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バーラクザイ朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アフガニスタン首長国
アフガニスタン王国
إمارة أفغانستان
د افغانستان امارت
ドゥッラーニー帝国 1826年 - 1973年 アフガニスタン王国
アフガニスタンの位置
公用語 パシュトー語
ペルシア語
首都 カーブル
ハーン(1826年 - 1835年)
アミール(1835年 - 1926年)
シャー(1926年 - 1973年)
1826年 - 1863年 ドースト・ムハンマド
1933年 - 1973年ザーヒル・シャー
首相
1929年 - 1946年ムハンマド・ハーン
1972年 - 1973年モハマッド・シャフィク
面積
1893年652,225km²
1973年647,500km²
人口
1973年11,966,400人
変遷
ハーン国成立 1826年
首長国に変更1835年
イギリスの保護国1880年
独立回復1919年8月8日
王国に変更1926年6月9日
滅亡1973年7月17日
通貨アフガンルピー英語版
アフガニ
現在アフガニスタンの旗 アフガニスタン

バーラクザイ朝(Barakzai dynasty)は、19世紀中盤から1973年までアフガニスタンに存在した王朝。首都はカーブル

中央アジアがロシアイギリスの対立(グレート・ゲーム)の舞台となる中で、両者の対立を利用しつつ3度にわたってイギリスと戦争を繰り広げ(アフガン戦争。1838年 - 1842年、1878年 - 1881年、1919年)、独立を確保して現在のアフガニスタンの国境線を画定した。外敵との戦いは「アフガン人」の国民意識の形成にも寄与した。

名称

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王朝名

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パシュトゥーン人ドゥッラーニー部族連合バーラクザイ部族 (Barakzaiが君主を出したため、バーラクザイ朝と呼ばれる(カナ転記には「バーラクザーイー朝」[1]などの揺れがある)。バーラクザイとは「バーラクの子ら」の意で、部族(氏族)の祖の名に由来する。

ドゥッラーニー部族連合が君主を出した点で、広義のドゥッラーニー朝の一部とされることもある[2]。広義のドゥッラーニー朝は、サドーザイ朝(狭義のドゥッラーニー朝)とバーラクザイ朝を合わせた呼称である。

初代アミール・ドースト・ムハンマドの名から、その家門は「ムハンマドザイ」 (Mohammadzaiと呼ばれるため、ムハンマドザイ朝[3][4][5]の名でも呼ばれる。ドースト・ムハンマドの子孫による君主の継承は1929年に途絶し、傍系(ドースト・ムハンマドの弟の子孫)ムサーヒバーン家 (Musahibanムハンマド・ナーディル・シャーが王国を中興した。1929年以降もムハンマドザイ朝とすることもあれば[3]ムサーヒバーン朝と呼んで区別することもある。

本項ではドースト・ムハンマド以後1973年の王制廃止まで続いたバーラクザイ部族の王朝を「バーラクザイ朝」とする。

君主号・国名

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君主の称号は、1826年の成立時にはハーンであったが、1835年にアミール(首長)、1926年にシャー(国王)に変更している。これにより、国名も「アフガニスタン首長国」 (Emirate of Afghanistan、「アフガニスタン王国 (Kingdom of Afghanistanと呼び分けられる。

アフガニスタン首長国
アフガニスタン王国

歴史

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ドースト・ムハンマドの自立

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ドースト・ムハンマド・ハーン。ジェームズ・ラットレーによる民族誌(1848年[6]の挿絵。

18世紀末以来サドーザイ朝(狭義のドゥッラーニー朝)は内乱状態に陥り[3]カンダハールを拠点とするバーラクザイ部族が勢力を伸ばした[4]。バーラクザイ部族はサドーザイ朝で宰相(ワズィール)を出す部族であり[1]、勢力拡張を嫌ったカームラーン王子 (Shahzada Kamran Durraniが1818年に部族の長ムハンマド・アズィーム(別名ファトフ・ハーン。1778年 - 1818年)を殺害すると[7]、バーラクザイ部族は各地で反乱をおこし、サドーザイ朝は事実上崩壊した[7]

ムハンマド・アズィームの弟であるドースト・ムハンマド1826年カーブルを掌握し[3]ハーンを称してハン国を建国した。しかし、その後もしばらくは、彼の兄コハンデル・ハーンがカンダハールを本拠とし[7]、カームラーン王子と宰相ヤール・ムハンマド・ハーンのサドーザイ朝残存勢力がヘラートを本拠として[7]、アフガニスタンに鼎立する状態が続いた[3]。こうした対立は、当地を支配下に置こうとするイラン(カージャール朝)の動向や、ロシアイギリスの対立(グレート・ゲーム)と結びついた[8]

アフガニスタン首長国

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1835年、ドースト・ムハンマドは君主の称号をアミール(首長)に変えた(アフガニスタン首長国)。

ドースト・ムハンマドのロシアへの接近を警戒したイギリスは、サドーザイ朝の復興を目指すシュジャー・シャーを支援してアフガニスタンに介入(第一次アフガン戦争、1838年 - 1842年)。ドースト・ムハンマド・ハーンは、イギリスによる逮捕・追放などを経ながら、1843年に復位し、その後20年間アフガニスタンを統治した。1855年にはイギリスとの友好条約(ペシャーワル条約)を締結し、インド大反乱ではイギリスを支援した。国内にあっては、コハンデル・ハーンの死(1855年)後の混乱に乗じてカンダハールを占領[9]、1863年にはサドーザイ家の手にあったヘラートを併合し、現在のアフガニスタンの勢力範囲をほぼまとめ上げた。

ドースト・ムハンマド・ハーンの跡を継いだシール・アリー・ハーン(在位:1863年 - 1866年、1868年 - 1878年)は、同族間の紛争に直面した。1878年には、シール・アリーのロシアとの接近を危惧したイギリスからも宣戦された(第二次アフガン戦争、1878年 - 1881年)。シール・アリーの跡を継いだヤアクーブ・ハーン英語版(在位:1879年)は、イギリスとの間にガンダマク条約英語版を結び、イギリスの保護国となることを認めたものの、アフガニスタンの抵抗は強く、ヤアクーブも退位した。

妥協を図ったイギリスは、シール・アリーの甥にあたるアブドゥッラフマーン・ハーン(在位:1880年 - 1901年)を保護国アフガニスタンのアミールとして認めた。この際、ガンダマク条約が確認され、アフガニスタンの南東国境(現在のアフガニスタンとパキスタンの国境)が画定された。ただし、その後もイギリスとアブドゥッラフマーン・ハーンを認めない抵抗は続き、1880年にはマイワンドの戦い英語版においてイギリス軍がアイユーブ・ハーン英語版(シール・アリーの子)に大敗を喫した。

アブドゥッラフマーン・ハーンは、中央集権を推進したが、一方で抵抗も根強く、イランに亡命したアイユーブ・ハーンとの戦いも行われた。

アフガニスタン王国

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アブドゥッラフマーンの孫にあたるアマーヌッラー・ハーン(在位:1919年 - 1929年)は、王族間の内紛を制して即位すると、第一次世界大戦での疲弊をとらえてイギリスに宣戦(第三次アフガン戦争)。アングロ・アフガン条約(ラーワルピンディー条約)が結ばれた結果、アフガニスタンは外交権を回復し、完全独立を達成した。

アマーヌッラー・ハーンは、急進的な改革を進め、1926年には君主の称号をシャー(国王)に変え、アフガニスタン王国となった。しかし急激な改革は、聖職者階級の反発をまねき、1929年にアマーヌッラー・ハーンは王位を追われた。

各地に僭称者が乱立する混乱を収拾したのは、王家の傍流ムサーヒバーン家のムハンマド・ナーディル・シャーであった。このナーディル・シャーと息子のザーヒル・シャーの2代を区別して「ムサーヒバーン朝」と呼ぶこともある。ムサーヒバーン朝では、聖職者階級との妥協が図られ、パシュトゥーン人色が強まった。しかしながら、このような態度は、急進改革派の不満をまねき、1973年、ザーヒル・シャーの従兄弟、ムハンマド・ダーウードクーデターを起こし、王政を廃止した。

最後の国王ザーヒル・シャーは、アフガン国民統合の象徴として、現在も尊敬の念をもたれている。

歴代君主

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アミール・アル=ムウミニーン(信徒たちの長)

国王シャー

系図

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バーラクザイ朝の系譜[10]

  • 数字はバーラクザイ朝の継承順。君主の代数の数え方には諸説あり、最後のザーヒル・シャーは9代目ともされる[3]
 
Painda Khan
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Sultan Muhanmmad
ペシャワール太守
 
Fateh Khan Wazir
カーブル太守
 
 
 
 
 
ドースト・ムハンマド・ハーン 1,3
 
 
 
 
 
Zaman Shah
 
Kohen Dil
カンダハル太守
 
Mir Dil
カンダハル太守
 
Rahim Dil
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ワジル・アクバル・ハーン 2
 
Wali Muhammad
 
シール・アリー・ハーン 4,7
 
 
 
 
 
ムハンマド・アフザル・ハーン 5
 
ムハンマド・アーザム・ハーン 6
 
Sher Ali
カンダハル太守
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Yahya Khan
 
 
ムハンマド・ヤアクーブ・ハーン 8
 
アイユーブ・ハーン
9 ヘラート太守
 
Abdullah Jan
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Muhammad Yusuf
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アブドゥッラフマーン・ハーン 10
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Ghulam Tarzi
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ムハンマド・ナーディル・シャー 15
 
Shah Mahmud Khan
 
ムハンマド・ハーシム・ハーン
 
Muhammad Aziz
 
 
ハビーブッラー・ハーン 11
 
ナスルッラー・ハーン 12
 
 
 
 
 
マフムード・タルズィー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ムハンマド・ザーヒル・シャー 16
 
Zamina Begum
 
 
 
 
 
ムハンマド・ダーウード
 
 
 
 
 
イナーヤトゥッラー・シャー 14
 
アマーヌッラー・シャー 13
 
 
 
 
 
ソラヤ・タルズィー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

国章

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国章は、1919年に初代が制定され、何度か変更されている。

国旗

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国旗も何度か変更されている。

期間 縦横比 備考
1880-1901 2:3 アブドゥッラフマーン・ハーン治世下での旗。
1901-1919 3:5 ハビーブッラー・ハーン治世下での旗。ハビーブッラーは父王の旗に近代的な国章を加えた。
1919-1921 2:3 アマーヌッラー・ハーン治世でつくられた最初の旗。父王の旗の国章のデザインを変えたもの。この国章のデザイン(オクトグラム)は、オスマン帝国で一般的な様式である。
1921-1928 2:3 アマーヌッラー・ハーン治世でつくられた第二の旗。国章を囲む円を卵型にした。アフガニスタンは1926年に首長国から王国になった。
1928 2:3 アマーヌッラー・ハーン治世でつくられた第三の旗。国章を囲むオクトグラムを花輪に置き換え、国章を微修正した。
1928-1929 2:3 アマーヌッラー・ハーン治世でつくられた第四の旗。黒・赤・緑の三色旗を採用した。黒は過去(前の旗)、赤は第三次アフガン戦争(1919年)で独立のために流された血、緑は未来への希望をあらわす。1927年におこなわれた王のヨーロッパ訪問がおそらく影響している。新しい国章は二つの山から太陽が昇るもので、王国の新しい始まりを意味する。
1929 2:3 イギリスに支援されてアマーヌッラー・ハーンを逐った叛乱指導者ハビーブッラー・カラカーニーが掲げた旗。赤・黒・白の三色旗は、13世紀にモンゴルに支配された時期に用いられた旗と同様である。
1929-1930 2:3 ムハンマド・ナーディル・シャー治世の最初の旗。黒・赤・緑の三色旗が復活した。アマーヌッラー・ハーンの二番目の旗の国章が用いられている。
1930-1973 2:3 ムハンマド・ナーディル・シャー治世で定められた第二の旗で、その子ザーヒル・シャーも用いた。オクトグラムが取り除かれ、国章が大きくなった。紋章に描かれた年号 ١٣٤٨ (イスラム暦1348年、グレゴリオ暦1929年)は、ムハンマド・ナーディル・シャーの王朝が開かれた年を示す。

脚注

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  1. ^ a b バーラクザーイー”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(コトバンク所収). 2017年5月27日閲覧。
  2. ^ 『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.324。執筆者は勝藤猛
  3. ^ a b c d e f 概要 アフガニスタンについて”. 鮮麗なる阿富汗 一八四八~石版画にみるアフガニスタンの風俗と習慣. 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 (2007年). 2017年5月27日閲覧。
  4. ^ a b バーラクザイ朝”. 日本大百科事典ニッポニカ(コトバンク所収). 2017年5月27日閲覧。
  5. ^ 『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.324
  6. ^ 『アフガニスタンのさまざまな部族の衣装、貴婦人たち、著名な王子たちと族長たちの肖像、主な城砦と町、町の内部と寺院の光景』
  7. ^ a b c d 登利谷正人「コラム 19世紀アフガニスタンの対周辺国関係」、『アフガニスタンと周辺国-6年間の経験と復興への展望』(日本貿易振興機構アジア経済研究所、2008年)、p.137
  8. ^ 登利谷正人「コラム 19世紀アフガニスタンの対周辺国関係」、『アフガニスタンと周辺国-6年間の経験と復興への展望』(日本貿易振興機構アジア経済研究所、2008年)、pp.137-138
  9. ^ 登利谷正人「コラム 19世紀アフガニスタンの対周辺国関係」、『アフガニスタンと周辺国-6年間の経験と復興への展望』(日本貿易振興機構アジア経済研究所、2008年)、p.141
  10. ^ Wikimedia commons の図版 等より[信頼性要検証]

外部リンク

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