長壁姫

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竜斎閑人正澄画『狂歌百物語』より「小坂部姫」(長壁姫)
鳥山石燕今昔画図続百鬼』より「長壁」
北尾政美『夭怪着到牒』より「刑部姫」
葛飾北斎『源平名頭 絵本武者部類』より「長下部」

長壁姫(おさかべひめ)は、日本妖怪姫路城に隠れ住むといわれる女性の妖怪である。小刑部姫刑部姫小坂部姫とも。

伝説[編集]

物語[編集]

姫路城の天守に隠れ住んでおり、年に1度だけ城主と会い、城の運命を告げていたと言う。松浦静山の随筆『甲子夜話』によれば、長壁姫がこのように隠れ住んでいるのは人間を嫌っているためとあり[1]江戸時代の怪談集『諸国百物語』によれば、天主閣で播磨姫路藩初代藩主池田三左衛門輝政の病気平癒のため、加持祈禱をしていた比叡山の阿闍梨の前に、三十歳ほどの妖しい女が現われ、退散を命じた。逆に阿闍梨が叱咤するや、身の丈2丈(約6メートル)もの鬼神に変じ、阿闍梨を蹴り殺して消えたという。

正体[編集]

長壁姫の正体については老いたキツネ[1][2][3]井上内親王が息子である他戸親王との間に産んだ不義の子[4]伏見天皇が寵愛した女房の霊[3][5]、姫路城のある姫山の神などの説がある[6]

由来[編集]

姫路城が建つ姫山には「刑部(おさかべ)大神」などの神社があった(豊臣秀吉は築城にあたり刑部大神の社を町外れに移した)。この神社が「おさかべ」の名の由来である。ただし初期の伝説や創作では、「城ばけ物」(『諸国百物語1677年)などと呼ばれ名は定まっていなかった[7]

この社の祭神が具体的に誰であったかは諸説あり不明だが、やがて、城の神であり、城主の行いによっては祟ると考えられた。これに関しては次のような事件がある。関ヶ原の戦い後に新城主となった池田輝政は城を大規模に改修したのだが、1608年に新天守閣が完成するころ、さまざまな怪異が起こり、1611年にはついに輝政が病に臥してしまった。これが刑部大神の祟りだという噂が流れたため、池田家は城内に刑部神社を建立し刑部大神を遷座した[7]

この刑部明神が多くの誤伝を生み、稲荷神と習合するなどして、天守閣に住むキツネの妖怪という伝承が生まれたとする説もある[3]

民俗学研究所による『綜合日本民俗語彙』では、姫路から備前にかけての地域ではヘビがサカフと呼ばれることから、長壁姫を蛇神とする説が唱えられている[8]

『諸国百物語』(1677) では性別もはっきり決まっていなかった(男女含むさまざまな姿で現れた)が、やがて女性と考えられるようになった。これには「姫路」からの連想があったと考えられる[7]。また、『老媼茶話』(1742) では猪苗代城の妖姫「亀姫」と同種の化け物として併記され、泉鏡花の戯曲『天守物語』では義理の姉妹となっている。

前橋市での伝承では、1749年に姫路藩より前橋藩へ転封した松平朝矩は、姫路城から長壁神社を奉遷し、前橋城の守護神とすべく城内未申の方角(裏鬼門)に建立した。大水害で城が破壊され川越城への移転が決まったところ、朝矩の夢枕に長壁姫が現れ、川越へ神社も移転するように願ったという。しかし朝矩は、水害から城を守れなかったと長壁姫を詰問し、長壁神社をそのままに川越へ移った。その直後に朝矩が若死にしたのは長壁姫の祟りといわれる。前橋では現在、前橋東照宮に長壁姫が合祀されている[9]

古典[編集]

鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』では「長壁(おさかべ)」とされ、コウモリを従えた老姫の姿で描かれている。一方で江戸時代の奇談集『老媼茶話』では十二単を着た気高い女性とされ、小姓の森田図書が肝試しで天守閣に駆け登ったところで長壁姫と出会い、「何をしに来た」と訊ねられて「肝試しです」と答えると、その度胸と率直さに感心した長壁姫は肝試しの証拠品として(しころ:兜につけて首元を守る防具)をくれたという[4][10]

井原西鶴による『西鶴諸国ばなし』では、長壁姫は800匹の眷属を操り、自在に人の心を読みすかし、人の心をもてあそんだと、妖怪として人間離れした記述が為されている[4]

北尾政美による黄表紙夭怪着到牒』にも「刑部姫」の表記で登場しており、同書では刑部姫の顔を見た者は即座に命を失うとある[11]

明治18年頃に刊行された宮本武蔵の実録物『今古實録 増補英雄美談』によれば、宮本武蔵は武者修行の旅の途上で、「宮本七之介」の名で足軽として姫路城主の木下勝俊に仕えていた。その頃、小刑部大明神を祀っていた姫路城の天守閣では、怪異が相次いでいた。誰もが恐れる天守閣の夜番を無事に乗り切ったことで正体が発覚した武蔵に、城主は改めて天守の怪異の調伏を頼む。武蔵が灯りを手に天守閣の五重目へとあがり、明け方まで過ごしていると、小刑部大明神の神霊を名乗る女性が現れた。女性は、ここに巣食っていた齢数百年の古狐が武蔵に恐れをなして逃げ出したと告げ、武蔵に褒美として銘刀・郷義弘を授けた。だが、これは女性に化けた狐の罠だった。郷義弘は、豊臣秀吉から拝領した木下家の家宝であり、狐は武蔵に罪を着せて城から追い出そうとしたのである。狐の目論みはうまくいかず、武蔵は罪に問われなかった。狐はその後、中山金吾という少年に化けて武蔵に弟子入りしたところを、見破られて退治される[12]。この逸話は長壁姫と結び付けられ、前述の『老媼茶話』をもとにした話といわれている[10][13]

講釈師・小金井蘆洲(三代目)による講演の口述筆記という形で、大正4年の大阪毎日新聞に連載された「宮本武蔵」にも、『今古實録 増補英雄美談』とほぼ同じ筋立ての狐退治のエピソードがある。こちらでは、武蔵が名乗った偽名は「滝本又三郎」となっている。

姫路市の地元では、武蔵の狐退治の逸話が昔話という形で広まっているが、郷義弘が盗品であったなどの後段の部分が省かれ、美談で終わることが多い[14]

創作[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 石川 1989, p. 63
  2. ^ 礒清『民俗怪異篇』磯部甲陽堂〈日本民俗叢書〉、1927年、44-49頁。 NCID BN15330230 
  3. ^ a b c 笹間 1994, pp. 113–114
  4. ^ a b c 村上 2000, pp. 77–78
  5. ^ 藤沢衛彦編著『日本伝説叢書』 播磨の巻、すばる書房、1978年(原著1818年)、18-19頁。 NCID BN0826239X 
  6. ^ 松谷みよ子編著『日本の伝説』 上、講談社講談社文庫〉、1975年、328頁。ISBN 978-4-06-134053-4 
  7. ^ a b c 横山泰子 著「恋するオサカベ」、一柳廣孝吉田司雄 編『妖怪は繁殖する』青弓社〈ナイトメア叢書 3〉、2006年。ISBN 4-7872-9181-5 
  8. ^ 萩原龍夫他 著、民俗学研究所 編『綜合日本民俗語彙』 第1巻、柳田國男監修、平凡社、1955年、239頁。 NCID BN05729787 
  9. ^ 前橋東照宮公式サイト
  10. ^ a b 宮本他 2007, p. 33
  11. ^ アダム・カバット校中・編『江戸化物草紙』小学館、1999年、42-43頁。ISBN 978-4-09-362111-3 
  12. ^ 『近世実録全書』 7巻、早稻田大學出版部 
  13. ^ 多田克己『幻想世界の住人たち』 IV、新紀元社〈Truth In Fantasy〉、1990年、297頁。ISBN 978-4-915146-44-2 
  14. ^ 姫路城の伝説”. 姫路市. 2017年6月4日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]