源時中
表示
時代 | 平安時代中期 |
---|---|
生誕 | 天慶4年(941年) |
死没 | 長保3年12月30日(1002年1月16日) |
別名 | 致仕大納言 |
官位 | 従二位、大納言 |
主君 | 村上天皇 → 冷泉天皇 → 円融天皇 → 花山天皇 → 一条天皇 |
氏族 | 宇多源氏 |
父母 | 父:源雅信、母:源公忠の娘 |
兄弟 | 時中、済信、時通、時叙、時方、藤原道長室・倫子、藤原道綱室・中の君、扶義、通義、済時、致平親王妃、藤原定時室 |
妻 | 藤原安親の娘 |
子 | 済政、信時、重時、惟時、朝任、則孝、経相 |
源 時中(みなもと の ときなか)は、平安時代中期の公卿。左大臣・源雅信の長男。致仕大納言と号す。
経歴
村上朝の天暦11年(957年)昇殿を許されると、右衛門尉・右近将監を経て、天徳5年(961年)従五位下に叙爵する。
侍従・右兵衛佐を務めたのち、康保4年(967年)左近衛少将、安和元年(968年)従五位上、安和2年(969年)右近衛少将、天禄3年(972年)正五位下、天禄4年(973年)従四位下・右近衛中将、天元2年(979年)従四位上、永観2年(984年)正四位下と、冷泉・円融・花山朝の20年近くに亘って近衛次将を務め、昇進を重ねた。
寛和2年(986年)正月に春宮・懐仁親王の春宮権亮に任ぜられる。6月に寛和の変が起こり、花山天皇の出家に伴って懐仁親王が即位(一条天皇)すると、時中は春宮権亮の功労により正三位・参議に叙任されて公卿に列した。議政官として、大蔵卿や兵衛督を兼帯したほか、皇太后宮権大夫として皇太后・藤原詮子にも仕えた。
その後も、正暦3年(992年)権中納言、長徳元年(995年)中納言、長徳2年(996年)大納言と昇進し、長保2年(1000年)従二位に至る。
長保3年(1001年)8月に官職を辞任し、同年12月29日病により出家。翌30日に薨去。享年61[1]。最終官位は致仕大納言従二位。
人物
管絃・歌舞に秀でたといい、龍笛・和琴・郢曲などをしたという[2]。
官歴
注記のないものは『公卿補任』による。
- 天暦11年(957年) 正月23日:昇殿
- 天徳2年(958年) 閏7月28日:右衛門尉
- 天徳4年(960年) 正月13日:昇殿。9月4日:右近将監
- 天徳5年(961年) 正月7日:従五位下(六人部是助譲)
- 応和2年(962年) 正月22日:讃岐権介。8月7日:侍従
- 応和3年(963年) 11月23日:昇殿
- 康保3年(966年) 4月16日:右兵衛佐
- 康保4年(967年) 9月1日:春宮昇殿。10月28日:左近衛少将
- 康保5年(968年) 正月13日:兼播磨権介[3]。11月24日:従五位上(主基国司)[3]
- 安和2年(969年) 4月11日:右近衛少将。9月2日:昇殿
- 天禄3年(972年) 正月7日:正五位下。正月25日?:止播磨権介[3]
- 天禄4年(973年) 正月7日:従四位下(一品資子内親王給)。3月20日:兼備前権守。7月26日:右近衛中将、権守如元
- 天延2年(974年) 正月:止権守。12月28日:兼讃岐権守
- 天延3年(975年) 正月26日:兼備後権守
- 貞元2年(977年) 12月10日:兼播磨権守[3]
- 貞元3年(978年) 10月17日:内蔵頭、中将如元
- 天元2年(979年) 正月7日:従四位上
- 天元4年(981年) 正月29日:止播磨権守[3]
- 天元6年(983年) 正月27日:美作守
- 永観2年(984年) 8月27日:本宮侍臣昇殿、春宮昇殿。9月:聴雑袍。10月10日:正四位下(父以加階譲與)
- 寛和2年(986年) 正月28日:大蔵卿、春宮権亮(春宮・懐仁親王)、止中将頭。6月23日:止亮(譲位)、昇殿。 7月5日:皇太后宮権大夫(皇太后・藤原詮子)。7月23日:正三位(越階、前坊亮労)。10月15日:参議、大蔵卿皇太后宮権大夫等如元
- 永延元年(987年) 7月11日:左兵衛督、止卿、大夫如元
- 永延2年(988年) 正月29日:兼美濃権守
- 正暦2年(991年) 9月16日:止権大夫(依本宮出家)。9月21日:右兵衛督
- 正暦3年(992年) 8月28日:権中納言、止督
- 長徳元年(995年) 6月19日:中納言
- 長徳2年(996年) 7月20日:大納言
- 長徳3年(997年) 7月5日:兼按察使
- 長保2年(1000年) 正月24日:従二位。2月27日:兼中宮大夫(中宮・藤原彰子)
- 長保3年(1001年) 8月11日:辞、不許。8月23日:重辞。12月29日:出家(致仕大納言従二位)[1]。12月30日:薨去