佐々木誠造
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佐々木誠造 ささき せいぞう | |
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生年月日 | 1932年10月30日(92歳) |
出生地 |
日本 青森県北津軽郡五所川原町 (現青森県五所川原市) |
出身校 | 早稲田大学第一理工学部工業経営学科卒業 |
親族 | 祖父・佐々木嘉太郎(貴族院議員) |
(新) 青森市長 | |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 2005年4月24日 - 2009年4月23日 |
在任期間 | 2005年4月1日 - 2005年4月23日 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1989年5月 - 2005年3月31日 |
佐々木 誠造(ささき せいぞう、1932年(昭和7年)10月30日 - )は、日本の政治家。前青森市長。旧青森市長を4期(新設合併により途中失職)、新設合併した青森市長を1期務めた。コンパクトシティ構想を推進。「布嘉」佐々木家5代目[1]。
人物
青森県北津軽郡五所川原町(現五所川原市)の地主で、「布嘉」佐々木家4代目、佐々木銀行頭取佐々木彰造の長男[2]。「布嘉」佐々木家3代目、青森銀行頭取佐々木嘉太郎の孫[2][3]。旧制木造中学校(現在の青森県立木造高等学校)、青森県立青森高等学校を経て、早稲田大学卒業[4]。
2003年5月に木村守男前青森県知事がセクハラ疑惑で辞任後、有力な後任候補と言われ、自民党青森県連から出馬要請があったが辞退。その為、県連は三村申吾(当時:衆議院議員)に白羽の矢を立てた。
初出馬した1989年5月の(旧)青森市長選挙で長崎昭義(当時:青森放送報道制作局報道部長、元:代表取締役社長、会長)により、日本初の出口調査が取り入れられた。
略歴
- 1956年3月 早稲田大学第一理工学部工業経営学科卒業
- 1969年4月 青森三菱自動車販売(株)取締役社長(-1989年4月)
- 1984年4月 青森商工会議所副会頭(-1989年4月)
- 1985年12月 青森県公安委員会委員(-1989年3月)
- 1989年5月 (旧)青森市長選挙当選(-2005年3月)
- 2005年4月 (新)青森市長選初当選[5]
- 2009年4月 青森市長選挙において、旧青森市から通算6期目を目指すも新人の鹿内博に敗れ落選[6]。
- 2017年 学校法人青森山田学園学園長に就任。
選挙結果
2005年(新)青森市長選挙
※当日有権者数:252,255人 最終投票率:52.37%(前回比:-pts)
候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 得票率 | 推薦・支持 |
---|---|---|---|---|---|---|
佐々木誠造 | 72 | 無所属 | 新 | 71,418票 | 54.5% | - |
奈良岡央 | 48 | 無所属 | 新 | 54,606票 | 41.7% | - |
中村康一 | 54 | 無所属 | 新 | 4,972票 | 3.8% | - |
2009年青森市長選挙
※当日有権者数:248,256人 最終投票率:56.63%(前回比:+4.26pts)
候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 得票率 | 推薦・支持 |
---|---|---|---|---|---|---|
鹿内博 | 61 | 無所属 | 新 | 72,401票 | 51.8% | - |
佐々木誠造 | 76 | 無所属 | 現 | 54,155票 | 38.8% | - |
関良 | 51 | 無所属 | 新 | 13,184票 | 9.4% | - |
脚注
- ^ 書評 庄司知恵子、山下祐介著『「布嘉」佐々木家を紡いだ人たち』、青函文化経済研究所 2016年。
- ^ a b 『大衆人事録 第14版 北海道・奥羽・関東・中部篇』青森9頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年11月20日閲覧。
- ^ 『人事興信録 第15版 上』サ3頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年11月20日閲覧。
- ^ 『木造高校物語―母校賛歌』北方新社、9/1。
- ^ “青森市長選挙 - 2005年04月24日投票 | 青森県青森市”. 選挙ドットコム. 2021年6月16日閲覧。
- ^ “青森市長選挙 - 2009年04月19日投票 | 青森県青森市”. 選挙ドットコム. 2021年6月16日閲覧。
参考文献
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第14版 北海道・奥羽・関東・中部篇』帝国秘密探偵社、1943年。
- 人事興信所編『人事興信録 第15版 上』人事興信所、1948年。