c Fernández-Puertas 1997, p. 7.
- ^ a b Fernández-Puertas 1997, p. 8.
- ^ a b Boloix Gallardo 2013, p. 73.
- ^ Harvey 1992, pp. 9, 40.
- ^ Harvey 1992, pp. 160, 165.
- ^ O'Callaghan 2013, p. 456.
- ^ Harvey 1992, pp. 26–28.
- ^ a b c Vidal Castro: Muhammad IV.
- ^ a b c Latham & Fernández-Puertas 1993, p. 1023.
- ^ Harvey 1992, p. 188.
- ^ Catlos 2018, pp. 345–346.
- ^ Harvey 1992, pp. 188–189.
- ^ Fernández-Puertas 1997, pp. 8–9.
- ^ Harvey 1992, p. 191.
- ^ O'Callaghan 2011, p. 165.
- ^ O'Callaghan 2011, pp. 165–166.
- ^ a b O'Callaghan 2011, p. 166.
- ^ a b c Harvey 1992, p. 190.
- ^ O'Callaghan 2011, p. 169.
- ^ O'Callaghan 2011, p. 222.
- ^ O'Callaghan 2011, pp. 169–170.
- ^ O'Callaghan 2011, pp. 171–172.
- ^ a b c O'Callaghan 2011, p. 171.
- ^ Arié 1973, p. 267.
- ^ O'Callaghan 2011, pp. 174–175.
- ^ a b c d Harvey 1992, p. 193.
- ^ O'Callaghan 2011, p. 175.
- ^ O'Callaghan 2011, p. 177.
- ^ a b c O'Callaghan 2011, p. 182.
- ^ a b c O'Callaghan 2011, p. 183.
- ^ O'Callaghan 2011, p. 184.
- ^ Harvey 1992, p. 194.
- ^ a b O'Callaghan 2011, p. 190.
- ^ a b Harvey 1992, p. 195.
- ^ Harvey 1992, pp. 197–178.
- ^ Harvey 1992, p. 198.
- ^ Arié 1973, p. 268.
- ^ O'Callaghan 2011, p. 193.
- ^ O'Callaghan 2011, p. 197.
- ^ Harvey 1992, pp. 202–203.
- ^ O'Callaghan 2011, p. 204.
- ^ a b Harvey 1992, p. 203.
- ^ Harvey 1992, p. 199.
- ^ O'Callaghan 2011, p. 195.
- ^ O'Callaghan 2011, pp. 198–199.
- ^ O'Callaghan 2011, pp. 205–206.
- ^ O'Callaghan 2011, pp. 206–207.
- ^ Harvey 1992, pp. 203–204.
- ^ O'Callaghan 2013, pp. 428–429.
- ^ O'Callaghan 2011, pp. 213–214.
- ^ O'Callaghan 2011, p. 214.
- ^ O'Callaghan 2011, p. 216.
- ^ a b c d e Fernández-Puertas 1997, p. 10.
- ^ O'Callaghan 2014, pp. 13–14.
- ^ a b c O'Callaghan 2014, p. 14.
- ^ Arié 1973, p. 104.
- ^ Arié 1973, pp. 103–104.
- ^ Arié 1973, p. 105.
- ^ Harvey 1992, p. 209.
- ^ a b c d e Fernández-Puertas 1997, p. 14.
- ^ Latham & Fernández-Puertas 1993, p. 1028.
- ^ a b c d e Fernández-Puertas 1997, p. 13.
- ^ a b Fernández-Puertas 1997, p. 9.
- ^ a b c Fernández-Puertas 1997, pp. 9–10.
- ^ a b Arié 1973, p. 206.
- ^ Arié 1973, p. 200.
- ^ Arié 1973, p. 210.
- ^ a b Arié 1973, p. 439.
- ^ Catlos 2018, p. 350.
- ^ Bosch-Vilá 1971, p. 836.
- ^ Arié 1973, p. 179.
- ^ Fernández-Puertas 1997, p. 12.
- ^ a b Fernández-Puertas 1997, p. 11.
- ^ Arié 1973, pp. 318–319.
- ^ Arié 1973, pp. 105, 109.
- ^ Arié 1973, p. 180, also note 3.
- ^ a b Arié 1973, p. 279.
- ^ Arié 1973, p. 283.
- ^ Arié 1973, pp. 280–281.
- ^ a b Arié 1973, p. 291.
- ^ Boloix Gallardo 2013, p. 74.
- ^ Boloix Gallardo 2013, p. 76.
- ^ Boloix Gallardo 2013, pp. 76–77.
- ^ Vidal Castro: Ismail II.
- ^ Arié 1973, p. 197.
- ^ Arié 1973, p. 424.
- ^ a b Catlos 2018, p. 346.
- ^ Arié 1973, p. 196, also note 4.
- ^ Dunn 2005, pp. 285–286.
- ^ Fernández-Puertas 1997, p. 16.
- ^ Vidal Castro 2004, p. 367.
- ^ Vidal Castro 2004, pp. 366–367.
- ^ a b Harvey 1992, pp. 204–205.
- ^ Vidal Castro 2004, p. 368.
- ^ Vidal Castro 2004, pp. 368–369.
- ^ a b Vidal Castro 2004, p. 369.
- ^ Vidal Castro 2004, pp. 369–370.
- ^ Arié 1973, p. 198.
- ^ a b Fernández-Puertas 1997, pp. 11–12.
- ^ Arié 1973, p. 101.
- ^ Harvey 1992, pp. 190, 205.
参考文献
[編集]- Arié, Rachel (1973) (フランス語). L'Espagne musulmane au temps des Nasrides (1232–1492). Paris: E. de Boccard. OCLC 3207329
- Boloix Gallardo, Bárbara (2013) (スペイン語). Las sultanas de la Alhambra: las grandes desconocidas del reino nazarí de Granada (siglos XIII-XV). Granada: Patronato de la Alhambra y del Generalife. ISBN 978-84-9045-045-1
- Bosch-Vilá, Jacinto (1971) (英語). "Ibn al- K̲h̲aṭīb" (要購読契約). In Lewis, B.; Ménage, V. L.; Pellat, Ch. & Schacht, J. (eds.). The Encyclopaedia of Islam, New Edition, Volume III: H–Iram. Leiden: E. J. Brill. pp. 835–837. OCLC 495469525
- Catlos, Brian A. (2018) (英語). Kingdoms of Faith: A New History of Islamic Spain. London: C. Hurst & Co.. ISBN 978-17-8738-003-5
- Dunn, Ross E. (2005) (英語). The Adventures of Ibn Battuta: A Muslim Traveler of the Fourteenth Century. Berkeley and Los Angeles: University of California Press. ISBN 978-0-520-24385-9
- Fernández-Puertas, Antonio (April 1997). “The Three Great Sultans of al-Dawla al-Ismā'īliyya al-Naṣriyya Who Built the Fourteenth-Century Alhambra: Ismā'īl I, Yūsuf I, Muḥammad V (713–793/1314–1391)” (英語). Journal of the Royal Asiatic Society. Third Series (London: Cambridge University Press on behalf of Royal Asiatic Society of Great Britain and Ireland) 7 (1): 1–25. doi:10.1017/S1356186300008294. JSTOR 25183293.
- Harvey, L. P. (1992) (英語). Islamic Spain, 1250 to 1500. Chicago: University of Chicago Press. ISBN 978-0-226-31962-9
- Latham, J.D.; Fernández-Puertas, A. (1993) (英語). "Naṣrids" (要購読契約). In Bosworth, C. E.; van Donzel, E.; Heinrichs, W. P. & Pellat, Ch. (eds.). The Encyclopaedia of Islam, New Edition, Volume VII: Mif–Naz. Leiden: E. J. Brill. pp. 1020–1029. ISBN 978-90-04-09419-2
- O'Callaghan, Joseph F. (2011) (英語). The Gibraltar Crusade: Castile and the Battle for the Strait. Philadelphia: University of Pennsylvania Press. ISBN 978-0-8122-0463-6
- O'Callaghan, Joseph F. (2013) (英語). A History of Medieval Spain. Ithaca, New York: Cornell University Press. ISBN 978-0-8014-6872-8
- O'Callaghan, Joseph F. (2014) (英語). The Last Crusade in the West: Castile and the Conquest of Granada. Philadelphia: University of Pennsylvania Press. ISBN 978-0-8122-0935-8
- Vidal Castro, Francisco. "Ismail II". Diccionario Biográfico electrónico (スペイン語). Real Academia de la Historia.
- Vidal Castro, Francisco. "Muhammad IV". Diccionario Biográfico electrónico (スペイン語). Real Academia de la Historia.
- Vidal Castro, Francisco. "Yusuf I". Diccionario Biográfico electrónico (スペイン語). Real Academia de la Historia.
- Vidal Castro, Francisco (2004). “El asesinato político en al-Andalus: la muerte violenta del emir en la dinastía nazarí”. In María Isabel Fierro (スペイン語). De muerte violenta: política, religión y violencia en Al-Andalus. Editorial CSIC – CSIC Press. pp. 349–398. ISBN 978-84-00-08268-0
ユースフ1世
| ||
先代 ムハンマド4世 |
スルターン 1333年8月26日 - 1354年10月19日 |
次代 ムハンマド5世 |