高野大膳

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高野 大膳(たかの たいぜん、生没年不詳[1])は安土桃山時代から江戸時代前期の武将立花氏の家臣。柳川藩士。立花四天王の一人。

本名は不詳、正確には高野大膳亮。玄蕃允とも。

出身[編集]

大分県豊後大野市大野町藤北高野/大神姓緒方氏族、家紋は「丸に三つ鱗」、「丸に抱き茗荷」。

概要[編集]

天文4年(1535年)8月22日、肥後菊池氏などの肥後国人の反乱の際には、主君鑑連に従って、同僚の戸次親宗綿貫吉基由布惟巍、足達左京、安東連之、海老名肥前、小野鑑幸らと共に肥後国に出陣して車返の戦いで勇猛奮戦し、乱を鎮圧した[2]

弘治2年(1556年小原鑑元、本庄新左衛門尉統綱、中村新兵衛長直(名は鎮信とも)、賀来紀伊守惟重らが起こした謀反(姓氏対立事件)で主君鑑連の出陣に従い、5月19日、同僚の由布惟信と足達左京と安東家貞、一族の高野九郎兵衛と共に奪斗比類なき働きをもって鑑連から感状を賜う[3][4][5][6]

永禄8年(1565年)4月27日~5月、吉弘鑑理と道雪(鑑連は1563年に出家)が大友家に叛旗を翻した立花山城主・立花鑑載を攻めた際も一番鑓と捨身な戦功を立ている[3][7]

永禄11年(1568年毛利元就の調略を受けた鑑載を攻めた際、毛利軍の清水宗知(左近将監、清水宗治の兄)、高橋鑑種家臣・衛藤尾張守、原田親種の連合軍との立花山城下での戦いにおいて、大膳は道雪軍の6番隊の将として戦い、衛藤尾張守の首級を挙げた[3][8]。この頃の大膳は、立花氏を継ぐ前の戸次鑑連の豊後戸次氏家臣として、安東家忠十時惟忠由布惟明らと並び戸次四天王として称され、九州で武名を轟かせた。

天正6年(1578年)の耳川の戦い以降宗像氏麻生氏原田氏筑前国衆の反乱がおきると、道雪・高橋紹運がその鎮圧に乗り出す。さらに筑前国で勢力を伸ばしていた秋月種実筑紫広門らとの戦いなどを経て、大膳は由布惟信、十時連貞安東家忠らと並び立花四天王として称された。生涯で二十七枚の感状を得たと伝わる。また主君道雪によって「臂力衆人に超え、剛勇無比の士」と評されている[3]

天正10年(1582年)12月5日、築後の国人黒木家永(実久、鎮連)と、道雪の猶子・戸次鎮連から高野玄番允への領地を安堵する書状が出ている[9]

天正13年(1585年9月11日に道雪が柳川城攻略の最中陣没すると、豊後の戸次鎮連に仕え、のち鎮連が大友家に対する謀反の疑いで自害、その子・戸次統常戸次川の戦いで戦死した後、或いは大友家の改易後、一族と共に立花宗茂に仕えると推測された。

宗茂は豊臣秀吉柳川13万2000石の大名として認められると、秀吉に従い九州平定小田原征伐文禄の役慶長の役に出陣した。朝鮮渡航では高野式部之允、高野弥源次ら大膳の一族と思われる人物がみられる[10]。また永禄5年の柳川城普請の際、伏見の立花屋敷で留守、管理の高野式部もみられる[11]

慶長5年(1600年関ヶ原の戦いで西軍につき、大津城の戦い(高野四郎左衛門、高野久右衛門らが活躍[12])・柳川城の戦いに参戦したため、戦後改易され、浪人となる。

元和6年(1620年)宗茂は徳川家の治下から旧領の筑後柳川10万9,200石を与えられると、高野喜左衛門という人物が領地を与えられている[13][14]

脚注[編集]

  1. ^ 一説は永正12年(1515年)頃- 天正17年(1589年)頃、また天文9年(1540年)- 元和7年(1621年
  2. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.23~24
  3. ^ a b c d 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十四節 柳川人物小伝(四)高野大膳 P.900頁
  4. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)58 立花家旧臣文書 高野文書 三 戸次鑑連感状写 今度小原本庄以下之衆御成敗之刻、最前切入被疵被遂分捕候、高名無比類候、当時闕所依然々、不顕志候、口惜候、先夫丸壱人相加進候、恐々謹言、五月十九日 高野玄蕃允(大膳亮)殿 P.314頁
  5. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)58 立花家旧臣文書 高野文書 八 戸次鑑連感状写 今度小原本庄以下之衆御成敗之刻、最前切入被遂分捕候、粉骨之次第、高名無比類、為無足辛労之段、曾而無忘卻候、必闕所次第一所可申談候、其間之儀、月充申付候由、存知候、恐々謹言、五月廿八日 高野九郎兵衛大尉 P.314頁
  6. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.25
  7. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)58 立花家旧臣文書 高野文書 二 戸次鑑連感状写 今度立花表合戦之刻、抽粉骨、分捕高名無比類候、其上与力被官中、或分捕、或被疵之衆、銘々着到令披見、感入候、取静一所可申談候、恐々謹言、四月廿七日 高野大膳亮殿 P.313頁
  8. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.45
  9. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)58 立花家旧臣文書 高野文書 六 戸次鎮連預ヶ状写 福松之内其方被相報候分之事、任承旨為料所永々預ヶ進候、為存知候、恐々謹言、天正十年壬午 十二月五日 高野玄番允(大膳亮)殿 P.314頁
  10. ^ 『柳川藩叢書』 第一集 補遺 七〇 同著到氏名 P.197頁
  11. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21 小野文書・一六九 御感状控 (78) 立花親成(宗茂)達書写 柳川城普請肝煎申付留守居 伏見行召置候 百五十石 高野式部 P.137。
  12. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)58 立花家旧臣文書 高野文書 一〇 立花親成(宗茂)感状写 今度將州大津城攻之刻、其方内之者被疵、粉骨之次第、感入候、必取静、一稜可賀之候、恐々謹言、十月十日 高野四郎左衛門殿 P.315頁
  13. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)58 立花家旧臣文書 高野文書 一一 立花宗茂知行宛行状写 P.315頁
  14. ^ 立花家分割限帳では、高野喜左衛門に送られた関連文書は万治3年(1660年)まで存在し、一族の子孫であると推測された(『柳川市史』史料編V近世文書(前編)58 立花家旧臣文書 高野文書 一二 立花宗茂名字状写 、十四 立花宗茂書状写 P.315頁)

参考資料[編集]

  • 渡辺村男 『旧柳川藩志』(青潮社、1957年)
  • 渡辺村男 『柳川藩叢書 第一集』(青潮社、1922年)
  • 『柳川市史 史料篇V 近世文書(前篇)』(柳川市史編集委員会、2011年)
  • 岡茂政『柳川史話』(柳川郷土研究会、青潮社、1984年)