月僊
月僊(げっせん、元文6年1月1日(1741年2月16日) - 文化6年1月12日(1809年2月25日))は、江戸時代中期から後期にかけての画僧。俗姓は丹家氏。名は玄瑞・元瑞。字は玉成。
生涯と業績
尾張国名古屋の味噌商の家に生まれる。7歳で得度、玄瑞の名を与えられて浄土宗の僧となる。10代で江戸に出て増上寺に入ると増上寺46世の妙誉定月に眷顧され、定月から一字を貰い受けて「月俸」と号した。仏門修行の傍ら、雲谷派に連なり「雪舟十二代画裔」と自称した桜井雪館に画を学ぶ。その後上洛して知恩院に住し、円山応挙に師事して写実的画風の感化を受けた。また、与謝蕪村の影響も受け、さらに諸派に学んで独自の画風を確立した。
山水・人物を得意とし、人物の形影が寂寥としていることを特長とする。誰に乞われても必ず画料を取ったので「乞食月僊」と世に知られたが、「画料を官に納めてその利子でながく貧民を救う(月僊金)などの活動」をしていた[1]。知恩院の貫主に懇願されて、1774年(安永3年)伊勢国宇治山田(現在・三重県伊勢市)の寂照寺を再興するために入山。画名が高まり画を請う者が絶えず、巨万の富を積みさらに銭をむさぼること甚だしいため、譏る人も多かった。しかしのちに寺の伽藍・山門を建て、経典を購入して倉におさめ、山道の改修・天明飢饉の施米・宮川架橋・文化年間の伊勢大火罹災者の救済などに尽くす姿を見せ、人はみなその功徳に服すようになったという。死に臨んで遺言し、窮身永代救済に千五百両を奉行所へ寄託する。京都妙法院、愛知県岡崎市昌光律寺・寂照寺[2]、三重県立美術館などに作品が残されている。門下に立原杏所・亜欧堂田善・村松以弘などがいる。
『列仙図賛』(3巻、天明4年(1784年)刊)、『耕織図』『月僊画譜』などの作品がある。
作品
作品名 | 技法 | 形状・員数 | 寸法(縦x横cm) | 所有者 | 年代 | 款記・印章 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
寒山図 | 紙本墨画淡彩 | 1幅 | 昌光律寺 | 1770年(明和7年) | 款記「明和庚寅春寫月仙」 | 愛知県指定文化財 | |
龐居士・霊昭女図 | 絹本著色 | 双幅 | 昌光律寺 | 愛知県指定文化財 | |||
授戒三聖像 | 絹本著色 | 1幅 | 昌光律寺 | 愛知県指定文化財 | |||
仏涅槃図 | 絹本著色 | 1幅 | 昌光律寺 | 1803年(享和3年) | 愛知県指定文化財 | ||
郡瞽行旅図巻 | 紙本墨画淡彩 | 1巻 | 随念寺 | 岡崎市指定文化財 | |||
倫誉上人像 | 絹本著色 | 1幅 | 随念寺 | 岡崎市指定文化財 | |||
慈恩大師像 | 1幅 | 大巌院 | 館山市指定文化財[3] | ||||
妙法院白書院障壁画 | 紙本淡彩 | 襖19面 | 妙法院白書院 | 不詳 | 款記「月僊」/「月僊」朱文方印 | 内訳は、「群仙図」8面、「山水人物図」8面[4] | |
仙人図押絵貼屏風 | 紙本墨画淡彩 | 六曲一双 | 山形美術館(長谷川コレクション) | ||||
芭蕉図押絵貼屏風 | 紙本墨画 | 二曲一隻 | 144.9x72.6 | 善導寺(亀山市) | 款記「月僊」/「寂照主人」朱文方印・「月仙」朱文方印・遊印「書画適禅」朱文方印[5] | ||
白梅酢 | 紙本著色 | 衝立1基 | 143.9x161.5 | 大雲院 (京都市)[6] |
脚注
参考文献
- 角田九華 『続近世叢語』
- 伴蒿蹊 『近世畸人伝』
- 白井華陽 『画乗要略』
- 『扶桑画人傳』
- 『続諸家人物志』
- 『円山・四条派から現代まで―京都の日本画 「京都画壇二五〇年の系譜展」』 京都新聞社/編集 1994年