軍服 (中・東欧)

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ドレスデンの軍事博物館に展示されているワルシャワ条約機構諸国の軍服およびカラシニコフ小銃英語版。手前から奥へ、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、東ドイツ、ソ連、ポーランド、チェコスロバキアの軍服

中・東欧の軍服(ちゅう・とうおうのぐんぷく)は、19世紀以降の中央ヨーロッパ東ヨーロッパ諸国における軍服の変遷について述べる。

本項目で対象とする諸国は以下の通りである。

なお、ベラルーシの軍服については軍服_(ロシア・ソ連)で扱う。

概要[編集]

19世紀~第一次大戦後に独立国家となった中・東欧諸国の軍服は、各国がかつて属していた諸国(ロシア帝国オーストリア=ハンガリー帝国オスマン帝国)の影響を受けた形で出発し、その後も、この地域に強い政治的影響力を持つ諸国の軍服の影響を受けてきた。これらの影響と、各国の伝統的要素(そのようにおのおのの国において理解されているもの)との混在が大きな特徴である。

中・東欧の軍服に影響を与えた主な国と時代潮流は以下の通りである。

  1. 第一次世界大戦前までは、汎ゲルマン主義の盟主であったドイツ軍・オーストリア軍(とくに前者は世界各国の陸軍の模範とされた国でもある)と、汎スラブ主義の盟主ロシア軍の影響が見られた。第一次世界大戦後は、ドイツの敗北やロシアの崩壊によりイギリスの影響が見られるようになる。
  2. 1930年代~40年代においてファシズムに近い権威主義的体制をとり、また軍事的にも枢軸側についた国々においては、ドイツおよびイタリアの影響を受けた。なお後者の影響は正規軍の軍服より政治結社・準軍事組織の制服においてより著しい。
  3. 第二次大戦後、これらの諸国はギリシャを除いて東側陣営(軍事面ではワルシャワ条約機構)に属した[1]ので、国によって程度の差はあれ、軍服もソ連軍の影響を受け、また社会主義の政治的イデオロギーをデザインに反映したものとなった。

東欧革命以降は、装備・機能面においてアメリカ軍、イギリス軍に代表される新しい要素を取り入れる傾向と、第二次大戦前の伝統的なスタイルに回帰する傾向が同時に進行している。前者の傾向は戦闘服に、後者の傾向は礼服に著しく、勤務服には双方の傾向が混在する。

ポーランド[編集]

ポーランド人部隊はオーストリア・ハンガリーなどの支配下においても、チャプカなど独自の軍服のスタイルを維持してきた。第一次世界大戦ではポーランド軍団英語版が編成され、歩兵部隊が「マチェヨフカポーランド語版」と呼ばれるクラッシュキャップを被るのに対し、ウーランはチャプカを被った。この軍服は、1912年よりリヴィウにて結成された独立組織ポーランド狙撃中隊ポーランド語版が1913年4月に制定したものに由来する[2]。ポーランド共和国成立後の1919年、国軍としての軍服が採用された[3]

当初肩章はドイツ式のショルダーノッチであったが、1920年にショルダーループに改められている。

将官軍帽には鉢巻部分に特有の刺繍がなされている。

1936年の服装改訂[3]で、下士卒用上衣が将校用と同一の意匠となった他、チャプカがより角ばった形となった。1937年には野戦帽も制定された。

野戦服は1968年、1971年、1989年に改正がなされた。

ウクライナ[編集]

オーストリア・ハンガリー帝国の下で創設されたウクライナ・シーチ銃兵隊は、当初陸軍の通常部隊と変わらない軍服であったが、1917年1月17日にオーストリアの規格帽を基に「マゼープィンカウクライナ語版」(イヴァン・マゼーパに由来)と呼ばれる略帽を制定した。ウクライナの独立運動は第二次世界大戦頃まで幾度となく興隆したが、その度にこの帽子はウクライナにおける軍事組織に受け継がれていった。

西ウクライナ人民共和国の軍事組織ウクライナ・ガリツィア軍英語版の「ズプチャトカウクライナ語版」と呼ばれるギザ歯の独特の意匠をした襟章で兵科を、階級は袖章で示した。ウクライナ人民共和国軍(1918年4月~12月の間はウクライナ国軍と呼称)は1918年に階級章を制定、当初は襟章で同年に肩章、翌1919年に袖章、1920年に襟章へと立て続けに変更された。軍服はいずれも「フレンチ」と呼ばれるイギリス式軍服を着用したが、建国間もないため軍装の混乱が見られる。また、ウクライナ・コサック部隊は階級章は同じだが、それぞれ独自の軍装が見られる。例として、セルデューク師団ウクライナ語版では中央アジア風のゆったりした衣服が使用された。青衣師団ウクライナ語版では青いチョハパパーハ灰衣師団ウクライナ語版ではドイツ風のフィールドグレーの前合わせが隠しボタンとなった軍服が使用された。

ウクライナ蜂起軍の肩・襟章[編集]

ウクライナ蜂起軍の軍服。襟にズプチャトカが付き、帽子にマゼープィンカ風の耳当てがつく
略帽をかぶったウクライナ蜂起軍兵士(1941年)
兵 番長 百人組旗頭 百人組組頭 師団旗頭
兵  曹  准尉 尉  大尉
中佐 大佐 少将 中将 大将
少佐 中佐 大佐 大将

現在のウクライナ軍[編集]

現代のウクライナ軍の軍服は、長らくソ連の支配下にあったことで、ロシア連邦軍のものとあまり大差ない意匠となっていた。しかし、ロシアのクリミア侵攻を皮切りとしたロシアとの紛争とそれに伴う反露感情とナショナリズムの高まりから、2016年より軍服デザインを大幅に刷新。ロシア式特有のクラウンの高い帽子は低くなり、階級章はイギリス式・ドイツ式に改められるなど、西側寄りな姿勢が見られる。一方で、階級章にズプチャトカを盛り込む、略帽としてマゼープィンカを導入、儀仗大隊ウクライナ語版などの儀仗兵の礼装としてセルデューク師団の軍装を復活させるなど、ウクライナ人民共和国時代の意匠を復古させる取り組みも見られる[4]

チェコスロバキア、チェコ、スロバキア[編集]

チェコスロバキア軍の軍服は、ロシア内戦当時のチェコ軍団に遡る。当初旧ロシア帝国軍の1907年制式ギムナスチョルカ、あるいは白軍に多く供与された英軍野戦服等を使用していたが、1917年の終わりごろから左腕に独自の階級章を用いるようになる[5]。1918年末には新生チェコスロバキア政府より国防省令第434号および補足第434/1号で着用すべき被服の規定が通達され[6]、1919年6月14日に襟章が制定された[6]。帽子は1918年ごろからギャリソンキャップのほか、1919年ごろから「ウラジオストク型」(vladivostocký model)と呼ばれる山岳帽タイプの帽子が使用されるようになる[7]。階級は下士官兵はイギリス式、将校はフランス式であった。チェコ軍団が全て帰国を終えたのちの1921年、将校用および兵用野戦服が制定される。軍服は引き続き英軍野戦服のような折襟の軍服であるが、帽子はウラジオストク型から英式の幅の広い官帽となり、オーストリア二重帝国の要素はほぼ一掃された。一方で、襟章の形状や隠しボタン式の野戦服など、フランスやドイツの影響もみられる。

将校用のVz.21/22野戦服は7つボタン、兵用のVz.21野戦服(BLŮZA VZ.21)は隠し5つボタンであったが、1930年にボタンホールが改定される(BLŮZA VZ.30)。1923年3月に礼装も制定された[8]。一方、チェコスロバキア国家憲兵隊チェコ語版は1919年10月30日の国防省令第50.916-13号では「RCS」を組み合わせた帽章など独自の要素が見られたが[9]、1921年5月27日の内務省令第9203-13号では菱形の帽章や階級の星章、鉢巻の色を除いては陸軍と大差ない形となった[10]。ヘルメットは国産のvz. 32が制定され、「キノコ」「卵」などと呼ばれていた[11]

戦後のチェコスロバキア人民軍の制服は将校は開襟、兵士は折襟で、略帽が先細りのピロートカ型になるなどソ連の要素を取り入れている。また、夏季は第1ボタンを開いて中シャツの襟を外に出す。1962年に将校の制服は帽章、ポケットのフラップの形状の改正があった他[12]、1963年に兵士の制服は開襟となった[13]。戦闘服では1960年にレインドロップカモやサラマンダー迷彩、1985年にカーキ色の単色戦闘服(vz.85)を導入したが十分な解決法とは言えず、同時期より新たな迷彩を模索していた。1992年に米軍ERDLを範とした4色迷彩を導入したが、ビロード離婚により少数がスロバキア側に出回ったのみで終わる[14]

現在のチェコ共和国軍は第1共和国時代の帽章を復古しつつも、ベレー帽など西側の要素を取り入れている。2005年より夏季制服はフランス風の生成り色となった[15]プラハ城警備隊英語版は帽章や制服などが異なる。戦闘服はvz.92迷彩の生産失敗後の1995年に導入されたものである。

ハンガリー[編集]

独立後のハンガリー王国軍の軍服は階級や軍服の裁断に旧オーストリア・ハンガリー帝国の面影を強く残しつつ、独自の変化を遂げたものとなった。1922年に採用されたもので[16]、上衣は第一次世界大戦直前に採用されていた折襟の軍服を引き継ぎ、制帽としては二重帝国時代に略帽として導入されていたギャリソンキャップを採用した(ただし、戦闘帽として庇付のものもあった[17])。制帽全面にはコカルデと山形の階級章が、左側面には逆三角形のパッチが付く。冬はカーキでウール製、夏はライトカーキのコットン製[16]

礼装としては、詰襟の肋骨服にケピ帽を採用した。ケピ帽は円形章の色をハンガリー国旗に変更したのみで二重帝国時代のものと大差ない。 戦後の1949年にソ連の影響を受けて官帽が導入され、その後上衣は開襟となった。ソ連崩壊後は、ソ連の面影を残しつつも王国時代のデザインへの回帰を進め、制帽は王国時代の制帽に庇を付けた独特のデザインとなっている。

一方空軍では、保守的な陸軍と対照的に、開襟に官帽とイギリス式の洗練されたデザインとなっており、制帽のクラウンの幅を広くするなど、敵対国であるルーマニアやチェコスロバキアに類似した外観となった。色は陸軍と同じ茶褐色だが、礼装では紺色。下士官兵は陸軍型であったが、大戦中期から将校と同型となる[17]

スイス[編集]

スイスの軍服は、その国土上、フランスとオーストリア双方の影響を受けた意匠となっている。元々州(カントン)の連合体であったスイスではカントンごとに軍服のばらつきが大きかったが、1842年の軍装通達を経て分離同盟戦争後の1852年8月27日に連邦国家の軍隊としての統一された服装規定がなされた[18]。この時点まではシングルブレストの燕尾服であったが、1860年12月21日に7つボタンのダブルブレストとなり、エポレットが廃止される。1898年に5つボタンに変更、袖のボタンが廃止され着丈も短くなった。伝統的に歩兵、擲弾兵などの通常部隊は紺色で銀ボタン、山岳猟兵は緑で金ボタンだったが[19]、第一次大戦中の1914年にフィールドグレーのシングルブレストの統一軍衣を試製導入、正式採用は3年後の17年までかかった[19]。そのため、大戦中は各個人での差異が激しく、連合軍側の圧力でアメリカから輸入したオリーブドラブの生地を使用することもあったという[19]。21年の生地の整理、1926年12月30日の細部改定を経て1940年に折襟となった[19]。このM1940は開襟にすることも可能[19]。戦後は完全な開襟となる。

ルーマニア[編集]

ルーマニアでは当初ドイツやフランスの影響が強かったが、第一次世界大戦直前にオーストリアやフランスの影響を受けた折襟のグレーグリーンの軍服を制定した。戦後はカーキ色に改められ、さらに1934年になると、イギリス軍を元にした開襟式の軍服を採用。礼装は王国らしくそのバリエーションは非常に多い。戦後は共産化に伴い、ソ連式の軍服が採用された。

1868年制定の時点では、兵・将校共通して一般部隊は紺のシングルブレスト、騎兵はカルパック帽に肋骨服、山岳猟兵英語版はダブルブレストにチロリアンハットであった。階級は袖口にV字で表し、袖口と襟は兵科色が示された。前打ち合わせには7つの金ボタンと赤のパイピングが入った。また、1861年に野戦服として茶色のダブルブレストの被服を導入、のち1930年代まで制服として使われた[20]。1912年2月にオーストリアなどの影響を受け、グレーグリーンの野戦服を導入。詰襟で襟には「petliţe săgeata」(矢飾り)と呼ばれる矢印状の徽章が付き、兵科や連隊を示した。しかし戦地では不評で、連合国から貸与されたり同盟国側から鹵獲した被服も多用された[20]。1921年、カーキ色に変更。その後数度の改正を経て1930年改正ではポケットは雨蓋のみで前打ち合わせのボタンを見せるようになったが、1941年に隠しボタンに戻し、また袖口の山型カフスを2個のボタンに変更した[21]。このM1941上衣は、将校でも腰ポケットを追加して使われた[22]。 また、このほか1934年には開襟制服が導入。将校は王冠を戴くオークの葉で囲まれた帽章、兵士は所属部隊などをつけ、鉢巻は兵科色で分けられた。 礼装は1941年4月4日の勅令第7号により着用が停止された[23]

野戦帽は1888年より「カペル」と呼ばれるオーストリア式の前後が尖った帽子が使用された。「ボネト」と呼ばれる鍔なしのタイプもあった[24]

空軍は1925年からカーキ色の折襟に官帽の制服が制定され、1930年代に紺のブレザーとなった。

ブルガリア[編集]

セルビア、ユーゴスラビア、旧ユーゴスラビア諸国[編集]

アルバニア[編集]

20世紀のアルバニアの軍服は、政治情勢の変化にともなって、同国が影響を受けている国のそれに近いものになる傾向が大きかった。

  1. 1930年代のゾグー政権下の軍服は、同時期のイタリア軍に近いものであった。
  2. 第二次世界大戦中(パルチザン戦争)~1940年代は、ユーゴスラビアのパルチザンに範をとったものであった。
  3. 1950~60年代は、ソ連軍の軍服に近いものであった。
  4. 1960年代後半からは、中国の文化大革命の影響を受け、階級章を廃止したオリーブ色の折襟の軍服(赤い星の帽章、赤い襟章)となり、70年代に中国との関係が決裂した後も、1991年の共産主義政権の崩壊まで踏襲された。
  5. 共産主義政権が崩壊した1990年代以降は、アメリカ合衆国の軍服に近いものとなっている。アルバニア国防省公式ホームページから(アルバニア語)

ギリシャ[編集]

オランダ[編集]

ベルギー[編集]

バルト三国[編集]

エストニア[編集]

ラトビア[編集]

リトアニア[編集]

参考文献[編集]

  1. ^ ワルシャワ条約機構加盟国のうち、東ドイツ国家人民軍)の軍服については、軍服_(ドイツ)#ドイツ民主共和国(国家人民軍)の軍服を参照。
  2. ^ Historia”. 2018年5月30日閲覧。
  3. ^ a b ダーマン 1999, p. 250.
  4. ^ Новая форма и знаки различия ВСУ”. 2018年1月2日閲覧。
  5. ^ Československé legie 1918-1920”. 2018年1月2日閲覧。
  6. ^ a b Dobové předpisy”. 2018年1月2日閲覧。
  7. ^ Furažky, čečenky, vydumky… Pokrývky hlavy čs. legií v Rusku 1914–1920”. 2018年1月2日閲覧。
  8. ^ Čepice pro invalidy, 1928”. 2018年1月5日閲覧。
  9. ^ Historie uniformy Čs. četnictva – Z límce na rukáv”. 2018年1月2日閲覧。
  10. ^ Historie uniformy Čs. četnictva – Jedenadvacítky po četnicku”. 2018年1月2日閲覧。
  11. ^ Palebná podpora”. 2018年5月2日閲覧。
  12. ^ STEJNOKROJE DŮSTOJNÍKŮ A PRAPORČÍKŮ Z POVOLÁNÍ”. 2018年1月2日閲覧。
  13. ^ STEJNOKROJE VOJÁKŮ ZÁKLADNÍ SLUŽBY”. 2018年1月2日閲覧。
  14. ^ Maskovací vzor 95 – část 1.”. 2018年1月2日閲覧。
  15. ^ Blůza armádního generála, 2010”. 2018年1月5日閲覧。
  16. ^ a b Kidd 2013, p. 159.
  17. ^ a b ダーマン 1999, p. 232.
  18. ^ Uniformen der Schweizer Armee ab 1852”. 2018年5月2日閲覧。
  19. ^ a b c d e Kidd 2013, p. 116.
  20. ^ a b Kidd 2013, p. 115.
  21. ^ ダーマン 1999, p. 240.
  22. ^ ダーマン 1999, p. 239.
  23. ^ Ofiţerii români, ţinta lunetiştilor inamici din cauza unifomei”. 2018年5月11日閲覧。
  24. ^ ダーマン 1999, p. 241.

脚注[編集]

  • ピーター・ダーマン 著、三島瑞穂・北島護 訳『ミリタリー・ユニフォーム7 第2次大戦各国軍装全ガイド』並木書房、1999年。ISBN 978-4-89063-107-0 
  • R Spencer Kidd (2013). MILITARY UNIFORMS IN EUROPE 1900 - 2000 Volume One. lulu.com. ISBN 978-1291187441 

関連項目[編集]