鈴木規夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
No image.svg 鈴木 規夫 Golf pictogram.svg
NORIO SUZUKI
基本情報
名前 鈴木 規夫
生年月日 (1951-10-12) 1951年10月12日(68歳)
身長 171 cm (5 ft 7 in)
体重 68 kg (150 lb)
出身地 香川県坂出市
経歴
成績
優勝回数 日本ツアー:16回
2009年7月22日現在
テンプレートを表示

鈴木 規夫(すずき のりお、1951年10月12日 - )は、香川県坂出市出身のプロゴルファー2015年8月1日よりカバヤ・オハヨーグループ所属。

略歴[編集]

幼少期より近所のゴルフ場を遊び場として、芝生やラフの上を走り回っていた。高松カントリー倶楽部で戸田藤一郎のパンチショットを見てゴルフを覚え、8歳の時に父から中古の大人用クラブを与えられると、中学進学と同時にキャディーのバイトを始める。中学卒業後は高松CCヘッドプロの増田光彦に弟子入りし、坂出高校定時制に入学。高校を卒業して研修会に入り、1972年に21歳でプロテストに合格。大分県の城島高原カントリー倶楽部に所属すると、プロデビューした1973年の「ミズノプロ新人」で初優勝を飾って頭角を現す。歯切れのよいショットと攻撃的な試合運びを身上とし、"九州の若鷹"という異名をとった。1974年から1978年まで地元の九州オープンでは5連覇という記録を残し、1976年には全英オープンに予選から挑戦し、本戦では初日に日本人プレーヤーとしては史上初めてトップに立った。最終的にはセベ・バレステロスと激しく競り合って10位に入り[1]、日本人としては過去最高位となった。「日本のスズキとはオートバイだけじゃない」と地元のファンを唸らせたほか、さらに“日本人は当分勝てない”といわれた東芝太平洋マスターズ1979年1980年と2連覇。1981年にはマスターズに出場し、ワールドカップ日本代表にも2度選ばれた。1983年5月には急性肝炎で倒れて1ヶ月近く入院し、6月末から戦線に復帰したが、8年続けたシード権を失った。1984年は2試合目のくずは国際を66・67のスコアで幸先よく優勝したが、その後は体をかばうスイングになってパットにも影響し、まるで噛み合わないゴルフが続く。ペプシ宇部、九州オープン、全日空札幌と3度ベスト10入りしただけで、秋は11試合で半分以上の6試合が予選落ち。最終戦まで持ち込んで、なんとかギリギリの39位に飛び込みことが出来た。1987年10月2日東海クラシック2日目で、記録の残る1985年以降日本男子ツアー最多となる122打を記録している。だがこれは、9番ホールの欄にインの合計スコア(42)を誤記したことが原因である。

現在は社団法人日本ゴルフツアー機構理事としてツアー運営にあたり、コース監修、テレビ解説、講演、アマチュア及びプロ育成の指導にあたる。

優勝歴[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

外部リンク[編集]