シール・アリー・ハーン
シール・アリー・ハーン | |
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アフガニスタン首長 | |
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在位 |
1863年 - 1866年 1868年 - 1878年12月 |
出生 |
1825年 |
死去 |
1879年2月21日 マザーリシャリーフ |
子女 |
ムハンマド・ヤアクーブ・ハーン アイユーブ・ハーン |
王朝 | バーラクザイ朝 |
父親 | ドースト・ムハンマド・ハーン |
シール・アリー・ハーン (Sher_Ali_Khan、1825年 - 1879年2月21日[1])は、アフガニスタン首長(在位:1863年 - 1866年、1868年 - 1878年12月)。ドースト・ムハンマド・ハーンの息子。シェール・アリー[1][2]とも表記される。
生涯
[編集]王位継承争い
[編集]父により後継に選定され、1863年に王位に就いた。しかし、2人の異母兄アフザルとアズィームとの間に王位継承をめぐる争いが生じた[1]。1864年にアフザルやアズィームらは反乱を起こし、1866年にシール・アリーは王位を奪われた。
アフザル(在位:1866年 - 1867年10月)は1867年に死去し、アズィーム(在位:1867年 - 1868年)が跡を継いだ。これに対し、シール・アリーも軍事力を回復。1869年に長男のヤアクーブ・ハーンの援助を受けてカーブルに入城した[1]。王位継承争いに敗れたアズィームはイランに、またアフザルの子アブドゥッラフマーン・ハーンはロシア領トルキスタンに、それぞれ亡命した[1]。
第二次アフガン戦争
[編集]1868年から1873年にかけ、ブハラ、ヒヴァ、コーカンドの三ハーン国がロシアに征服されると、シール・アリーはイギリスとの友好関係を強化しようとする。しかし、イギリスからは満足な回答を得られなかった。
1878年に露土戦争が勃発すると、カーブルで反英宣伝を行った[1]。英領インド当局はネヴィル・ボウルズ・チェンバレンを団長とする使節団を派遣しようとしたが、シール・アリーは入国を拒否[1]。これにより第二次アフガン戦争(1878年 - 1881年)が勃発した[1]。
シール・アリーはイギリス軍に敗れた。彼はカブール占領の前日に退位し、ヤアクーブ・ハーンを摂政として残して、自らはバクトリアに逃れ、ロシアの援助を要請したが拒絶される。行動を制限されて帰国し[1]、1879年2月21日、マザーリシャリーフで死去した[3]。
ヤアクーブ・ハーンは、5月15日にガンダマク条約を結び、第二次アフガン戦争は終結した。