長福寺 (長野県木曽町)
長福寺 | |
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所在地 | 長野県木曽郡木曽町福島5690番地 |
位置 | 北緯35度51分9.47秒 東経137度42分3.97秒 / 北緯35.8526306度 東経137.7011028度座標: 北緯35度51分9.47秒 東経137度42分3.97秒 / 北緯35.8526306度 東経137.7011028度 |
山号 | 龍源山 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
本尊 | 釈迦如来 |
創建年 | 永享2年(1430年 |
開山 | 竺隠白巌 |
開基 | 木曾豐方 |
中興 | 信叔 |
法人番号 | 3100005007639 |
長福寺(ちょうふくじ)は 長野県木曽郡木曽町福島にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は龍源山。
歴史
[編集]大宝2年(702年)、木曽古道・薬師平付近に創建された天台宗の寺院が元と伝えられている。
「信州天桂派寺院記」によれば、永享2年(1430年)木曾豐方が開基し、鎌倉建長寺二十二世の竺隠白巌を招いて再興した。
永享8年(1436年)竺隠白巌が示寂した後、木曽氏が大桑村須原に本拠を移すと一時衰微したが、
永正年間(1504-1521年)、木曾義元が寺領を寄進し、叔父である大本山妙心寺住持の信叔を招いて中興開山とし、臨済宗妙心寺派に改宗した。
このころ、福島村には富田山 龍源寺[1]という寺があったが、長福寺と合併して[2]龍源山 長福寺となった。
二世の一機、六世の高安、七世の澤堂智仁は妙心寺の勅使僧となっている。
永禄年間に木曾義昌は累代の霊廟を再建し、寺領や山林を寄進、また境内に武田信玄供養のための一石五輪塔を建立した。
天正18年(1590年)、木曾義昌は、徳川家康の関東移封に伴い、家康から下総国阿知戸[3]に1万石を与えられて木曽谷を去った。その後、豊臣秀吉の重臣であった石川光吉が木曾代官となったが、木曾氏ゆかりの長福寺・興禅寺 (長野県木曽町)・定勝寺の三箇寺に対し、次のように保証した。
木曾谷中寺々 信義ニ非分之義在之間敷候 間可被得其意候 可被得其意候 随分可令馳走候 恐々謹言」 八月廿四日 石川兵蔵 光吉 (判) 長福寺 興禅寺 定勝寺 御道宿中[4]
文禄4年(1595年)、当時、木曽谷に帰って石川光吉の下代官となっていた山村良候によって再建された。
慶長5年(1600年)、木曾義利が改易された後は、山村氏の菩提寺となったため、境内には、山村良候と父の山村良利の墓所がある。
山村良勝以降は、山村甚兵衛家の当主は興禅寺に埋葬することとなり、長福寺は山村甚兵衛家の内室方の菩提寺となった。
墓地中段にある宝篋印塔5基は、いづれも山村甚兵衛家の内室の墓碑である。
墓地上段にある、宝篋印塔5基のうち1基は、開基の木曾豐方のもので、裏に「永享四年[5]子壬正月十三日」と刻まれており、定勝寺の壁書きの卒年月日と同じであるが、その当時に建てられた墓石とは認められていない。
他の4基のうち3基は、山村良候、山村良利、山村良道の墓と考えられているが、残り1基は山村氏の誰の墓石かは不明である。
嘉永3年(1850年)、火災に遭遇し、昭和2年(1927年)には木曽福島町の大火により全焼した。
昭和40年(1965年)から、二十世の文隆によって、昭和42年(1967年)に山門、昭和48年(1973年)に方丈、昭和49年(1974年)に本堂、昭和58年(1983年)に鐘楼が再建され復興を遂げた。
境内には高遠石工の手に成る石地蔵がある。
伽藍・境内
[編集]- 本堂
- 庫裡
- 小庫裡
- 山門
- 鐘楼
- 方丈
- 位牌堂・書院
- 木曽家墓所
- 山村家墓地
ギャラリー
[編集]末寺
[編集]参考文献
[編集]- 『木曽福島町史 第1巻 (歴史編)』 第五章 江戸時代 第十二節 神社・佛閣・社堂 三、長福寺 附 龍源寺 p828-837 木曽福島町教育委員会 1982年
- 『寺と神社 (信州の文化シリーズ)』 長福寺 p96 信濃毎日新聞社 1981年
- 『探訪 信州の古寺 禅宗』1996年 郷土出版社