フランス民法典

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フランス民法典、初版(1804年)の第1ページ
現存するフランス民法典の本(シュパイアー

フランス民法典(フランスみんぽうてん、フランス語: Code civil des Français)は、フランス私法一般法を定めた法典ナポレオン・ボナパルトが制定に深く関わっている経緯から、ナポレオン法典(Code Napoléon)ともいう。

なお、ナポレオン"諸"法典(codes napoléoniens)と言うときはナポレオン治下に制定された諸法典、すなわちナポレオン"五"法典(cinq codes napoléoniens)をさす。

国籍において血統主義を定め、出版において検閲著作権を規定した。

1800年8月12日に4名の起草委員が任命され、護民院立法院における審議は必ずしも容易ではなかったが、1章ずつ法律として成立し施行された。1804年3月21日に36章をまとめた法典として成立した(第3編第15章は同月27日に可決され追加)。

起草委員は以下の4名にナポレオンが参加して法典を制作した。

さらに、法律学者のジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレスも起草に関わった。当初の題名は「フランス人の民法典」(Code civil des Français)であったが、ベルギードイツのライン左岸地方、オランダ王国にも適用されることとなったことから、1807年9月3日の法律で「ナポレオン法典」(Code Napoléon)に改題された。ナポレオンの失脚に伴い、1816年には元の「フランス人の民法典」に改題されるが、ナポレオン3世の下で1852年に再び「ナポレオン法典」に改題され、その後、正式には改題されていない。もっとも、フランスの法令や実務においては、単に民法典(Code civil)と呼ばれ「ナポレオン法典」との呼称は廃用されている。

概要

ローマ法フランス全土の慣習法封建法を統一した初の本格的な民法典で、近代私法の三大原則たる、「万人の法の前の平等」、私的所有権の絶対、契約の自由過失責任の原則[1]や、「国家の世俗性」「信教の自由」「経済活動の自由」等の近代的な価値観を取り入れており、近代市民社会の法の規範となった。後に日本旧民法編纂の際にも参考とされた。エジプトを始め、イスラム世界でも影響を受けている国がある(イランの法制及びインドネシアの法も参照)。

2012年6月現在での編別は以下のとおり。人、物、行為に分けるローマ法における法学提要式を採用している。

なお、第5編は2002年のオルドナンスにより追加されたもの(当時は第4編)である。 第4編は2006年のオルドナンスにより第3編より分離して追加されたものであり、この改正作業の中心となったのはパリ第2大学のグリマルディ教授であった。

現在、同大学のピエール・カタラフランス語版名誉教授を中心に債務法全面改正作業が、ペリネ=マルケ教授を中心に物権法改正作業が進められている。

特徴

第一に、影響力の大きいことが挙げられる。

これを模範とし、又は影響を受けたとみられる国は、ベルギー、ルクセンブルク、ラインランド、オランダ、スイスの一部、イタリア(1865年)、スペイン(1889年)、ポルトガル(1867年)、ルーマニア(1865年)、エジプト、アメリカの若干州(ルイジアナなど)、及び日本等が挙げられる[2]

法典論争に見られるように、最もナポレオン民法典の影響を忌避したと見られるドイツも例外ではなく、1896年の民法典には自筆遺言証書の制度を導入している[2]

第二に、旧慣習にも配慮していたことが挙げられる。

ナポレオン民法典はフランス革命の自由主義・人権思想といった基本原理に依拠したものであるが、革命時の熱狂の極端に走らず、旧制度(アンシャンレジーム)の伝統の精神にも一定程度譲歩して、あらゆる国の立法がそうであるように、妥協的・中庸的性格のものとして成立している(後述)[2]

第三に、規定方法が個別具体的(カズイスティック)で説明的であることが挙げられる。

思想の系譜としてはプロイセン国法と同様の啓蒙主義的見地に立ち、学術用語や抽象的法理によらず、素朴な日常生活上の問題につき、日常用語を用いて具体的・説明的な法文を用いている[3]

一方ドイツにおいては、プロイセン法があまりに説明的に過ぎるためにかえって法解釈の柔軟性を欠き、運用しづらいものとなってしまったために、ドイツ民法典においてはこれと正反対の学問的・抽象的規定をもって立法の主義に換えたが、専ら法律の専門家を名宛人とした取り付きにくいものである分、法律を民衆から遠ざけるものとしてゲルマニステンや後世のナチスから激しく批判されるに至っている[4]

フランス民法の変容

妥協的性格をも併せ持つものである分、制定時のナポレオン民法典はナポレオン個人の思想とも相まって[5]、封建時代の残滓ともいうべき不平等の規定も有しており、外国人の人権の制限[6]、非嫡出子の差別的取り扱いを規定していたばかりでなく、一応男女平等を原則としながらも、婚姻時には他の近代法典と比べても強大な夫権・父権優位の家父長制を採用していた[7]

財産法におけるような自由・平等の理念はどこにあるだろうか。……慣習と革命の理念を調和させ、中庸の道をとったとされるフランス民法典の親子関係は、子の監護・教育という幼児・小児にとって必然的に必要な権威以上に、親の権力を認めていた。また、とくに夫婦関係において、男女の平等、女性の自由は、不十分であった。……憲法学者により、人権宣言が人権を認めた「人」は、実際は男性であったと指摘されている。第二に、19世紀から最近のドイツやフランスにおいて、「人」とは、実は旧来の男性たる「家長」であり、「社会」は彼らの構成する社会であって、自由・平等も家長のものであったとされる[8] — 星野英一、1998年
  • 旧213条 夫は妻を保護する義務を負ひ、妻は夫に従ふ義務を負ふ[9]
  • 旧214条 妻は夫と同居する義務を負ひ、夫が居住するに適せりと為す如何なる地へも夫に従ふべき義務を負ふ。夫は妻を引取り、資力と身分とに応じて生活の需要に必要なる総てを妻の為に供する義務を負ふ[10]
  • 旧217条 妻は、共有財産制の下に在らざるときは、又は別産制の下に在るときと雖も、行為に於ける夫の協力又は書面に依る同意なくして贈与、有償又は無償名義に依る譲渡、抵当権設定、取得行為を為すことを得ず[11]
  • 現229条 夫は妻の姦通を理由として離婚の訴えを提起することを得[12]
  • 旧230条 妻は夫が共同の家に其の情婦を引入れたる場合に、夫の姦通を理由として離婚の訴えを提起することを得[13]
  • 旧374条 子は、満18年以後に、志願兵として入営する為に非ざれば、父の許可なくして父の家を去ることを得ず[14]
  • 旧376条 1.子が16年以下なるときは、父は裁判所の権力に依り其教育場収容を命ぜしむることを得[15]

日常家事行為についての妻の代理権すら法文上は認めない徹底した妻の無能力制度はローマ法やフランス旧王朝すら採用しなかったものであり[16]、不合理であるとして批判され、判例によって事実上死文化され、その後改正されていくことになる。特に夫に家の外での姦通権を保障するがごとき極端の不平等規定はさすがに早くも1884年に改正されたが、刑法上、家の中に間男を引き入れた妻の殺害の免責規定(仏刑法旧324条)はその後も長く続いた[17](1975年に削除[18])。

また、具体的・説明的な教科書法典であるナポレオン民法典は、同様の主義を徹底したプロイセン法に起きたのと同様、社会の急激な発展と共にその素朴な説明が陳腐化する弊害が現れただけでなく[19]、更に、私法の大原則であった契約自由の原則は、かえって経済的弱者を圧迫する強者の自由に外ならなくなり、所有権絶対の原則も公共の福祉の観点から様々な制約を受けざるをえないものとなる[20]

他にも、平等分割主義の徹底は農地の細分化を招いて農家を困窮させるなど[21]、数多くの問題点を露呈してやがて世界各国への影響力を減じていったが、19世紀後半より現実の生きた判例を研究し、法典の立法・解釈に生かそうとする新しい方法論(自由法論、科学学派)が隆盛したことによって、その命脈を保つことになった[20]

脚注

  1. ^ 「ナポレオン法典」ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
  2. ^ a b c 谷口(1939)1、2頁
  3. ^ 谷口(1939)2頁
  4. ^ 谷口(1939)2、3頁
  5. ^ 谷口(1939)5、197頁
  6. ^ 谷口(1939)5頁
  7. ^ 北村一郎編『フランス民法典の200年』有斐閣、2006年、9-13頁
  8. ^ 星野英一『民法のすすめ』岩波書店、1998年、147-150頁
  9. ^ 谷口(1939)210頁
  10. ^ 谷口(1939)211頁
  11. ^ 谷口(1939)215頁
  12. ^ 谷口(1939)234頁
  13. ^ 谷口(1939)235頁
  14. ^ 谷口(1939)360頁
  15. ^ 谷口(1939)362頁
  16. ^ 谷口(1939)198頁
  17. ^ 谷口(1939)235頁
  18. ^ "2日に一人の割合で女性が配偶者に殺される国フランス"、Yahoo!ニュース2019年12月6日、2020年4月21日閲覧
  19. ^ 谷口(1939)3頁
  20. ^ a b 谷口(1939)15頁
  21. ^ 谷口(1939)14頁

参考文献

  • 谷口知平『仏蘭西民法I 人事法』(有斐閣、1939年)

関連項目

外部リンク